荻生徂徠「弁名」下・読解16~君子・小人、王覇 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

○君子・小人:2則

 

(1)

・君子者、在上之称也。子男子美称、而尚之以君。君者治下者也。士大夫皆以治民為職。故君尚之子以称之。是以位言之者也。雖在下位、其徳足為人上、亦謂之君子。是以徳言之者也。古之人、学而成徳、則進之士、以至大夫。故曰、君子者成徳之称。後世儒者、老荘内聖外王之説、淪其骨髄、遂忘先王之道為安民之道。故其所謂君子者、多外仁以言之。其失之遠甚焉。孔子曰、君子去仁、悪乎成名。豈不然乎。然其所謂仁、或以慈愛言之、或以人欲浄尽天理流行言之、則雖有孔子之言、無能救於其謬。豈不悲乎。学者以論語諸書言君子言仁諸章、求諸古義、庶或不失焉耳矣。大氐古之学、詩書礼楽。故君子修辞達政、礼楽以文之。是謂之成徳。外乎此而語成徳、以心以理、皆非三代論君子之義也。

 

[君子なる者は、上に在(あ)るの称なり。子は男子の美称にして、これに尚(くわ)うるに君をもってす。君なる者は下を治むる者なり。士大夫(したいふ)は皆、民を治むるをもって職と為(な)す。ゆえに君これに子を尚えて、もってこれを称す。これ位をもって、これをいう者なり。下位に在りといえども、その徳、人の上為(た)るに足れば、またこれを君子という。これ徳をもって、これをいう者なり。古(いにしえ)の人、学んで徳を成せば、すなわち、これを士に進め、もって大夫に至る。ゆえにいわく、「君子なる者は成徳の称なり」と。後世の儒者は、老荘の内聖外王の説、その骨髄に淪(しず)み、遂に先王の道の民を安んずるの道為(た)ることを忘(わす)る。ゆえにそのいわゆる君子なる者は、多くは仁を外にして、もってこれをいう。そのこれを失することの遠きこと甚(はなは)だし。孔子いわく、「君子、仁を去りて、悪(いずく)にか名を成さん」と。あに、しからざらんや。しかれども、そのいわゆる仁は、或いは慈愛をもって、これをいい、或いは人欲浄尽し天理流行することをもって、これをいわば、すなわち孔子の言ありといえども、よくその謬(あやま)りを救うことなし。あに悲しからずや。学者、論語・諸書の君子をいい仁をいうの諸章をもって、これを古義に求めば、或いは失(うしなわ)せざるに庶(ちか)きのみ。大氐(たいてい)、古の学は、詩書礼楽なり。ゆえに君子は辞を修め政に達し、礼楽、もってこれを文(かざ)る。これこれを成徳という。これを外にして成徳を語り、心をもってし理をもってするは皆、三代に君子を論じたるの義にあらざるなり。]

 

《君子なるものは、上位にある名称なのだ。子は、男子のよい名称で、これに加えるのに、君によってする。君なるものは、下位を統治するものなのだ。士(大夫の下位)・大夫(卿の下位で士の上位)は、すべて、民を統治するのを職務とする。よって、君は、これに子を加えて、それでこれ(君子)を名称する。これは、地位によって、これ(君子)をいうものなのだ。下位にあるといっても、その(君子の)徳が、人の上位であるのに充分ならば、また、これ(君子の徳がある、下位にある人)を君子という。これは、徳によって、これ(君子)をいうものなのだ。昔の人は、学んで、徳を成就(成徳)すれば、つまり、これ(成徳の人)を士に進め、それで大夫に至らせた。よって、いう、「君子なるものは、成徳の名称なのだ」(『易経』)と。後世の儒学者は、老荘の内聖外王(内に聖人・外に帝王の徳を兼ね備えた者)の説が、その(後世の儒学者の)骨の中心に沈み、結局、先王の道が、民を安寧する道であることを忘れた。よって、その(後世の儒学者の)いわゆる君子なるものは、多くが仁を除外して、それでこれ(君子)をいった。それ(後世の儒学者)が、これ(君子)を過失することで遠くなることは、ひどい。孔子がいう、「君子は、仁を離れ去って、どのようにして名をなすのか」(『論語』4-71)と。どうして、そのようでないのか(いや、そのようだ)。しかし、その(孔子の)いわゆる仁は、慈愛によって、これ(君子)をいったり、人の欲が清め尽くし、天の理が行き渡ることによって、これ(君子)をいったりすれば、つまり孔子の言葉があるといっても、充分にその誤りを救うことはない。どうして悲しくないのか(いや、悲しい)。学ぶ者は、『論語』・様々な書物の君子をいい、仁をいう様々な文章によって、これ(君子)を古い意義に探し求めれば、過失しないのに近かったりするのだ。たいてい、昔の学問は、詩・書・礼・楽なのだ。よって、君子は、言葉を修得し(修辞)、政治を達成し(達政)、礼楽は、それでこれ(政治)を文飾する。これは、これ(君子)を成徳という。これ(仁)を除外して、成徳を語り、心によってし、理によってするのは、すべて、3代(夏王朝・殷王朝・周王朝)で、君子を論考する意義にならないのだ。》

 

 

(2)

・小人、亦民之称也。民之所務、在営生。故其所志在成一己、而無安民之心。是謂之小人。其所志小故也。雖在上位、其操心如此、亦謂之小人。経伝所言、或主位言之、或主徳言之。所指不同、而其所為称小人之意、皆不出此矣。後世諸老先生所為道、皆淑身之説勝、而無安民之心。亦小人之帰哉。学者察諸。

 

[小人(しょうじん)もまた民の称なり。民の務むる所は、生を営むに在(あ)り。ゆえにその志す所は一己を成すに在りて、民を安んずるの心なし。これこれを小人という。その志す所、小なるがゆえなり。上位に在りといえども、その心を操(と)ること、かくのごときは、またこれを小人という。経伝にいう所は、或いは位を主として、これをいい、或いは徳を主として、これをいう。指す所は同じからざれども、その小人と称する所為(ゆえん)の意は、皆これを出(い)でず。後世の諸老先生の道と為(な)す所は皆、身を淑(よ)くするの説、勝ちて、民を安んずるの心なし。また小人の帰なるかな。学者これを察せよ。]

 

《小人も、また、民の名称なのだ。民が務めることは、生活を営むことにある。よって、その(民の)意志することは、一人の自己を成就することにあって、民を安寧する心がない。これは、これ(生活で、一人の自己を成就する民)を小人という。その(民の)意志することは、卑小だからだ。上位にあるといっても、その(民の)心を取って守ることが、このようなのは、また、これを小人という。経書・伝注でいうことは、地位を主として、これ(小人)をいったり、徳を主として、これ(小人)をいう。指すことは、同じでないが、それ(経書・伝注)が小人と名称する理由の意味は、すべて、これ(地位か徳か)を出ない。後世の様々な老人の先生が、道とすることは、すべて、自身をよくする説が勝って、民を安寧する心がない。また、小人の帰着だな。学者は、これを推察せよ。》

 

 

○王覇:1則

 

(1)

・王覇之弁、古所無也。観於孔子称管仲如其仁、書載秦誓、則孔子未嘗以覇為非焉。王与覇、其所以異者、時与位耳。当春秋時、豈有所謂覇道哉。使孔子見用於時、亦必為管仲也。管晏書今在焉。其間不無後人附託者、其文辞較然自殊、故択其真者読之、則儒者何別也。是其時莫有所謂覇者之道者審矣。及於戦国時、孔子之徒、誦説二帝三王之道。時君厭其迂遠濶於事情、則有飾管晏之説進者。是其人之道、而非真管晏之道也。孟子之与其人争、亦以其人所称説者為覇道耳。何則、孟子曰、以力仮仁者覇。以徳行仁者王。以力服人者、非心服也。力不贍也。以徳服人者、中心悦而誠服也。是言五覇徳劣、故其道不足称説已。何則、以力言之、是言其号令諸侯者、而非言治民者也。所謂仁、亦言其仁隣国者、而非言仁民者也。夫為方伯者、欲約諸侯共輔王室。徳不足而仮於力、亦不得已之事、豈可以罪其人乎。且湯仮七十里、文王仮百里而興。孔子無尺土之封、則不能興矣。是雖有徳、豈必不仮力乎。故桓文之罪、不在以力仮仁、而在尊王室為名以済其私。而孟子不言者、在戦国時無尊王室之事故也。故孟子之言、止言此以見其道不足称述耳。亦争宗門之言也。後世儒者不察其文意所在、囂然以謂王覇之弁、儒者第一義。豈不謬哉。甚乃至与任法術者並称。亦不知倫之甚也。何則、任法術者、以治其国言之者也。以力仮仁者、以号令諸侯言之者也。所指各殊。豈可比並乎。

 

[王・覇の弁は、古(いにしえ)のなき所なり。孔子の管仲(かんちゅう)を「その仁にしかんや」と称し、書に秦誓を載するを観れば、すなわち孔子は未だ嘗(かつ)て覇をもって非と為(な)さず。王と覇と、その異なる所以(ゆえん)の者は、時と位とのみ。春秋の時に当(あた)りて、あに、いわゆる覇道あらんや。孔子をして時に用いられしめば、また必ず管仲の為(まね)せしならん。管・晏(あん)の書は今、在(あ)り。その間(かん)、後人の附託する者なくんばあらざれども、その文辞は較然(こうぜん)として自(おの)ずから殊(こと)なり。ゆえにその真なる者を択(えら)びて、これを読まば、すなわち儒者、何ぞ別(わか)たんや。これその時いわゆる覇者の道なる者あることなきことと審(つまびら)かなり。戦国の時に及んで、孔子の徒、二帝・三王の道を誦説す。時君(じくん)その迂遠にして事情に濶(うと)きを厭(いと)いたれば、すなわち管・晏の説を飾りて進むる者あり。これその人の道にして、真の管・晏の道にあらざるなり。孟子のその人と争いしも、またその人の称説する所の者をもって覇道と為せしのみ。何となれば、すなわち孟子いわく、「力をもって仁を仮(か)る者は覇たり。徳をもって仁を行う者は王たり。力をもって人を服する者は、心服するにあらざるなり。力、贍(た)らざるなり。徳をもって人を服する者は、中心、悦(よろこ)びて誠に服するなり」と。これ五覇は徳、劣り、ゆえにその道の称説するに足らざることをいうのみ。何となれば、すなわち力をもって、これをいうは、これその諸侯に号令する者をいいて、民を治むる者をいうにあらざるなり。いわゆる仁も、またその隣国に仁なる者をいいて、民に仁なる者をいうにあらざるなり。夫(か)の方伯(ほうはく)為(た)る者は、諸侯を約して共に王室を輔(たす)けんと欲す。徳、足らずして力仮るも、また已(や)むを得ざるの事にして、あに、もってその人を罪すべけんや。かつ湯(とう)は七十里を仮り、文王は百里を仮りて興(おこ)る。孔子は尺土(せきど)の封なければ、すなわち興ること能(あた)わず。これ徳ありといえども、あに必ず力を仮らざらんや。ゆえに桓文(かんぶん)の罪は、力をもって仁を仮ることに在らずして、王室を尊ぶを名と為して、もってその私を済(な)すに在り。しかも孟子のいわざる者は、戦国の時に在りては王室を尊ぶの事なきがゆえなり。ゆえに孟子の言は、ただこれをいいて、もってその道の称述するに足らざることを見(あらわ)すのみ。また宗門を争うの言なり。後世の儒者は、その文意の在る所を察せず、囂然(ごうぜん)として以謂(おも)えらく、王・覇の弁は儒者の第一義なりと。あに謬(あやま)らずや。甚(はなは)だしきは、乃(すなわ)ち法術に任ずる者と並び称するに至る。また倫(たぐい)を知らざるの甚だしきなり。何となれば、すなわち法術に任ずる者は、その国を治むることをもって、これをいう者なり。力をもって仁を仮る者は、諸侯に号令することをもって、これをいう者なり。指す所、各おの殊(こと)なり。あに比並すべけんや。]

 

《王と覇の弁別は、昔には、ないことなのだ。孔子が管仲(斉の宰相)を、「その(斉の桓公の)仁に及ぶだろうか(いや、及ばない)」(『論語』14-349)と称賛し、『書経』の秦誓篇に記載するのを、観察すれば、つまり孔子は、今まで一度も覇を非(誤り)としていない。王と覇、それが異なる理由は、時代と地位なのだ。春秋の時代にあたって、どうして、いわゆる覇道があるのか(いや、まだない)。孔子によって、時々使用されれば、また、必ず管仲の真似になるだろう。管仲・晏嬰(あんえい、斉の宰相)の書物(『管子』・『晏子春秋』)は、今も存在する。その間に、後世の人が付託したものがなかったということはないが、その文章・言葉は、明らかで、自然に異なる。よって、その真なるものを選んで、これを読めば、つまり儒学者は、なぜ分別するのか。これは、その(春秋の)時代に、いわゆる覇者の道なるものが、ないことが明らかなのだ。戦国の時代に及んで、孔子の門徒が、2帝(古代中国の伝説上の帝王の堯/ぎょう・舜/しゅん)・3王(夏王朝・殷王朝・周王朝)の道を唱え説いた。時の君主は、それ(道)がまわりくどくて、事情にうといのを嫌がれば、つまり管仲・晏嬰の説を飾って進めるものがある。これは、その人の道で、真の管仲・晏嬰の道でないのだ。孟子が、その人と争うのも、また、その人が称賛して説明するものによって、覇道としたのだ。なぜかといえば、つまり孟子がいう、「力によって仁を借用(仮借/かしゃ)するものは、覇だ。徳によって仁を行うものは、王だ。力によって人を服するものは、心服するのではないのだ。力が不足なのだ。徳によって人を服するものは、中心が喜んで、誠に服するのだ」(『孟子』3-26)と。これは、5覇(斉の桓公・晋の文公・秦の穆/ぼく公・宋の襄/じょう公・楚の荘王)が徳に劣り、よって、その道(覇道)が、称賛して説明するのに不足なのをいうのだ。なぜかといえば、つまり力によって、これ(覇)をいうのは、これ(覇)がその諸侯に号令するものをいって、民を統治するものをいうのでないのだ。いわゆる仁も、また、その隣国に仁なるものをいって、民に仁なるものをいうのでないのだ。あの方伯(諸侯の長)であるものは、諸侯をまとめて、一緒に王室を助けたいとした。徳が不足で、力が借用するのも、また、やむをえない事で、どうして、それでその人を罪することができるのか(いや、できない)。そのうえ、湯王(殷王朝の創始者)は、70里四方の土地を借用し、文王(殷代末期の周の君主)は、100里四方の土地を借用し、勃興した。孔子は、わずかな土地の分与もなければ、つまり、勃興することができなかった。これは、有徳だといっても、どうして必ず力を借用しなかったのか(いや、借用した)。よって、(斉の)桓公・(晋の)文公の罪は、力によって、仁を借用することにあったのでなく、王室を尊重することを名目として、それでその私利私欲をなすことにあった。しかも、孟子がいわなかったものは、戦国の時代にあっては、王室を尊重する事がないからなのだ。よって、孟子の言葉は、ただ、これ(覇)をいって、それで、その道(覇道)が称賛して述べられるのに、不足なことを現わしているのだ。また、学派を争う言葉なのだ。後世の儒学者は、その文章の意味があることを推察せず、やかましくて、思うに、王と覇の弁別は、儒学者の第一の意義なのだ。どうして誤りでないのか(いや、誤りだ)。ひどいのは、つまり法(法律刑罰)の術に任せるものと、並列・称賛するのに至る。また、同類を知らないことが、ひどいのだ。なぜかといえば、つまり法の術に任せるものは、その国を統治することによって、これ(覇)をいうものなのだ。力によって、仁を借用するものは、諸侯に号令することによって、これ(覇)をいうものなのだ。指すことは、各々、異なる。どうして比較・並列することができるのか(いや、できない)。》

 

・仁斎先生曰、王者以徳為本。而未嘗無法、覇者仮徳以行之。而不能真有其徳焉。及乎其益衰、而専任法術、不復知仮徳。於是有刑名之学焉。是皆不知文義之言也已。若論治其国之道、則孔子所謂道之以政、斉之以刑、道之以徳、斉之以礼、是文武桓文之弁也。然桓文時、先王之沢未斬、先王之礼尚存、其所用亦得人。故雖用政刑、亦非若申韓商鞅之比、祇其所以与先王殊者、乃在急功利之意勝、而不用礼楽也。孔子小管仲之器、亦是意已。後世儒者雖口能言以徳化之、然不知所以化之之術。是其過本在以道為当然之理、而不知其為安民之術焉。故又以徳為仁義孝悌之類、而不知挙用有徳之人以導民也。故其務欲以己徳導之、是其意既急迫、自用而無術。何以能使民嚮其風乎。又誤以礼為法、而以上下尊卑等威明白不少差忒為説、則不出名家者流之意。豈足以為先王陶鋳天下之術哉。夫桓文雖不及先王、猶有其術。豈若後世儒者不学無術之倫哉。吁、不知古言之失、一至于斯矣。非夫。

 

[仁斎先生いわく、「王者は徳をもって本と為(な)す。しかも未だ嘗(かつ)て法なくんば、あらず。覇者は徳を仮りて、もってこれを行う。しかも真に、その徳あること能(あた)わず。その、ますます衰うるに及んで、専(もっぱ)ら法術に任じ、また徳を仮ることを知らず。ここにおいて刑名の学あり」と。これ皆、文義を知らざるの言なるのみ。もし、その国を治むるの道を論ぜば、すなわち孔子のいわゆる「これを道(みちび)くに政をもってし、これを斉(ひと)しゅうするに刑をもってす」、「これを道くに徳をもってし、これを斉しゅうするに礼をもってす」とは、これ文・武と桓・文の弁なり。しかれども桓・文の時、先王の沢(たく)、未だ斬(た)えず、先王の礼、尚(なお)存し、その用うる所もまた人を得(う)。ゆえに政刑を用うといえども、また申(しん)・韓・商鞅(しょうおう)のごときの比にあらず。祇(ただ)その先王と殊(こと)なる所以(ゆえん)の者は、乃(すなわ)ち功利に急なるの意、勝ちて、礼楽を用いざるに在るなり。孔子、管仲の器を小なりとするも、またこの意のみ。後世の儒者は、口はよく徳をもって、これを化することをいうといえども、しかれども、これを化する所以の術を知らず。これその過ちは、もと道をもって当然の理と為(な)して、その民を安んずるの術為(た)ることを知らざるに在り。ゆえにまた徳をもって仁義孝悌の類と為して、有徳の人を挙用して、もって民を導かしむることを知らざるなり。ゆえにその務めて己(おのれ)が徳をもって、これを導かんと欲するは、これその意すでに急迫にして、自(みずか)ら用いて術なし。何をもって、よく民をして、その風(ふう)に嚮(むか)わしめんや。また誤りて礼をもって法と為し、しこうして「上下尊卑、等威の明白にして、少しも差忒(さとく)せず」というをもって説を為せば、すなわち名家者流の意を出(い)でず。あに、もって先王の天下を陶鋳するの術と為すに足らんや。夫(そ)れ桓・文は先王に及ばずといえども、なおその術あり。あに後世の儒者の不学無術の倫(ともがら)のごとくならんや。ああ、古言を知らざるの失、一(いつ)にここに至れり。悲しいかな。]

 

《伊藤仁斎先生がいう、「王者は、徳を根本とする。しかも、今まで一度も法(法律刑罰)がなかったということはない。覇者は、徳を借用(仮借/かしゃ)して、それでこれ(徳)を行う。しかも、真に、その徳があることはできない。それが、ますます衰退するに及んで、ひたすら法の術に任せ、また、徳を借用することを知らない。こういうわけで、形ばかり・名ばかりの法の学問がある」(『語孟字義』王覇3条)と。これは、すべて、文章の意義を知らない言葉なのだ。もし、その国を統治する道を論考すれば、つまり孔子のいわゆる「これ(民)を導くのに、政治によってし、これ(民)を等しくするのに、刑罰によってする」・「これ(民)を導くのに、徳によってし、これ(民)を等しくするのに、礼によってする」(『論語』2-19)とは、これが文王(殷代末期の周の君主)・武王(周王朝の創始者)と、(斉の)桓公・(晋の)文公の、弁別なのだ。しかし、桓公・文公の時代は、先王の恩沢(恩恵)が、まだまだ絶ち切れず、先王の礼が、まだ存在し、それ(桓公・文公)が登用することも、また、(立派な)人を得られていた。よって、政治・刑罰を使用するといっても、また、申不害(ふがい)・韓非子(かんぴし)・商鞅(3人とも法家)のようなものと比較にならない。ただそれ(桓公・文公)が先王と異なる理由は、つまり功利に急務な意思が勝って、礼楽を使用しないことにあるのだ。孔子は、管仲の器を小さいとしたのも、また、この(礼楽を使用しない)意味なのだ。後世の儒学者は、口述が充分に徳によって、これ(自己)を変化することをいうといっても、しかし、これ(自己)を変化する理由の術を知らない。これは、その(後世の儒学者の)過失が、元々、道を当然の理として、それ(道)が民を安寧する術であるのを知らないことにある。よって、また、徳を仁・義・孝・悌の同類とし、有徳の人を推挙・登用して、それで民を導かせることを知らないのだ。よって、それ(有徳の人)が務めて、自己が徳によって、これ(民)を導きたいとするのは、これは、その意味がすでに急務・切迫して、自分の考えのままに行って(自用)、術がない(無術)。何によって、充分に民を、その(道の)風教に向かわせるのか。また、誤って、礼を法とし、そうして、「(地位の)上下・(身分の)尊卑、威儀の等級が明白で、少しも誤っていない」(『語孟字義』仁義礼智1条)ということによって、説を作為すれば、つまり名家の学派の意思を出ない。どうして、それで先王が天下を陶工・鋳造する術とするのに充分なのか(いや、充分でない)。そもそも桓公・文公は、先王に及ばないといっても、なお、その(道の)術がある。どうして後世の儒学者が、不学無術の仲間のようなのか(いや、そうでない)。古い言葉を知らない過失は、ひとつ、ここに至る。悲しいな。》

 

 

(おわり)