「人生大学」の教授に ③
関西の学会員は、直接の対話とともに、御書講義を通して池田の存在を知っていった。
「池田先生は『湿れる木より火を出(いで)し 乾ける土より水を儲けんが如く』などの有名な御文の講義はもちろんですが、難しい『当体義抄』や『総勘(そうかん)文抄』などを通して”仏法の生命論”をがっちり講義されました」と栗原明子(関西婦人部総主事)は語る。
「当時の関西には信心歴の浅い人しかいません。折伏も、選挙の支援も、根本の精神はすべて御書から教えていただきました」。
「教学の徹底的究明ほど、最大事はなし」(1955年12月19日)──池田が日記にこう書いたのは、「当体義抄」を学んだ日のことである。その2週間後。
「5時より、関西本部にて、『当体義抄』の講義。つづいて、男女班長の指導会。関西本部常住の大御本尊に、祈る。種々」(56年1月4日の日記)。
講義に参加した京都の入澤久枝が、当時の手記を残している。
「厳寒のその日、私は国鉄鶴橋駅の改札をくぐり抜け、コートの襟を立てて関西本部へと向かっていた」。
この時池田は28歳だが、「とても二十代には見えなかった」という。
「難解な御文が、いとも簡単に、さらさらと解されるのです。私はもう喜びでいっぱいだった」
「夫と死別し、3人の幼子を抱えて格闘していた心に、幸の灯が確としてともった・・・・・ ”こんな世界があったのか!。まさに暗夜に一筋の閃光を見た思いであった」。
講義の場では質問が次々と飛び出したが、次の会合の時間が迫り、途中で打ち切らざるをえなかった。
この日、池田が灯し始めた光は、関西の学会員を社会変革の使命に目覚めさせ、半年後の「”まさか”が実現」に結実する。白木義一郎が立候補した「大阪の戦い」は、それまでの常識では絶対に勝てないと思われていた。
4日後の日記にはこうある。
「午前中、在宅。背痛み、微熱あり。37度6分との事。365日、胸と背の痛み消えず。健康になりたい。これのみが全人生だ」(同1月8日)。
さらに2日後。「心身ともに苦し。自己の生命に対しては、自分が最も名医であるかも知れぬ」(同1月10日)。
「大阪の戦い」を抱えて、なによりもまず「自分との闘い」が続いていた。