荻生徂徠「弁名」下・読解15~経・権、物 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

○経・権:4則

 

(1)

・経者大綱領也。以夾持衆緯言之。如経礼三百、威儀三千、経礼者礼之綱、其中兼有許多節文威儀、如経持緯然、故謂之経礼。如為天下国家有九経、此九者為治天下国家之大綱領、其中亦各有許多方法、故謂之九経。或解為亘万世不可易者、殊為不通。

 

[経なる者は大綱領(こうりょう)なり。衆緯を夾持(きょうじ)するをもって、これをいう。「経礼三百、威儀三千」のごときは、経礼なる者は礼の綱にして、その中に兼ねて許多(きょた)の節文威儀あること、経の緯を持するがごとくしかり、ゆえにこれを経礼という。「天下国家を為(おさ)むるに九経あり」のごときは、この九者は天下国家を治むるの大綱領為(た)りて、その中にもまた各おの許多の方法あり、ゆえにこれを九経という。或いは解して、万世に亘(わた)りて易(か)うべからずと為(な)す者は、殊(こと)に通ぜずと為す。]

 

《経なるものは、偉大な要点なのだ。様々な緯を挟(はさ)み持つことによって、これ(経)をいう。「経礼が300、威儀が3000」(『礼記(らいき)』、『中庸』15-27)のようなものは、経礼なるものが、礼の要点で、その中に兼ね備えて、多数の節度ある文飾・威儀(礼式の細則)があることは、経(縦糸)が緯(横糸)を持つように、そのようで、よって、これを経礼という。「天下国家を作為するのに、9経がある」のようなものは、この9者が、天下国家を統治する偉大な要点であって、その中にも、また、各々、多数の方法があり、よって、これを9経という。解釈して、全時代に渡って、変えることができないとしたりするものは、とりわけ、通用しないとする。》

 

 

(2)

・経国、経界、皆以法制言之。経国者開国之君所立、大法制、大矩矱、凡百礼儀制度、皆藉是以立、亦如経持緯然、故謂之経。経界亦井田之大界分、故謂之経耳。

 

[経国・経界は皆、法制をもって、これをいう。経国なる者は、開国の君の立つる所、大法制・大矩矱(くわく)にして、凡百の礼儀制度、皆これに藉(よ)りて、もって立つこと、また経の緯を持するがごとくしかり、ゆえにこれを経という。経界もまた井田(いでん)の大界分、ゆえにこれを経というのみ。]

 

《経の国家・経の世界は、すべて、法制によって、これをいう。経の国家なるものは、開国の君主が確立することで、偉大な法制・偉大な規準(定規)で、様々な礼儀制度が、すべて、これにかこつけて、それで確立することは、また、経(縦糸)が緯(横糸)を持つように、そのようで、よって、これを経という。経の世界も、また、井田(田地を井の字の形に9等分し、中央を公田、周囲を私田とする、孟子考案の農地制度)の偉大な境界で、よって、これを経というのだ。》

 

 

(3)

・経伝、後世有聖経賢伝之説、以聖人所作為経、賢人所作為伝者、非矣。詩書礼楽、謂之四教、謂之四術。是誠聖人所立。然書紀于史官、詩或出田畯紅女。礼楽固聖人作之、而其筆諸書、昉於孔門。豈得謂之聖人所作哉。漢諸儒皆各作伝。豈自以為賢乎。且経之名、古未聞也。観於荘子十二経墨経之言、則昉於七十子之後邪。蓋古称本業為経。亦持衆緯之謂也。経之文至簡、含蓄衆義。故以為名。漢儒解為常、謂聖人之経、万古不易。非矣。学記曰、一年視離経。説者謂離析章句。非矣。方其始受業時、章句既析。豈竢一年之久、俾其自析哉。離麗同。如麗於刑之麗。法律家以罪名与律相比附。学者亦然。義各随其所取、与経相比附。是謂之離経。視其善用古法言也。観於此文、則似亦自古有之耳。

 

[経・伝は、後世、聖経・賢伝の説あり、聖人の作る所をもって経と為(な)し、賢人の作る所を伝と為す者は、非なり。詩書礼楽は、これを四教といい、これを四術という。これ誠に聖人の立つる所なり。しかれども書は史官に紀せられ、詩は或いは田畯(でんしゅん)・紅女に出(い)ず。礼楽は固(もと)より聖人これを作れども、そのこれを書に筆するは、孔門に昉(はじま)る。あに、これを聖人の作る所というを得んや。漢の諸儒は皆、各おの伝を作る。あに自(みずか)ら、もって賢と為さんや。かつ経の名は、古(いにしえ)未だ聞かざるなり。荘子の十二経・墨経の言を観れば、すなわち七十子の後に昉るか。けだし古は本業を称して経と為す。また衆緯を持するのいいなり。経の文は至簡にして、衆義を含蓄す。ゆえにもって名と為す。漢儒は解して常と為し、聖人の経は万古不易なりという。非なり。学記にいわく、「一年にして離経を視る」と。説く者、謂(おも)えらく、章句を離析すと。非なり。その始めて業を受くるの時に方(あた)りて、章句すでに析(わか)つ。あに一年の久しきを竢(ま)ちて、それをして自ら析たしめんや。離・麗は同じ。刑に麗(つ)くの麗のごとし。法律家は罪名をもって律と相比附す。学者もまたしかり。義、各おの、その取る所に随(したが)いて、経と相比附す。これこれを「経に離(つ)く」という。その善く古の法言を用うるを視るなり。この文を観れば、すなわち、また古より、これあるに似たるのみ。]

 

《経・伝は、後世に、聖経・賢伝の説があり、聖人の作ることを経(大筋)とし、賢人の作ることを伝とするものは、非(誤り)なのだ。詩・書・礼・楽、これを4教といい、これを4術という。これ(詩・書・礼・楽)は、誠に、聖人が確立したことなのだ。しかし、書は、歴史官に記され、詩は、農業役人・繊維工女から出たりする。礼楽は、元々、聖人がこれを作ったが、それがこれ(礼楽)を書物に執筆したのは、孔子の門徒から、はじまった。どうして、これを聖人が作ったことだというのができるのか(いや、できない)。漢代の様々な儒学者は、すべて、各々、伝を作った。どうして、自分で、それで賢人とするのか(いや、賢人としない)。そのうえ、経の名は、昔には、まだ聞かないのだ。『荘子』の12経・『墨子』の経の言葉を観察すれば、つまり孔子の直弟子達の後に、はじまった。思うに、昔は、根本の文献を名称して、経(縦糸)とした。また、様々な緯(横糸)を持つことをいうのだ。経の文章は、とても簡素で、様々な意義を含み持つ。よって、それで名称とする。漢代の儒学者は、解釈して、常とし、聖人の経は、全時代で不変なのだという。非(誤り)だ。(『礼記(らいき)』の)学記篇によると、「1年で離経を見る」。説く者は、思うに、文章の語句を分離して分析する。非(誤り)だ。その(説く)最初に文献を受ける時にあたって、文章の語句は、すでに分析していた。どうして1年の長さを待って、それをして、自分で分析させるのか(いや、分析させていない)。離と麗は、(「つく」という意味で)同じだ。刑につ(麗)くの麗のようなものだ。法律家は、罪名によって、律(刑罰法)と互いにつき合わせる。学ぶ者も、また、そのようだ。意義は、各々、それ(学ぶ者)が受け取ることにしたがって、経と互いにつき合わせる。これが、これ(離経)を「経につ(離)く」という。それ(文章の語句)が、よく昔の手本となる言葉を使用しているのを見るのだ。この(手本となる言葉の)文章を観察すれば、つまり、また、昔から、これ(経という言葉)があるのに似ているのだ。》

 

・至於伝、乃弟子記其師所伝。故謂之伝。如春秋有左氏、有公羊、有穀梁、詩有斉、有魯、有韓、有毛、皆所伝殊故也。後世胡安国作春秋伝、程子作易伝、朱子作詩伝、蔡沈作書伝、皆取諸其臆。果何所伝。可謂妄已。

 

[伝に至りては、乃(すなわ)ち弟子、その師の伝うる所を記す。ゆえにこれを伝という。春秋に左氏あり、公羊(くよう)あり、穀梁あり、詩に斉あり、魯(ろ)あり、韓あり、毛(もう)あるがごときは皆、伝うる所、殊(こと)なるがゆえなり。後世、胡安国(こあんこく)は春秋伝を作り、程子は易伝を作り、朱子は詩伝を作り、蔡沈(さいしん)は書伝を作るも、皆これをその臆に取る。果(はた)して何の伝うる所ぞ。妄というべきのみ。]

 

《伝に至っては、つまり弟子が、その師の伝えたことを記す。よって、これを伝という。『春秋』には、左氏伝・公羊伝・穀梁伝があり、『詩経』には、斉詩・魯詩・韓詩・毛詩があるようなものは、すべて、伝えたことが、異なるからなのだ。後世に、胡安国(北宋代の儒学者)が春秋伝を作り、程子(程顥/ていこう+程頤/ていい兄弟)が易伝を作り、朱子が詩伝を作り、蔡沈(朱子の弟子)が書経を作ったのも、すべて、これを、その憶測で受け取っている。本当に、何が伝えたことなのか。妄想ということができるのだ。》

 

 

(4)

・権、漢儒以経対言。程子非之。是矣。仁斎先生拠孟子而謂当以礼対権。亦是矣。是漢儒解経為常、故誤耳。経者国家立制度大綱領。夫経而可反、豈可以為経乎。礼節目甚繁。故至其末節、則変而従宜已。仁斎先生乃曰、礼可随時損益。殊不知、孔子所謂損益者、聖人制礼時之事也。且所謂権、礼亦有之。喪服四制曰、喪有四制。変而従宜、取之四時也。有恩有理有節有権、取之人情也。後世儒者汨没四書。故有種種贅言耳。先儒曰、如湯武放伐、伊尹放太甲、是権。仁斎先生曰、若伊尹之放太甲、固是権。如湯武放伐、可謂之道。不可謂之権。妄哉。所謂権者、如舜不告而娶、是也。伊尹放太甲、大臣之道為爾。豈得謂之権乎。湯武放伐、聖人之事也。聖人者道之所出、故古無論湯武者。後世儒者傲然自高、以聖智自処、妄意謂道先天地生。故有是妄説。豈不僭乎。

 

[権は、漢儒は経をもって対言す。程子、これを非とす。是(ぜ)なり。仁斎先生は孟子に拠(よ)りて、当(まさ)に礼をもって権に対すべしという。また是なり。これ漢儒は経を解して常と為(な)す、ゆえに誤るのみ。経なる者は、国家、制度を立つるの大綱領なり。夫(そ)れ経にして反すべくんば、あに、もって経と為すべけんや。礼は節目、甚(はなは)だ繁(しげ)し。ゆえにその末節に至りては、すなわち変じて宜(よろ)しきに従うのみ。仁斎先生、乃(すなわ)ちいわく、「礼は時に随(したが)いて損益すべし」と。殊(こと)に知らず、孔子のいわゆる損益なる者は、聖人、礼を制する時の事なることを。かつ、いわゆる権は、礼にもまた、これあり。喪服四制にいわく、「喪に四制あり。変じて宜しきに従うは、これを四時に取るなり。恩あり理あり節あり権あるは、これを人情に取るなり」と。後世の儒者は、四書に汨没(こつぼつ)す。ゆえに種種の贅言(ぜいげん)あるのみ。先儒いわく、「湯(とう)・武の放(ほう)・伐(ばつ)し、伊尹(いいん)の太甲(たいこう)を放ちたがるがごときは、これ権なり」と。仁斎先生いわく、「伊尹の太甲を放ちたるがごときは、固(もと)より、これ権なり。湯・武の放伐のごときは、これを道というべし。これを権というべからず」と。妄なるかな。いわゆる権なる者は、舜(しゅん)の告げずして娶(めと)りしがごとき、これなり。伊尹の太甲を放ちたるは、大臣の道しかりと為す。あに、これを権ということを得んや。湯・武の放・伐は、聖人の事なり。聖人なる者は道の出(い)ずる所、ゆえに古(いにしえ)は湯・武を論ずる者なり。後世の儒者は、傲然(ごうぜん)として自(みずか)ら高しとし、聖智をもって自ら処(お)り、妄意に、道は天地に先んじて生ずという。ゆえにこの妄説あり。あに僭(せん)ならずや。]

 

《権は、漢代の儒学者が、経を言葉で対立させた。程子(程顥/ていこう+程頤/ていい兄弟)は、これを非(誤り)とした。是だ(正しい)。伊藤仁斎先生は、『孟子』に依拠して、当然、礼を権に対立することができるという。また、是だ(正しい)。これは、漢代の儒学者が、経を解釈して、常とする。よって、誤るのだ。経なるものは、国家が制度を確立する、偉大な要点なのだ。そもそも経で、(権の)反対とすることができれば、どうして、それで経とすることができるのか(いや、できない)。礼は、節度の細目で、とても繁栄する。よって、その(礼の)末節に至っては、つまり変化して、よいことに、したがうのだ。伊藤仁斎先生が、つまり、いう、「礼は、随時、損(廃止)・益(追加)すべきだ」(『語孟字義』権2条)と。意外にも、孔子のいわゆる損・益なるものは、聖人が礼を制する時の事なのを、知らない。そのうえ、いわゆる権は、礼にも、また、これ(権)がある。(『礼記(らいき)』の)喪服四制篇によると、「喪には、4制がある。変化して、よいことに、したがうのは、これを4時に受け取るのだ。恩・理・節・権があるのは、これを人の情に受け取るのだ」。後世の儒学者は、4書(『論語』・『孟子』・『中庸』・『大学』)に、夢中になった。よって、様々な無駄な言葉があるのだ。先代の儒学者がいう、「湯王(殷王朝の創始者)が(夏王朝の桀/けつ王を)追放、武王(周王朝の創始者)が(殷王朝の紂/ちゅう王)討伐し、伊尹(殷の宰相、湯王が推挙)が太甲(殷王朝の4代帝王)追放したようなものは、これが権なのだ」と。伊藤仁斎先生がいう、「伊尹が太甲を追放したようなものは、元々、これが権なのだ。湯王・武王の討伐・追放のようなものは、これを道ということができる。これを権ということができない」(『語孟字義』権4条)と。妄想だな。いわゆる権なるものは、舜(古代中国の伝説上の帝王)が報告せずに、結婚したようなもので、これなのだ。伊尹が太甲を追放したのは、大臣の道が、そのようだとした。どうして、これを権ということができるのか(いや、できない)。湯王が追放、武王が討伐したのは、聖人の事なのだ。聖人なるものは、道が出現することで、よって、昔は、湯王・武王を論考するものなのだ。後世の儒学者は、誇り高くて、自分で高ぶって(自高)、聖・智を自分で処置して(自処)、妄想して、道は、天地に先行して生み出されたという。よって、この妄説がある。どうして、僭越でないのか(いや、僭越だ)。》

 

 

○物:1則

 

(1)

・物者、教之条件也。古之人学以求成徳於己。故教人者教以条件。学者亦以条件守之。如郷三物、射五物、是也。蓋六芸皆有之。成徳之節度也。習其事久之、而所守者成。是謂物格。方其始受教、而物尚不有於我。辟諸在彼而不来焉。及於其成、而物為我有。辟諸自彼来至焉。謂其不容力也。故曰物格。格者来也。教之条件得於我、則知自然明。是謂知至。亦謂不容力也。鄭玄解大学、訓格為来。古訓尚存者為爾。朱子解為窮理。窮理聖人之事、豈可望之学者哉。且其解曰、窮至物理。是格物加窮理而後義始成焉。可謂文外生意。豈非妄乎。且古所謂知至者、謂得諸身而後知始明也。而朱子欲窮在外者而致吾知。可謂強已。

 

[物なる者は、教えの条件なり。古(いにしえ)の人は学びて、もって徳を己(おのれ)に成さんことを求む。ゆえに人を教うる者は教うるに条件をもってす。学ぶ者もまた条件をもって、これを守る。「郷(きょう)の三物」、「射の五物」のごとき、これなり。けだし六芸に皆、これあり。徳を成すの節度なり。その事に習うこと、これを久しゅうして、守る所の者、成る。これ「物、格(きた)る」という。その始めて教えを受くるに方(あた)りて、物は尚(なお)我に有せず。これを彼(かしこ)に在りて来(きた)らざるに辟(たと)う。その成るに及んで、物は我が有と為(な)る。これを彼より来り至るに辟う。その力(つと)むるを容(い)れざるをいうなり。ゆえに「物、格る」と曰(い)う。「格」なる者は「来」なり。教えの条件、我に得れば、すなわち知、自然に明らかなり。これ「知、至る」という。また力むるを容れざるをいうなり。鄭玄(じょうげん)は大学を解し、「格」を訓じて「来」と為(な)す。古訓の尚、存する者しかりと為す。朱子は解して「理を窮(きわ)む」と為す。理を窮むるは聖人の事にして、あに、これを学者に望むべけんや。かつその解にいわく、「物の理に窮め至る」と。これ格物に窮理を加えて、しかる後、義、始めて成る。文外に意を生ずというべし。あに妄にあらずや。かつ古のいわゆる「知、至る」という者は、これを身に得て、しかる後、知、始めて明らかなるをいうなり。しかるに朱子は外に在(あ)る者を窮めて吾が知を致さんと欲す。強(し)うというべきのみ。]

 

《物なるものは、教えの条件(具体的内容)なのだ。昔の人は、学んで、それで徳を自己に成就することを探し求めた。よって、人を教えるものは、教えるのに、条件によってした。学ぶものも、また、条件によって、これ(教え)を守った。「郷の3物(大司徒/宰相が万民に教えた3事で、6徳・6行・6芸)」・「射の5物(郷射の礼の5事で、和・容・主皮・和容・興舞)」(『周礼(しゅらい)』)のようなものは、これ(物)なのだ。思うに、6芸には、すべて、これ(物)がある。徳を成就するのは、節度の細目なのだ。その(徳の)事に習うことは、これ(学び)を長くして、守るものが成就する。これは、「物が、きた(格)る」という。その最初に教えを受けるのにあたって、物は、まだ私に保有しない。これを、あちらにあって、来ていないことに、例える。それが成就するのに及んで、物は、私が保有となる。これを、あちらから来て至ることに、例える。その(来る)努力を容認しないことをいうのだ。よって、「物が、きた(格)る」という。「格」なるものは、「来」なのだ。教えの条件が、私に得られれば、つまり知は、自然に明らかなのだ。これは、「知が至る」という。また、努力するのを容認しないことをいうのだ。鄭玄(後漢代末期の儒学者)は、『大学』を解釈し、「格」を注釈(訓注)して、「来」とした。昔の注釈が、まだ存在するものは、そのようだとする。朱子は、解釈して、「窮理(理を探究すること)」とする。窮理は、聖人の事で、どうして、これ(窮理)を学ぶ者に望むことができるのか(いや、できない)。そのうえ、その(朱子の)解釈によると、「物の理は、探究に至る」。これは、格物に窮理を加えて、はじめて、義が成就する。文章以外に意味を生み出したということができる。どうして妄想でないのか(いや、妄想だ)。そのうえ、昔のいわゆる「知が至る」というものは、これを自身に得て、はじめて、知が明らかになることをいうのだ。それなのに、朱子は、外にあるものを探究して、私が知をいたしたいとする。強制ということができるのだ。》

 

・且如中庸曰、成己仁也。成物知也、亦謂学問之道也。学而成徳於己、以其後来統会者言之。故曰仁也。所受教件有成功、是所謂物格也。物格而后知至。故曰知也。又孟子曰、万物皆備於我矣。反身而誠、楽莫大焉。亦謂此也。教之条件、其数甚多。故曰万物。皆有於我之事也。故曰皆備於我。習之熟而後為我有。為我有則不思而得、不勉而中。是謂反身而誠。不爾、謂天地間之万物備於我、則孟子時、豈有此荒唐之論乎。是皆不知古言之失也。又如其次致曲、亦謂学曲礼而有諸身也。曲礼在彼、習之久而身有之、亦如自彼来至。故曰致。古学問之道、可以見已。

 

[かつ中庸に「己(おのれ)を成すは仁なり。物を成すは知なり」と曰(い)うがごときも、また学問の道をいうなり。学んで徳を己に成すは、その後来の統会する者をもって、これをいう。ゆえに「仁」と曰うなり。受くる所の教件に成功あるは、これいわゆる「物、格(きた)る」なり。物、格りて、しかる後、知、至る。ゆえに「知」と曰うなり。また孟子いわく、「万物、皆、我に備(そなわ)る。身に反(かえ)りて誠ならば、楽しみ、焉(これ)より大なるはなし」と。またこれをいうなり。教えの条件は、その数、甚(はなは)だ多し。ゆえに「万物」と曰う。皆、我に有するの事なり。ゆえに「皆、我に備る」と曰う。習うことの熟して、しかる後、我が有と為(な)る。我が有と為らば、すなわち思わずして得、勉めずして中(あた)る。これ「身に反りて誠なり」という。しからずして、天地間の万物、我に備るといわば、すなわち孟子の時に、あにこの荒唐の論あらんや。これ皆、古言を知らざるの失なり。また「その次は曲を致す」のごときも、また曲礼を学んで、これを身に有するをいうなり。曲礼は彼(かしこ)に在(あ)り、習うことの久しゅうして、身これを有すること、また彼より来(きた)り至るがごとし。ゆえに「致す」と曰う。古の学問の道、もって見るべきのみ。]

 

《そのうえ、『中庸』で、「自己を成就するのは、仁なのだ。物を成就するのは、知なのだ」(14-25)というようなものに、また、学問の道をいうのだ。学んで、徳を自己に成就するのは、それ(物)がこの後の統合するものによって、これ(学問の道)をいう。よって、「仁」というのだ。受けることの教える件に成功があるのは、これがいわゆる「物がきた(格)る」なのだ。物が格りて、はじめて、知が至る。よって、「知」というのだ。また、孟子がいう、「万物は、すべて、私に具備している。自身に反省して誠ならば、楽しみが、これよりも大きいことがない」(『孟子』13-180)また、これ(学問の道)をいうのだ。教えの条件は、その数がとても多い。よって、「万物」という。すべて、私に保有する事なのだ。よって、「すべて、私に具備している」という。習うことが熟練して、はじめて、私が保有となる。私が保有となれば、つまり思わないで、得て、努力しないで、適中する。これは、「自身に反省して誠だ」という。そうしないで、天と地の間の万物が、私に具備するといえば、つまり孟子の時代に、どうして、この取り止めのない論考があったのか(いや、なかった)。これは、すべて、古い言葉を知らない過失なのだ、また、「その(直の)次は、曲をいたす」(『中庸』12-23)のようなものも、また、曲礼(礼儀の細目)を学んで、これ(曲礼)を自身に保有することをいうのだ。曲礼が、あちらにあり、習うことが長くて、自身がこれ(曲礼)を保有することは、また、あちらから来て至るようなものだ。よって、「いた(致)す」という。昔の学問の道は、それで見ることができるのだ。》

 

・又如大象伝曰、言有物而行有恒、緇衣曰、言有物而行有格也、蓋古之君子、非先王法言不敢道也。所言皆誦古言、如左伝卿大夫之言、克己復礼、出門如見大賓之類。皆孔子所以為教也。如陽貨曰、日月逝矣。歳不我与、懐宝迷其邦、亦如宋玉曰、口多微辞、所学於師也、可見古人学詩、其言爾雅如此。是皆所謂言有物也。言其不任臆肆言、必誦古言、以見其意已。古言相伝、存於宇宙間。人記憶古言、而在其胸中、猶如有物善。故謂之物。若任臆肆言、則胸中莫有所記憶。莫有一物、是無物也。曰行有格者、言不待格、徒記憶古言而言之耳。至於行、則必求得諸身。故曰行有格。格則恒久。故又曰行有恒。其義一矣。

 

[また大象(だいしょう)伝に「言に物ありて、行いに恒(つね)あり」と曰(い)い、緇衣(しい)に「言に物ありて、行いに格あるなり」と曰うがごときは、けだし古(いにしえ)の君子は、先王の法言にあらずんば敢(あ)えて道(い)わざるなり。いう所、皆、古言を誦(じゅ)せしことは、左伝の卿・大夫の言の「己(おのれ)を克して礼に復(かえ)る」、「門を出(い)でては大賓を見るがごとし」の類のごとし。皆、孔子のもって教えと為す所なり。陽貨の「日月、逝(ゆ)けり。歳、我とともにせず、宝を懐(いだ)きて、その邦(くに)を迷わす」と曰うがごとき、また宋玉(そうぎょく)の「口に微辞、多きは、師に学ぶ所なり」と曰うがごとき、見るべし、古人、詩を学べば、その言の爾雅(じが)なること、かくのごときを。これ皆いわゆる「言に物あり」なり。その臆に任せて肆言(しげん)せず、必ず古言を誦して、もってその意を見(あらわ)せしことをいうのみ。古言、相伝りて、宇宙の間に存す。人、古言を記憶して、その胸中に在ること、なお物あるがごとく、しかり。ゆえにこれを物という。もし臆に任せて肆言せば、すなわち胸中には記憶する所あることなし。一物あることなき、これ物なきなり。「行いに格あり」と曰う者は、言は格(きた)すことを待たず、ただ古言を記憶して、これをいうのみ。行いに至りては、すなわち必ず、これを身に得んことを求む。ゆえに「行いに格あり」と曰う。格(きた)すときは、すなわち恒久なり。ゆえにまた「行いに恒あり」と曰う。その義は一なり。]

 

《また、『易経』の大象伝で、「言葉に物があって、行いに恒がある」といい、(『礼記(らいき)』の)緇衣篇で、「言葉があって、行いに格があるのだ」というようなものは、思うに、昔の君子(立派な人)が、先王の手本となる言葉でなければ、あえていわないのだ。いうことは、すべて、昔の言葉を唱えたことが、『春秋左氏伝』の卿・大夫の言葉の「自己に打ち勝って(克己)、礼に立ち返る」(『論語』12-279)・「(家の)門を出れば、大切な賓客を見るようなものだ」(『論語』12-280)の同類のようなものだ。すべて、孔子が、それで教えとすることなのだ。陽虎(ようこ、魯の公族の臣下)が、「日・月が去った。年月は、私と一緒にせず、宝を抱いて、その国を迷わす」(『論語』17-435)というようなものは、また、宋玉(戦国末期の楚の文人)が「口に、ほのめかす言葉が多ければ、師に学んだことなのだ」というようなもので、昔の人が詩を学べば、その言葉の正しく使うことが、このようなのを、見ることができる。これは、すべて、いわゆる「言葉に物がある」のだ。その憶測に任せて、勝手気ままな言葉にせず、必ず古い言葉を唱えて、それでその意味を現わすことをいうのだ。古い言葉は、互いに伝わって、宇宙の間に存在する。人は、古い言葉を記憶して、その胸中にあることは、ちょうど物があるようなもので、そのようだ。よって、これを物という。もし、憶測に任せて、勝手気ままな言葉にすれば、つまり胸中には、記憶することがない。ひとつの物がなく、これは、物がないのだ。「行いに格あり」というものは、言葉が来ることを待たないで、ただ古い言葉を記憶して、これ(胸中にあること)をいうのだ。行いに至っては、つまり必ず、これ(古い言葉)を自身に得ることを探し求める。よって、「行いに格あり」という。きた(格)すならば、つまり永久なのだ。よって、また、「行いに恒がある」という。その(行いの)意義は、ひとつなのだ。》

 

 

(つづく)