三内丸山遺跡 | ejiratsu-blog

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吉野ヶ里遺跡

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(青森市三内丸山)

 

 青森湾に流れ込む、沖舘川の河岸段丘の南岸台地上に位置し、縄文前期中頃(約5500年前)から中期末(約4000年前)にかけての、大規模集落跡で、最大で約500人が、生活していたと推定されています。

 幅5~14mの掘削・整備された道が、南‐南東‐東と、集落を貫通し、中央部の、南東の道の両側には、建物・住居群や、南北盛土・子供の墓等が、その両脇部のうち、南の道(370m)の片側には、環状配石墓が、東の道(420m)の両側には、大人の墓が、配置されていました。

 この周囲の植生は、集落形成期の以前と以後には、ナラ・ブナの自然林が主流でしたが、集落形成期には、クリ・クルミの人工林になり(DNAが均一)、特にクリ林を、食料用・土建用に栽培・管理していたとみられます。

 また、出土した動物の骨や植物の種から、ノウサギ・ムササビ、ガン・カモ、ブリ・サメ、ヤマブドウ・サルナシ・ニワトコ(果実酒用?)、クリ・オニグルミ・トチ等を、狩猟・採集し、骨角器の漁具も、多数発見されているので、丸木舟で青森湾へ、漁労もしていました。

 さらに、新潟~富山産のヒスイの大珠・完成+未完品・原石や、北海道北部産の黒曜石の石槍・石匙・原石、岩手北部産のコハクの原石、秋田北部産の天然アスファルト等も、出土しているので、人・物・情報・技術が、広域で交流・交易・交換し、集落内で自給自足できなければ、集落外から調達しました。

 縄文中期には、網目模様で縦長バケツ形の、円筒土器が、北海道南部~東北地方北部で分布し、そこでは、北海道式石冠(せっかん、ソナエモチ形の磨石)・十字形の板状土偶・青龍刀形石器(先がナギナタ形の石刀)等の出土も、共通しているので、広域の文化圏と位置づけられます(円筒土器文化圏)。

 

‐巨木6本柱建物

 直径約1mのクリ製の柱穴跡の間隔は、すべて4.2mで統一され、35cm(縄文尺)の倍数を、寸法の単位としていたようで(4.2m=35cm×12)、そうしていたのは、木材の伐採・運搬の計画が、スムーズにできるからです。

 35cmの縄文尺は、古代朝鮮・日本で使用されていた、高麗(こま)尺=約35.6cm(高麗尺=唐尺×1.2、唐尺=約29.6cm)と、ほぼ一致します。

 現在の木造住宅建築でも、約3.64m(2間=12尺、1尺=約30.3cm)を基準に計画しがちで、それは、梁等の部材寸法が、それに合わせて、あらかじめ作られているからで、12は、2・3・4・6で割り切れるため、扱い易い数です(縄文期に登場する数の大半は、2・3・4・6です)。

 巨木6本柱の形態は、建物説と列柱説が、用途は、神殿説・物見ヤグラ説・モニュメント説等が、あるようです。

 稲吉角田遺跡(鳥取県米子市)出土の弥生中期・紀元前1世紀の大壺土器には、船とともに、超高床建物の線刻画が、長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)の古墳前期末・4世紀後半の大型建物遺構には、巨木4本柱跡+掛橋用柱跡が、みられ、出雲大社も、かつて全高16丈(約48m)もありました。

 これら望楼的な高所施設は、超高床+屋根付だったようなので、この巨木6本柱建物も、そうだったともいえ、桜町遺跡(富山県小矢部市)のように、梁を柱の貫穴で連結していたと、推定されています。

 なお、6本柱の長軸線は、夏至の日の出と冬至の日の入の方向を、指し示しているという説がありますが、両者は、多少ズレており、暦に太陽を利用する際には、建物の軸線より、周囲の山を、目印にしたほうが、わかりやすいでしょう。

 そうなると、巨木6本柱建物は、水上交通・交易の目標物(ランドマーク)だったか、地上からだと、クリの人工林等で、日の出・日の入や波の状態が、見えにくいので、高所に登って、周囲の山・海を確認するため、おおむね夏至の日の出と冬至の日の入の方向にしたのか、等と思い巡らせられます。

 

‐大型竪穴建物

 一般的な竪穴住居は、直径3~4m程度の平面ですが、それよりも大型の竪穴建物が、11棟発見されており、そのうち、最大の約10×32mの長円形平面の竪穴建物が、復元され、各時期に約1棟の割合なので、集会場・共同作業場・冬場の共同住居等と、推定されています。

 

‐掘立柱建物群

 切妻屋根2棟・寄棟屋根1棟が、復元されていますが、形態が、高床式か平地式か、用途が、人用(住居的)か物用(倉庫的)かは、不明です。

 

‐北盛土・南盛土

 土と廃棄物を積み重ねて作られた、周囲よりも2m程度高い、南北とも、勾玉形平面の丘で、土器(円筒土器)・土偶・石器等が、ほとんどで、わずかに、ヒスイ・コハクも、出土しました。

 土偶は、完全な形で出土したり、破片どうし接合できるのが、極稀なので、土器・祭祀具等の使い終わった道具を、不完全な形にし、火を焚いて供養・盛土して、いったん地中に戻し、それらの再来を、希求していたと、みられます。

 

‐竪穴住居群

 当時の屋根葺は、不明なので、茅葺・樹皮葺・土葺の、3種の屋根が、復元されていますが、縄文期に茅を、個々の住居にまで、大量に調達できたのかが、やや疑問です。

 子供の墓は、大人の墓とは別所の、住居に接近して配置し、遺体が、口・底を打ち欠いたりした土器(埋設土器)の中に、安置・埋葬されています。

 

‐環状配石墓

 直径4.2m(縄文尺35cm×12)の範囲内で、一般の大人や子供とは、別所に埋葬されているので、集落の有力者の墓とみられ、当時から、地位の上下関係が、多少あったようです。

 

‐大人の墓

 大人の墓は、有力者や子供とは、区別され、楕円形の土坑墓に埋葬し、穴底は、傾斜しており、道と反対側が、やや高いので、そこが頭の位置とみられ、2列の遺体が、道に向かい合うように、配置されています。