吉野ヶ里遺跡 | ejiratsu-blog

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三内丸山遺跡

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(佐賀県吉野ヶ里町~神埼市)

 

 脊振(せふり)山地南麓の吉野ヶ里丘陵に位置し、その南方には、佐賀平野が広がり、有明海へと続く、弥生通期(紀元前3~紀元後2世紀)の環壕(かんごう)集落跡で、特に、弥生後期(1世紀以降)には、集落が大規模化しています。

 環壕は、空堀(からぼり、壕)で、外壕(そとぼり)内では、北側には、北墳丘墓・甕棺墓(かめかんぼ)列、内壕(うちぼり)+内々壕のある北内郭(ないかく)と、内壕のある南内郭が、配置され、物見櫓(ものみやぐら)は、北内郭が1棟で、南内郭が4棟と、推測されています。

 外壕内の、南側には、高床倉庫・市や、一般庶民(下口/げこ)の竪穴住居(村)・祭壇が、配置されていたので、北が上位、南が下位といえます。

 空堀の内外には、防御用の土塁・木柵・逆茂木(さかもぎ)が設置され、東側の田手川(たでがわ)が、天然の水堀(みずぼり、濠)になっています。

 北内郭には、祭政の場で、掘立柱の巨大な主祭殿や、祭司(巫女/みこ)の高床住居が、配置され、南内郭には、王・重臣(支配者=大人/だいじん)の竪穴住居や集会屋、かれらの食事を作るための煮炊き屋が、配置されていたので、北・南で聖・俗を分別していたようです。

 「魏志倭人伝」によると、宮室・楼観・城柵が厳かに設けたとあり、大人・下口・生口(せいこう、捕虜・戦争奴隷)の3階層が登場し、この遺跡では、茜(あかね)の赤・巻貝の紫で染色した絹や麻が出土しているので、衣服は、大人が絹、下戸が麻を着用していたとみられています。

 北墳丘墓は、弥生中期(紀元前1世紀)の甕棺墓14基で、有柄把頭飾銅剣・ガラス製管玉が出土しているので、大人用の墓地、甕棺墓列は、弥生中期の下戸用の墓地で、甕棺は、九州北部特有の埋葬形式です。

 北墳丘墓と南祭壇を結んだ直線は、北墳丘墓前面の祠堂・立柱と、北内郭の主祭殿の、中心を通るので、軸線が意識されていたようです。

 

▽弥生前期

 

▽弥生中期

 

▽弥生後期

 

▽北内郭

 

▽南内郭

 

▽軸線

 

 なお、遺跡のある、吉野ヶ里歴史公園へは、福岡市からだと、JR博多駅から吉野ヶ里公園駅まで、直通特急が1日1本あり、行きは、博多駅9時32分発(特急みどり+ハウステンボス15号)、帰りは、吉野ヶ里公園駅16時00分発(特急みどり+ハウステンボス40号)で、36分の乗車です。

 ちなみに、JR九州の特急には、特定区間内で、「2枚切符」という割引制度があり、博多駅~佐賀駅での利用が可能です(2枚で2500円なので、1人あたり1610円が1250円に割引)。