中江兆民「続一年有半」読解7~2章(14)-(16) | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

●(14)記憶

 

・記性または記憶は精神の一方面で、総(すべ)て五官の窓から入り来(きた)る外物の絵画、即ち影象を蓄えてこれを消化し、これを咀嚼(そしゃく)し、これを整列し、新旧を別ち各々歳月日時を附して、他日の用に備うる能力である。記性の強弱は或点までは吾人(ごじん)人類賢愚の別を為(な)す財料の重(おも)なるものとなって居る。彼れ白痴(はくち)者病狂者は多くは記性の完全ならざる徴候を見(あら)わして居る。ハツクスレー、リツトレーの属がその記性中に蓄蔵した意象の数は、凡(およ)そいくばく千万億であったろう。而(しか)して田舎の翁媼(おうおう)の如きはその有する所ろの影象たる、米麦その他の物類に過ぎないのである。その優劣果して如何(いかん)である、記性中の意象の多少は、あたかも商家庫中品物の多少もて貧富を別つと一般である。

 

《記憶力・記憶は、精神の一方面で、すべて、5官(目・耳・鼻・舌・皮膚の5感覚器官)の窓から入ってくる外物の絵画、すなわちイメージを蓄積して、これを消化し、これをかみくだいて味わい、これを整理し、新・旧を分別し、各々に、年月・日時を付け、いつかの使用に備えた能力である。記憶力の強弱は、アル点まで、私達人類の賢明・愚鈍の分別をする材料の、重要なものとなっている。あの知的障害者・精神病者は、多くが記憶力の完全でない兆候を現わしている。ハクスリー(イギリスの生物学者)・リトレ(フランスの文献学者)の同属が、その記憶力の中に蓄蔵した観念の数は、だいたい、どれほど多数であったろう。そうして、田舎の爺さん・婆さんのようなものが、そのもっているイメージは、コメ・ムギ・その他の物類にすぎないのである。その優劣は、本当に、(その人)次第である。記憶力の中の観念の多少は、あたかも商店の倉庫の中の品物の多少によって、貧富を分別するのと、同様である。》

 

・記性はまた夢と密接の関係を有して居る。夢なるものは記性中にある意象を引出して、現にその意象の源頭たる実物に接するが如く自信するのである。即ち死(しん)だ父母または友人に係る影象を引来る(ひききた)って、その夢の間はあたかも直ちにその生時(せいじ)に父母に逢い友人に逢うが如くに信じて、決して死人としてこれを遇(ぐう)せぬのが例である。

 

《記憶は、また、夢と密接な関係をもっている。夢なるものは、記憶力の中にある観念を引き出して、現実に、その観念の根源である実物に接するように、自分を信じるのである。つまり死んだ父母・友人に関係する観念を引いてくるのに、その夢の間は、あたかも直接、その生きている時に父母と会い、友人に会うようなものを信じて、けっして死んだ人として、これと会わないのが、例である。》

 

・また脳神経強健の時は、多くは遠い過去の事、即ち幼時の事を夢みるので、日間遭遇(そうぐう)した所ろの事柄は、殊(こと)にこれが誘因と為(な)るに過ぎないのである。乃(すなわ)ち場所の如きでも、多くは童子の時釣游(ちょうゆう)した処とか幼時居住した家とか夢みることが多くある。これに反して脳神経の疲労した時は、直ちに近事の事を近事として夢みるのである。これは神経過敏になって日常遭遇する所の事物でも、深く神経を動かしてここに至ると見ゆるのである。

 

《また、脳神経が強健な時には、多くが遠い過去の事、つまり幼少時の事を夢見るので、その日に遭遇した事柄は、特に、これが誘因となるにすぎないのである。つまり場所のようなものでも、多くが児童の時、釣り遊びをした場所とか、幼少時に居住した家とかを、夢見ることが多くある。これとは反対で、脳神経が疲労した時には、直接、近頃の事を、近い事として夢見るのである。これは、神経が過敏になって、日常に遭遇する事物でも、深く神経を動かして、ここに至るように見えるのである。》

 

 

●(15)意象の聯接

 

・また意象(いしょう)の聯接(れんせつ)なる者がある、乃(すなわ)ち甲の意象が乙の意象を牽引(けんいん)し、丙に丁に波及するのである。

 

《また、観念の関連・接続なるものがある。つまり甲の観念が、乙の観念を引き寄せ、丙に・丁に波及するのである。》

 

・夢中で見る所ろはこの意象(いしょう)の聯接(れんせつ)に由(よ)ることが多いので、即ち遽(にわか)に考えれば極(きわめ)て縁由(えんゆう)のないような意象でも、その同時に記性中に入(はいっ)たとか、相継(つい)で入たとか、必ず幾分の因縁があったがために、記性中に相並びて蓄蔵せられて居たのがその夢に由りてまたは思考に由りて惹(ひき)出される時に、牽聯(けんれん)して出て来るのである。彼(か)の狂病者が甲の事を呶々(どうどう)するかと思えば、また乙の事を呶々して、その間少(すこし)も縁故がないようではあるが、彼れ病者自身にあっては恐(おそら)くはこの意象の聯接に由りてかくそれからそれと移り往くのであろう、狂疾(きょうしつ)を専門とする医人は宜(よろし)く深く研究すべきである。

 

《夢の中で見ることは、この観念の関連・接続によることが多いので、つまり速やかに考えれば、とても由縁(ゆえん)のないような観念でも、それと同時に記憶力の中に入ったとか、相継いで入ったとか、必ず、いくらかの因縁があったために、記憶力の中に相互に並列・蓄蔵させられていたのが、その夢によって・思考によって、引き出される時に、関連して出てくるのである。あの精神病者が、甲の事を、やかましくいったかと思えば、また、乙の事を、やかましくいって、その間は、少しも縁故がないようではあるが、あの病者自身にあっては、おそらく、この観念の関連・接続によって、このように、それから、それへと、移り行くのであろう。精神の病気を専門とする医者は、深く研究するのがよい。》

 

・また記憶は意象(いしょう)の聯接(れんせつ)に由(よ)りて成立ちて居るというでも可(い)いようである。幼時書を読みて記憶に存せんとする時に音訓の似たものまたは形質の類したものを切掛(きっか)けとして、記憶を助けることがある、これ正(まさ)に意象聯接に藉(よ)るのである。推理の事、想像の事は、前に已(すで)に叙述したので最早(もはや)ここに言うの必要はない。

 

《また、記憶は、観念の関連・接続によって、成立しているというのでも、可の(よい)ようである。幼少時に書物を読んで、記憶に残存しようとする時に、字音の似たもの・形質の類似したものを、きっかけとして、記憶を助けることがある。これは、まさに観念の関連・接続にかこつけるのである。推理の事・想像の事は、以前すでに、順を追って述べたので、もはや、ここでいう必要はない。》

 

 

●(16)断行、行為の理由・意思の自由

 

・また断行の一事について古来相応に議論があって、これに由(よ)りて行為の理由と意思の自由との二項目が出来て、随分(ずいぶん)争論の種となって居る。

 

《また、断行の一事について、古来、それなりに議論があって、これによって、行為の理由と、意思の自由の、2項目が出てきて、とても論争の種になっている。》

 

・行為の理由とは、吾人(ごじん)が何か為(な)さんとするの場合には必ず一定の目的がある。この目的が乃(すなわ)ち云々(しかじか)せしめまたは斯々(かくかく)せしめるので、これ正(まさ)に行為の理由である。而(しか)してこの行為の理由即ち目的がただ一箇であればそれまでだが、二箇以上である時には、わが精神は果(はたし)て自身に撰択してその一(いつ)を取り、少(すこし)も目的から制せらるることはないのであるか。即ちわが精神にはいわゆる自由の意思があるか、またさはなくて目的一箇なる時に論なく二箇以上が前に臨(のぞみ)来(きた)った時において、わが精神はその一を択ぶようでも、実はその中の尤(もっと)もわが精神を誘う力のあるものが、他の一を排斥して己(おの)れを択ばしたのであるか。即ち吾人が自ら択んだのではなくて、目的の誘導力が吾人をして択ばしめたのであるか。これを要するに、行為の理由が実に全権を有して居て、意思の自由は名のみであるか、またはた意思の自由は真に存在して、目的は吾人の撰択に任(まか)されつつあるか、これ実に大困難事である。

 

《行為の理由とは、私達が何かをしようとする場合には、必ず一定の目的がある。この目的が、つまりシカジカさせ、カクカクさせるので、これは、まさに行為の理由である。そうして、この行為の理由、つまり目的が、ただ1個だけであれば、それまでだが、2個以上ある時には、わが精神は、本当に、自身で選択して、その1つを選び取って、少しも目的から制限されることはないのであるのか。つまり、わが精神には、いわゆる自由の意思があるのか。また、そうではなくて、目的が1個である時には、異論がなく、2個以上が目前に臨んできた時において、わが精神は、その1つを選ぶようでも、実際には、その中の最も、わが精神を誘う力のあるものが、他の1つを排斥して、自己を選ばせたのであるのか。つまり私達が、自身で選んだのではなくて、目的の誘導力が、私達に選ばせたのであるのか。これを、要するに、行為の理由が、実際に全権をもっていて、意思の自由は、名ばかりであるのか。また、それとも、意思の自由は、本当に存在して、目的は、私達の選択に任されつつあるのか。これは、本当に大困難な事である。》

 

・古来宗旨家及び宗旨に魅せられたる哲学家は、皆意思の自由を以て完全のものとなして居る。而(しか)して吾人(ごじん)の行為を出(いだ)すには、その目的とすべき所ろのものが二箇三箇前に臨んでも、吾人は自由自在にその一(いつ)を択びて少(すこし)もこれが制を受けない、これ正(まさ)に自由の尚(たっと)ぶべき所ろである。もし左はなくて吾人が常に目的即ち行為の理由のために誘われて、それに由(よ)りて断行するとした時は、善を為(な)しても必ずしも賞すべきでない、悪を為しても必ずしも罰すべきでない、宛然(えんぜん)磁石と鉄との如く、思うに任(まか)せぬ事と言わねばならぬ。吾人の精神は決してかかる薄弱なものではないと言(いっ)て居る。

 

《古来、宗教家・宗教の主旨に魅了された哲学者は皆、意思の自由を、完全なものとしている。そうして、私達の行為を出すには、その目的とすべきものが、2個・3箇と目前に臨んでも、私達は、自由自在に、その1つを選んで、少しも、これが制限を受けない、これは、まさに自由の尊重すべきことである。もし、そのよう(左様)ではなくて、私達が、いつも目的、つまり行為の理由のために誘われて、それによって断行するとした時には、善をしても、必ずしも賞賛すべきではない。悪をしても、必ずしも刑罰すべきではない。似ているのは、磁石と鉄のようなもので、思うように任せていない事といわなければならない。私達の精神は、けっして、こんな薄弱なものではないといっている。》

 

・これ一応尤(もっと)もである。吾人(ごじん)の行為が一々目的に誘致せられて、自然に云々(しかじか)し自然に斯々(かくかく)するとした時には、吾人の精神はあたかも風に従う柳の如くで、極(きわめ)て価値のないもののように思われる。けれども深く事項を研究したならば、奈何(いかん)せん、実際意思の自由というものは極て薄弱なものである。

 

《これは、だいたい、もっともである。私達の行為が、一々目的に誘致させられて、自然にシカジカし、自然にカクカクするとした時には、私達の精神は、あたかも風にしたがうヤナギの木のようで、とても価値のないもののように思われる。けれども、深く事項を研究したならば、どうだろうか。実際、意思の自由というものは、とても薄弱なものである。》

 

・近く譬(たとえ)を取れば、ここに酒一樽と牡丹餅(ぼたもち)一碟(さら)とがあるとせよ。上戸(じょうご)は必ず酒樽を取るであろう、下戸(げこ)は必ず牡丹餅を取るであろう。もしさはなくてその上戸が故(ことさ)らに意表(いひょう)に出(い)でて牡丹餅を取(とっ)たとすれば、これは必ず一座の様子を見てかくしたもので、やはり自己以外に行為の理由があって、純然意思の自由から割出したのではないのである。もしまた上戸が他にためにする所ろもないのに、自分の意思から平生(へいぜい)に反して牡丹餅を取たとすれば、これ意思の自由とは意味のない事にならねばならぬ。

 

《近くで例えを取り上げれば、ここに、酒の1樽と、ボタモチ1皿が、あるとせよ。上戸(酒の飲める・好きな人)は、必ず酒樽を選び取るであろう。下戸(酒の飲めない・嫌いな人)は、必ずボタモチを選び取るであろう。もし、そうではなくて、その上戸が、故意に、意表を突いて、ボタモチを選び取ったとすれば、これは、必ず一座の様子を見て、そうしたもので、やはり、自己以外に行為の理由があって、純粋な意思の自由から割り出したのではないのである。もし、また、上戸が、他のためにすることもないのに、自分の意思から、普段に反して、ボタモチを選び取ったとすれば、これは、意思の自由とは、意味のない事にならなければならない。》

 

・また道徳に渉(わた)る目的が二箇あって前に臨み来(きた)ったとせよ、即ちその一(いつ)は明(あきらか)に正で、その一は明に不正で、その中の一に決すれば法律若(もし)くは道徳の罪人になるというが如き場合では、ソクラットや孔丘(こうきゅう)は直ちにその正なる者に決するであろう、盗蹠(とうせき)や五右衛門(ごえもん)は直ちにその不正なる者に決するであろう。啻(ただ)にこれのみでない、ソクラットや孔丘は、たとい洒落(しゃれ)に物数奇に、一たび故(ことさ)らにその不正なる者を取ろうとしても、必ず自(みずか)ら忍ぶことが出来ないで、必ず竟(つい)にその正なる者を取るに相違ない。これは即ちソクラット、孔丘、盗蹠、五右衛門の意思に自由はない証拠である。

 

《また、道徳に関わる目的が2個あって、目前に臨んできたとせよ。つまり、その1つは、明らかに正で、もう1つは、明らかに不正で、その中の1つに決定すれば、法律・道徳の罪人になるというような場合では、ソクラテス・孔子は、すぐに、その正なるものに決定するであろう。盗跖(春秋時代の魯/ろの盗賊の親分)・石川五右衛門(安土桃山時代の盗賊の首長)は、すぐに、その不正なるものに決定するだろう。ただ、これだけではない。ソクラテス・孔子は、たとえ、シャレ・モノズキ(物数寄)に、一度故意に、その不正なるものを選び取ろうとしても、必ず自分で耐え忍ぶことができないで、必ず、結局、その正なるものを選び取るに相違ない。これは、つまりソクラテス・孔子・盗跖・石川五右衛門の意思に、自由がない証拠である。》

 

・しかればソクラットや孔丘は鉄に惹(ひ)かれる磁石の如きもので、別に聖人とか賢人とか称賛すべきでないのであるか、盗蹠、五右衛門も同(おなじ)く鉄に惹かるる磁石であって、これまた憎むべきではないのであるか。否々々、彼らは彼らの素行において、正(まさ)に褒(ほう)すべきと貶(へん)すべきとの別がある、彼らの平生(へいぜい)慎独(しんどく)の工夫の有無において、正に賞すべきと罰すべきとの別がある。ソクラット孔丘は、平生身に修め行を礪(みが)くの功で、竟(つい)に善にあらざれば為(な)さんと欲するも為すに忍びざるまでに、良習慣を作り来(きた)って居る処が、これ正に貴尚(きしょう)すべきである。これに反して盗蹠五右衛門は、悪事を好むこと食色(しょくしき)の如き平生の悪習慣が、正に憎むべきである。故に吾人(ごじん)の目的を択ぶにおいて果(はたし)て意思の自由ありとすれば、そは何事を為すにも自由なりと言うのではなく、平生習い来ったものに決するの自由があるというに過ぎないのである。

 

《それならば、ソクラテス・孔子は、鉄に引っ張られる磁石のようなもので、別に聖人とか、賢人とか、称賛することができないのであるのか。盗跖・石川五右衛門も、同様に、鉄に引っ張られる磁石であって、これも、また、憎悪することができないのであるのか。いやいやいや、彼らは、彼らの普段の品行において、まさに、ほめるべきと、けなすべきの、分別がある。彼らの普段の慎独(独りの慎み)の工夫の有無において、まさに賞賛すべきと刑罰すべきの分別がある。ソクラテス・孔子は、普段の修身・自分みがき(礪行/れいこう)の功労で、結局、善でなければ、そうしたいとするのに、耐え忍べないまでに、良い習慣を作ってきていること、これが、まさに尊貴することができるのである。これとは反対に、盗跖・石川五右衛門は、悪事を好むことが、食欲・性欲のようなもので、普段の悪い習慣が、まさに憎悪することができるのである。よって、私達の目的を選択することにおいて、本当に、意思の自由があるとすれば、それは、何事をするにも自由なのだというのではなく、普段、習得してきたものに、決定する自由があるというにすぎないのである。》

 

・もし行為の理由即ち目的物に少(すこし)も他動の力がなくて、純然たる意思の自由に由(より)て行いを制するものとすれば、平生(へいぜい)の修養も、四囲(しい)の境遇も、時代の習気も、およそ気を移し体を移すべき者は皆力なきものとなり了(お)わるであろう。これは歴史の実際において打消されて居る。

 

《もし、行為の理由、つまり目的物に、少しも他を動かす力がなくて、純粋な意思の自由によって、行為を制限するものだとすれば、普段の修養も、四周の境遇も、時代の慣習も、だいたい気を移し、体を移すことができるものは、すべて、力がないものとなって、終了するであろう。これは、歴史の実際において、打ち消されている。》

 

・これ故に人をして道徳的二個以上の事項が目前に臨む時に、必ずその正なる者について不正なる者を避けしめようとするのには、幼時よりの教育が極(きわめ)て大切である。平時交際する所ろの朋友(ほうゆう)の選択が大(おおい)に肝要である。もしかくの如き修養なくして漫然事に臨んだ日には、その不正の者に誘惑されないのは罕(ま)れなのである。生知(せいち)安行(あんこう)の大聖人と、移らず済度すべからざる下愚(かぐ)とのほかは、平時の修養如何(いかん)に由(よ)りて善にも赴(おもむ)き悪にも赴むくこととなるのである。我れに意思の自由があるといって、叨(みだ)りに自ら恃(たの)みて事に臨めば、その邪路に落ちないものはほとんど希(ま)れなのである。即ち強(ごう)窃盗の罪人が下層社会に多くて、詐偽(さぎ)贋造(がんぞう)の罪人が中産以上に多いのは、その境遇階級が乃(すなわ)ち然(しか)らしむのである。意思の自由を軽視し行為の理由を重要視して、平素の修養を大切にすることが、これ吾人(ごじん)の過(あやま)ちを寡(すくな)くする唯一手段である。

 

《これだから、人に、道徳的な2個以上の事項が、目前に臨む時には、必ず、その正なるものにつきしたがって、不正なるものを避けさせようとするのは、幼少時からの教育が、とても大切である。普段に交際する友人の選択が、大いに重要である。もし、このような修養がなくて、ぼんやりと、事態に臨んだ際には、その不正のものに誘惑されないのは、まれなのである。生知安行(生まれながらに知っていて、安らかに行う)の偉大な聖人と、正へと移らずに救済することができない大愚か者等は、平時の修養次第によって、善にも向かい、悪にも向かうことになるのである。私に意思の自由があるといっても、無闇に、自分を頼りにして、事態に臨めば、その邪道に落ちないものは、ほとんど、まれなのである。つまり強盗の罪人が、下層社会に多くて、詐欺・偽造の罪人が、中産階級以上に多いのは、その境遇・階級が、つまり、そのようにさせるのである。意思の自由を軽視し、行為の理由を重要視して、普段の修養を大切にすることが、この私達の過失を少なくする唯一の手段である。》

 

 

(つづく)