中江兆民「続一年有半」読解6~2章(8)-(13) | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

●(8)主観

 

・主観とは、吾人(ごじん)が事物に対して視聴し若(もし)くは思考判断することがあっても、その事物が真に外間(がいかん)に存在するのでなくて、ただこの観念の主たる吾人の精神の構造、自(おのずか)らこれありと認むるように為(な)され居るが故に、かくは存在するかの如く思惟するという説である。即ち或る論者の意において、空間、時の二者は正(まさ)に主観的である、即ち実際に存在するのではないのである。

 

《主観とは、私達が、事物に対して、見聞・思考・判断することがあっても、その事物が、本当に、外の間に存在するのではなくて、ただ、この観念の主である私達の精神の構造は、自然に、これがあると認識するようにされているために、こう存在するかのように、思惟するという説である。つまりアル論者の意思において、空間・時間の2者は、まさに主観的である。つまり実際に存在するのではないのである。》

 

 

●(9)客観

 

・客観とは、外間(がいかん)現(げん)にその物があって、その影象(えいしょう)を吾人(ごじん)の精神に写し来(きた)るのである、吾人の、空間、時の二者における、正(まさ)に客観的である、即ちこの二者儼然(げんぜん)存在して居るとの説である。

 

《客観とは、外の間で、現実に、その物があって、そのイメージを私達の精神に写し出すのである。私達の空間・時間の2者における、まさに客観的である。つまり、この2者が、確固として存在しているとの説である。》

 

・しかし彼れ奇を闘(たたかわ)し新を標する哲学の大家先生連にあっては、主観客観の別はなかなか箇様(かよう)の無造作な訳ではない、嗷然(ごうぜん)聚訟(しゅうしょう)して底止する所ろを知らない。乃(すなわ)ち正(まさ)にいわゆる道近(ちかき)にあり之(これ)を遠きに求むるので、吾人(ごじん)は箇様の物数奇(ものずき)を為(な)す必要はない。

 

《しかし、あの奇異を闘わせて新しさを標榜する、哲学の大家の先生連中にあって、主観・客観の分別は、なかなか、このような無造作なわけではない。やかましく争議して行き止まることを知らない。つまり、まさに、いわゆる道が近くにあるのに、これを遠くに求めることで、私達は、このようなモノズキ(物数寄)をする必要はない。》

 

・吾人(ごじん)を以てこれを言えば、およそ意象の過半、否な殆(ほとん)ど全数は皆客観的で、而(しか)してまた主観的である。もしそれ純然たる主観的は、病狂者の目に幻出する種々の浮動物、及び宗教家のいわゆる独立不滅の霊魂等の如く、実際その物なくしてただ或る者の精神にのみ影出せらるるものをいうのである。純然たる客観的ともいうべきは、外間(がいかん)実にその物ありて、而して吾人の精神いまだこれを省知(せいち)し得ないものをいうべきである。惟(おも)うにかくの如き者、果(はたし)て実際あるであろうか、例えば光温電の分子如きはこの中に入れて良いのである、その他は客観主観相映じて両鏡の如くして、始(はじめ)て学術の強固なるを得(う)べきである。

 

《私達によって、これをいえば、だいたい観念の過半、いや、ほとんど全数は、すべて、客観的で、そうして、また、主観的である。さて、純粋な主観的ならば、精神病者の目に、ぼんやりと出現する、様々な浮遊物、または、宗教家のいわゆる独立不滅の霊魂等のように、実際には、その物がなくて、ただアル者の精神にだけ、映し出されるものをいうのである。純粋な客観的ともいうことができるのは、外の間に、実際には、その物があって、そうして、私達の精神に、まだこれを内省・承知し得ていないものをいうことができるのである。思うに、このようなものは、本当に実際に、あるのであろうか。例えば、光・温度・電気の分子のようなものは、この中に入れてよいのである。その他は、客観・主観が相互に映し合って、両鏡のようにして、はじめて、学術が強固であることを得ることができるのである。》

 

・主観的の説を主張するのが甚(はなはだ)しくて、終(つい)に天下過半の事物、否なほとんど全数を挙げて客観的には存しないでただ主観的にのみ存するとする者、即ちいわゆる懐疑派である、その最も極端に騁(は)せたのは、ピロニズム派である。都(すべ)て哲学者の多くは天姿高邁(てんしこうまい)で奇を好むより、従前の途轍(とてつ)に循(したが)うのを屑(いさぎよ)しとしない。異を立て新を衒(てら)わんとして思索を凝らし、遂に目前無造作の事物でも非常に奇怪視して、いわゆる謬巧(びゅうこう)錯雑(さくざつ)の言を為(な)し、自分も知らず識(し)らずの際、邪路に陥(おちい)りて自(みずか)ら出ること出来なくなるのが往々である。吾人(こじん)は務(つとめ)てこの弊を去ろうと欲するので、古人の聚訟(しゅうしょう)した事条についても、ただ務めて当面明白の道理を発して絶(たえ)て新奇を衒わぬのである、また時として吾人一箇の解釈を与えて前人の轍(てつ)を蹈(ふ)まぬこともある。

 

《主観的の説を主張するのが、ひどくて、結局、天下の過半の事物、いや、ほとんど全数をあげて、客観的には存在しないで、ただ主観的にだけ存在するとするものは、つまり、いわゆる懐疑派である。その最も極端に行動したのは、ピュロニズム派である。すべて、哲学者の多くは、生まれつき優秀で、奇異を好むので、以前の筋道にしたがうことを快く思わない。奇異を確立し、新奇を誇示しようとして、思索に熱中し、結局、目前の無造作の事物でも、とても奇怪視して、いわゆる巧みさを誤って錯綜する言葉となり、自分も知らず知らずの間に、邪道に陥って、自分から出ることができなくなるのが、しばしばである。私達は、努力して、この弊害を離れ去りたいとするので、昔の人の争議した事項(条項)についても、ただ努力して、当面は、明白な道理を発動して、まったく新奇を誇示しないのである。また、時には、私達が1個の解釈を与えて、先人の道筋を踏まないこともある。》

 

 

●(10)(再び)主観・客観

 

・繰返して言う、世の中に純然主観的のものも実に寡(すくな)い、純然客観的のものも実に寡い、万物皆客主相映じて、両鏡の繊翳(せんえい)なきが如くである。

 

《繰り返していう、世の中に、純粋な主観的なものも、実際に少ない。純粋な客観的なものも、実際に少ない。万物は、すべて、主・客が相互に映し合って、両鏡のわずかな陰り(曇り)もないようなものである。》

 

・釈迦老子も初年の間は、専(もっぱ)ら天下人心(じんしん)の妄念妄想を一洗し、根本的にその自説を蒔(ま)き付けようとして、諸行無常とか、唯此一事実余二即非真(ただこのいちのみじじつ、よのには、すなわちしんにあらず)とか、都(すべ)て世界万物を一無に帰せしめて、ただ心のみを有としたようだが、これも実はやはり方便であった。而(しか)してその最後の考(かんがえ)は、遂に万物と我れと、共にこれが世界大経済中の具と為(な)したる如くに見ゆる。故にこの点よりいえば、釈迦も頻(しき)りに主観説を主張した後客観説を取りて、両造相調和せしめて始(はじめ)て真乗門(しんじょうもん)を打出したと言(いっ)ても良い。

 

《釈迦・老子も、最初の間は、ひたすら、天下の人の心の妄念・妄想を一掃し、根本的に、その自説を植え付けようとして、諸行無常とか、「ただ、この1のみ事実で、他の2は、つまり真でない」とか、すべて、世界の万物をひとつの無に帰着させて、ただ心だけを有としたようだが、これも、実際は、やはり、方便であった。そうして、その最後の考えは、結局、万物と私と、一緒に、これが世界の偉大な治め救うことの中の具体としているように見える。よって、この点からいえば、釈迦も、頻繁に主観説を主張した後、客観説を摂取して、両方相互に調和させて、はじめて、真実の乗り物の教えを打ち出したといってもよい。》

 

・耶蘇(やそ)はこの辺の事には何も言(いっ)て居ないようだ。それもそのはず、耶蘇は一無害の長者、一多情多血の狂信者で、瞿曇(くどん)氏のような博学の哲学者ではなかったのである。ルナンの耶蘇の伝は真を得たものだろうと思うが、一(いつ)の極(きわめ)て無邪気の、極て感情に富(とん)だ人物、いわば男性のジヤンヌダルクとも見るべきであると言て居る。かくの如き人物に、主観の客観のとやかましき議論は固(もと)より待つべきでない。

 

《キリストは、この周辺の事には、何もいっていないようだ。それも、そのはず、キリストは、無類の立派な一人で、感情が多く・血の気の多い、唯一の精神病者で、釈迦のような博学の哲学者ではなかったのである。ルナンの『イエス伝』は、真実を得たものだろうと思うが、1人のとても無邪気な・とても感情豊かな人物、いわば男性のジャンヌダルクとも見ることができるといっている。このような人物に、主観の・客観のと、やかましい議論は、元々、期待することはできない。》

 

 

●(11)意象

 

・それから諸種の意象(いしょう)であるが、草木禽獣(きんじゅう)といえる如き一切吾人(ごじん)の五官に触るべきものは、その記憶に上(のぼ)りて意象と為(な)るには、固(もと)より五官を経て来(きた)るに相違ない。これは議論も何もない、ただ正不正とか、義不義とか、仁とか善とか、諸種無形の意象に関しては、例の宗旨家及び宗旨混同の哲学家は皆五官を排斥して、乃(すなわ)ち五官の捕捉に繋(かか)るが如き人寰(じんかん)臭(くさ)き意象とは違い、人生先天的の意象である、神が吾人の精神に印してあるという塩梅(あんばい)に、勿体(もったい)らしく論じて居る。而(しか)して最後に神といえる意象の如きは、およそ意象中の最も高尚(こうしょう)なるもので、到底物の一性を感ずるに止(とど)まりたる、汚(けが)れたる血肉に成れる五官の如きものの関与すべきでなく、吾人人類が生れながら有して居る意象である云々(うんうん)。

 

《それから、種々の観念であるが、草木・鳥獣といえるようなもので、すべて、私達の5官(目・耳・鼻・舌・皮膚の5感覚器官)に接触することができるものは、その記憶にのぼって観念となるには、元々、5官を経由したに相違ない。これは、議論も何もない。ただ正・不正とか、義・不義とか、仁とか善とか、種々の無形の観念に関しては、例の宗教家・宗教の主旨を混同した哲学者は皆、5官を排斥して、つまり5官の捕獲に関係するようなもので、人間界臭い観念とは違い、人生の先天的な観念である。神が私達の精神に刻印してあるという具合に、ものものしく論考している。そうして、最後に神といえる観念のようなものは、だいたい観念の中の最も立派で上品なもので、到底、物の一面性を感じるに留まっている。汚れた血・肉に成立する5官のようなものが、関与することができず、私達人類が生まれながらにもっている観念である、等々。》

 

・かく論じて、その意には挺然(ぬっくと)高く人間塵埃(じんあい)の表に出(い)でて、一切土臭き臭気を擺脱(はいだつ)したる考えであるが、何ぞ知らんこれ正(まさ)にその極(きわめ)て尊尚(そんしょう)する所ろの神に附与するに、人間の情欲を以てするもので、前後矛盾自家撞着(どうちゃく)の為(い)たるを暴露して居るのだ。第一血肉が汚(けが)らわしいの、無形の物が高尚なの、塵埃の、土臭(どしゅう)のと、これ正に吾人(ごじん)人類中での言事(いいごと)である、否な吾人人類中でも不学無術なる人物中での言事である。試(こころみ)に理化学の目から見よ、血でも膿(うみ)でも、屎(くそ)でも尿(にょう)でも、七色燦然(さんぜん)たる宝玉錦繍(きんしゅう)と、何処(どこ)に美悪の別がある、小野の小町と狒々(ひひ)猿と、那辺(どこ)に妍醜(けんしゅう)の差がある。憐(あわれ)むべし公(きみ)らの精神は半ば腐壊した躯体(くたい)より噴出する所の燐火(りんか)で、正に臭気紛々として居るのだ、これはこれ清浄なる神火でなく、腌膩(えんじ)極まる欲火である。共に意象の事を語るに足らぬが故に、謹(つつしん)で下文に垂示するのを聴け。

 

《こう論考して、その意味は、抜きん出て高く、人間は、チリ・ホコリの表世界に出て、すべて土臭い臭気を除去した考えであるが、どうして知るのか。これは、まさに、それが、とても尊貴する神に付与するのに、人間の情欲によってするもので、前後矛盾・自己矛盾にいたるのを暴露しているのだ。第一、血・肉が汚らわしいの、無形の物が立派で上品なの、チリ・ホコリの、土臭さのと、これは、まさに、私達人類の中での言葉である。いや、私達人類の中でも、不学無術な人物の中での言葉である。試しに、理化学の目から見よ。血でも・膿でも、糞でも・尿でもと、7色の光り輝く宝玉・錦の織物・刺繍と、どこに美醜の分別があるのか。小野小町と、ヒヒザルと、どこに美醜の差があるのか。あわれむべきだ、貴公らの精神は、半分腐敗した身体から噴出する人魂(ひとだま)で、まさに臭気がプンプンとしているのだ。これは、これが清浄な神の火ではなく、不浄な欲望の火である。一緒に観念の事を語り足らないために、つつしんで下文に教示するのを聞け。》

 

 

●(12)無形の意象

 

・吾人(ごじん)幼時から見物する所ろの物、例えば馬牛犬豕(し)の如き皆一(いつ)の絵画となりて、記性中に印せられて居る。即ち生れていまだ絵を学んだことのない者でも、一たび瞑目(めいもく)して馬の事を思う乎(か)、犬の事を思う乎、何日(いつ)か見た所ろの馬犬の影象(えいしょう)が儼然(げんぜん)として意念(いねん)中に現出すること、極(きわめ)て巧みな画工の描ける絵と異ならぬ。また書を読み字を識(し)る者は、あるいは絵でなく字で現出する、また抽象的に馬または犬の事が浮出(ふしゅつ)する、これがいわゆる意象である。これらは勿論(もちろん)五官に接触する実物だから論はないが、さて正不正、義不義、美不美等のいわゆる無形の意象でも、その実はやはり五官を経由して出来て居る、五官に関せぬなどというのは膚浅(ふせん)極まる言事(いいごと)である。

 

《私達が、幼少時から見物する物、例えば、ウマ・ウシ・イヌ・ブタのようなものは、すべて、ひとつの絵画となって、記憶力の中に刻印されている。つまり生まれて、まだ絵を学んだことのない者でも、一度、目を閉じて、ウマの事を思うか、イヌの事を思うか、いつか見たウマ・イヌのイメージが、確固として意思の中に出現することは、とても巧みな画家が描ける絵と異ならない。また、書物を読み、文字を知る者は、絵でなく、文字で出現したりする。また、抽象的に、ウマ・イヌの事が浮かび出す。これが、いわゆる観念である。これらは、もちろん、5官(感覚器官)に接触する実物だから、論考はないが、さて、正・不正、義・不義、美・不美等の、いわゆる無形の観念でも、その実際は、やはり、5官を経由してできている。5官に関係しない等というのは、浅はかさが極まる言葉である。》

 

・けだしおよそ意象(いしょう)といい影象(えいしょう)といい、皆三、五歳の幼時より漸次(ぜんじ)に記性中に印せられて居るものである。彼(か)れ幼童が怒(いかり)て他の童を撾(う)つとか、両親の命に背(そむ)きて何か曲事(くせごと)を為(な)すとか、いずれ絵に写されべき、形を図せられべき、具体的の行事よりして、正不正の意象が源頭し来(きた)るのである。観劇の際、由良之助(ゆらのすけ)の城渡(しろわたし)を見て具体的に義の意象を生じ、斧九太夫(おのきゅうだゆう)を見て具体的に不義の意象を生じ、小野の小町が美の意象のモデールとなり累(かさ)ねの顔が醜(しゅう)の意象のモデールとなる等、とにかく即時事に遇(あ)い物に接し、具体的に即ち影象的に絵図的に記性中に捺印(なついん)して、その後は実物を離れて直(ただち)に記性中の影象と交渉するに至りて純然たる無形の意象を成すのでも、その源頭はここに述(のべ)る如く必ず五官を経由して来たのに相違ないのである。

 

《思うに、だいたい観念といい、イメージといい、すべて、3~5歳の幼少時から、しだいに記憶力の中に刻印されているものである。あの幼児・児童が怒って、他の児童をたたくとか、両親の命令に背いて、何かダメな事をするとか、いずれも、絵に写すことができ、形を図式化することができ、具体的な行為から、正・不正の観念が根源してくるのである。観劇の際に、由良之助の城渡しを見て、具体的に義の観念が生まれ、斧九太夫(由良之助の敵役)を見て、具体的に不義の観念が生まれ、小野小町が、美しさの観念のモデルとなり、婦人の累(かさね)の顔が、醜さの観念のモデルとなる等、とにかく、その時に、事に会い、物に接し、具体的に、つまりイメージ的に・絵図的に、記憶力の中に刻印して、その後は、実物を離れて、すぐに記憶力の中のイメージと交渉するのに至って、純粋な無形の観念を成立させるが、その根源は、ここに述べたように、必ず5官(感覚器官)を経由してきたのに相違ないのである。》

 

 

●(13)神の意象

 

・特に神の意象(いしょう)の如き、幼時両親の語話(ごわ)を聴き、これ極(きわめ)て慈善なる、温和なる、愛らしき顔の、色の白き面(かお)の、豊下(ほうか)で福々しい、鬚髯(しゅぜん)の如き、常に莞爾(かんじ)として咲(え)みつつある、老後旅行中の水戸西山公にも似たらんかと思う老人を想像して、その具体的絵画が穉弱(ちじゃく)なる記性中に深く滲入(しんにゅう)して抜くべからずなりたるものである。勿論(もちろん)欧米の児童には、水戸西山公ではなく、また他に適当なるそれぞれのモデールがあって出来たことはいうまでもない。かくの如く昧者(まいしゃ)が全然実質と関係なきかの如く思惟して居る無形の意象も、その源頭に遡(さかのぼ)りて考索すれば、必ず具体的のものより生じ、実質より成り来れるものたるは無論である。

 

《特に、神の観念のように、幼少時に両親の会話を聞き、これが、とても慈善な・温和な・愛らしき顔の・色白の顔の、頬(ほお)の下がふくれて、あごヒゲ・ほおヒゲのようで、いつもニッコリして笑いつつある、老後に旅行中の水戸の徳川光圀(みつくに)公にも似たのかと思う、老人を想像して、その具体的な絵画が、幼弱な記憶力の中に、深く浸入して、抜けることができないようになるものである。もちろん、欧米の児童には、水戸の徳川光圀公ではなく、また、他に適当な、それぞれのモデルがあってできたことは、いうまでもない。このように、愚者が、全然、実質と関係ないかのように思惟している無形の観念も、その根源にさかのぼって考察・思索すれば、必ず具体的なものから生まれ、実質から成立してきたものであるは、無論である。》

 

・更に助語の辞(じ)即ち「直ちに」「即ち」「速(すみやか)に」「徐々に」「より多く」「より少く」「責めては」「なるべく」等の如きは、実物と何の交渉もないようだが、これまた大(おおい)に然(しか)らずである。幼時母親に何か求むる所ろでもあれば、母が「直ちに云々(しかじか)せん」とか「速に斯々(かくかく)せん」とか言うのを聴きて、当時乞(こ)い求めた蜜柑(みかん)とか林檎(りんご)とかを、これら助語と牽聯(けんれん)して、即ち蜜柑林檎の影象を仮り来(きたり)て、「直ちに」「速に」等の意象を記性中に入れたので、「徐(おもむ)ろに」「より多く」「より少く」等の助語でも皆この例である。然らずしてもし宗旨家言う所ろの如くに諸無形の意象が先天的であって、五官の経由を藉(か)らず、渾然(こんぜん)意念中に全成(ぜんせい)して欠くる所ろがないとすれば、児童は皆信者なるべきに、皆正義者なるべきに、さはなくて日々驕痴(きょうち)の態を現出して両親を苦しめ、また助語の辞等に至(いたっ)ては時々大(おおい)に誤用して、一座団欒(だんらん)の長年をして哄笑(こうしょう)せしむる愛嬌(あいきょう)があるのではないか。

 

《さらに、助語の言葉、つまり「直ちに」・「即ち」・「速やかに」・「徐々に」・「より多く」「より少なく」・「責めては」・「なるべく」等のようなものは、実物と何の交渉もないようだが、これは、また、大いにそうでないのである。幼少時に、母親へ、何かを求めることでもあれば、母親が、「直ちにシカジカしよう」とか「速やかにカクカクしよう」とか、いうのを聞いて、当時、与えてくれるように求めた、ミカンとか、リンゴとかを、これらの助語と関連して、つまりミカン・リンゴのイメージを仮りてきて、「直ちに」・「速やかに」等の観念を記憶力の中に入れたので、「おもむろに」・「より多く」・「より少なく」等の助語でも、すべて、この例である。そうではなくて、もし、宗教家のいうことのように、種々の無形の観念が先天的にあって、5官(感覚器官)の経由にかこつけず、溶け合って、意思の中に完成して、欠如することがないとすれば、児童は、皆、信者になることができ、皆、正義の者になることができ、そうではなくて、日々、おごって愚かな態度を出現して、両親を苦しめ、また、助語の言葉等に至っては、時々、大いに誤用して、一座のだんらんが、長年に渡って大笑いさせる愛嬌があるのではないのか。》

 

・元来吾人(ごじん)がその躯体(くたい)の作用たる精神を、体外に発出するは何如(どう)してである、取(とり)も直さず五官と号する窓を経て発出するではないか。もし目がなければ何に由(よ)りて色彩に関する影象(えいしょう)を得よう、耳がなければ何に由りて音韻に関する影象を得よう、臭香(しゅうこう)の影象、旨味(しみ)の影象、堅脆(けんぜい)、寒熱等膚肌(ふき)に関する影象、皆この窓より惹(ひ)き入るるのである。吾人もし仮りに隤然(たいぜん)たる渾沌(こんとん)的肉塊(にくかい)であったならば、何の影象も得るに由(よし)なくて、乃(すなわ)ち吾人の記性は常に愣然(りょうぜん)として無一物(むいちぶつ)であろう、海に浮(うか)ぶ海月(くらげ)と一般だろう、何の先天的の意象もあるべき道理はない。

 

《本来、私達が、その身体の作用である精神を、体外に発出するのは、どうしてであるのか。すなわち、5官(感覚器官)という窓を経由して発出するのではないか。もし、目がなければ、何によって、色彩に関するイメージを得るのか。耳がなければ、何によって、音韻に関するイメージを得るのか。臭い・香りのイメージ、うま味のイメージ、堅強か脆弱か・寒いか暑いか等、皮膚・肌に関するイメージは、すべて、この窓によって引き入れるのである。私達が、もし、かりに、だらしない混沌的肉塊であったならば、何のイメージも得る理由がなくて、つまり私達の記憶力は、いつも、ぼんやりして、何ひとつないであろう。海に浮かぶクラゲと同様だろう。何の先天的な観念も、あるであろう道理はない。》

 

・プラトンは実質を不完全とし、意象(いしょう)を完全とし、意象なるものは吾人(ごじん)前世にあった時、即ちいまだ罪を獲(え)て娑婆(しゃば)に謫(たく)せられざる前、即ち常に神の膝下(しっか)に侍(じ)して、完美豊粋(ほうすい)の物のみ見聞した時の遺物(いぶつ)として今なおこれを有して居るので、即ち意象なるものはこの世の実物を形写するではなくて、前世の完美豊粋の物を影写して出来たのであると言った。而(しか)して世の哲学者皆プラトンを似て病狂者と為(な)さずして、高遠(こうえん)無比の大哲学者と為してこれを崇拝するとはむしろ笑止(しょうし)の極ではないか。

 

《プラトンは、実質を不完全とし、観念を完全とし、観念なるものは、私達が、前世にあった時、つまり、まだ罪を得て、人間界で罰せられない前に、つまり、いつも神のヒザの下に仕えて、完全美・豊満・純粋な物だけを見聞した時の遺物として、今なお、これをもっているので、つまり観念なるものは、この世の中の実物の形を写し取ったのではなくて、前世の完全美・豊満・純粋な物の影を写し取ってできたのであるといった。そうして、世の中の哲学者は皆、プラトンに似て、精神病者とならないで、広大・久遠の比類なき偉大な哲学者となって、これを崇拝するとは、むしろ、バカバカしい極致ではないか。》

 

・以上論ずる所ろに由(よ)れば、意象(いしょう)の系図知るべきである。実物に関するものは無論のこと、即ち無形で殊(こと)に実物とは何の交渉もなきかの如く思われるものでも、その始めは必ず五官の窓から吾人(ごじん)の精神を誘発し感興(かんこう)し来る所の外物が、先(ま)ずこれが模型となり、牽聯(けんれん)し、変化し、絪縕(いんうん)し、化醇(かじゅん)して影象となり、記性中で若干時月(じげつ)を経る中に、また変じて純然抽象的となりてここに以て意象を作成するのである、しからば意象の作成には記性最も与(あずか)りて力ありといわねばならぬ。

 

《以上、論考することによれば、観念の系図を知るべきである。実物に関するものは、無論のこと、つまり無形で、特に、実物との何の交渉もないかのように思われるものでも、その始めは、必ず5感の窓から、私達の精神を誘発し、興味を感じてくる外物、まず、これが模型となり、関連・変化し、元気で、変化・純粋になって、イメージとなり、記憶力の中で、いくらかの月日を経過する中に、また、変化して、純粋な抽象的となって、こういうわけで、観念を作成するのである。それらならば、観念の作成には、記憶力が、最も関与して、力があるといわなければならない。》

 

 

(つづく)