荻生徂徠「弁名」下・読解13~学(4)-(9) | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

(4)

・朱子居敬窮理之説、其過在不遵先王之教、求理於心。而心昏則理不可得而見之。故又有居敬之説、以持其心。心豈可持乎哉。皆臆度以言之、而未嘗親為其事者也。故其説如可聴、為俗人所悦、皆出於私意妄作。非古之道也。

 

[朱子の居敬(きょけい)・窮理(きゅうり)の説は、その過ちは先王の教えに遵(したが)わずして、理を心に求むるに在(あ)り。しかるに心、昏(くら)ければ、すなわち理は得て、これを見るべからず。ゆえにまた居敬の説ありて、もってその心を持す。心は、あに持すべけんや。皆、臆度(おくたく)して、もってこれをいいて、未だ嘗(かつ)て親しく、その事を為(な)さざる者なり。ゆえにその説は聴くべきがごとくして、俗人の悦(よろこ)ぶ所となれども皆、私意妄作に出(い)ず。古(いにしえ)の道にあらざるなり。]

 

《朱子の居敬(心を敬の状態でいること)・窮理(理を探究すること)の説は、その過失が、先王の教えにしたがわないで、理を心に探し求めることにある。それなのに、心が暗ければ、つまり理は、得て、これ(先王の教え)を見ることができない。よって、また、居敬の説があって、それでその(理の)心を持つ。心は、どうして持つことができるのか(いや、できない)。すべて、憶測で、それでこれ(理)をいって、今まで一度も親密に、その(先王の教えの)事をしていないものなのだ。よって、その(居敬・窮理の)説は、聞くべきことのようなもので、俗人が喜ぶことだが、すべて、私的な意思・妄作が出ている。昔の道でないのだ。》

 

 

(5)

・孔子好学、論語屡以自道。宋儒不知其義、以為謙辞。仁斎先生以為稽古補偏。皆非也。夫道者、先王所立、非天地自然有之焉。生民以来数千載、更数十聖人之心力知巧所成、而非一聖人終身之力所能為。故雖聖人、不学不能知道。是孔子所以学也。後儒狃聞老氏之説、以為道者天地自然有之、苟有聖徳、則道挙而措之。故其説皆窒碍不通矣。

 

[孔子は学を好み、論語にしばしば、もって自(みずか)ら道(い)う。宋儒はその義を知らずして、もって謙辞と為(な)す。仁斎先生は、もって古(いにしえ)を稽(かんが)え偏(かたより)を補(おぎな)うと為す。皆、非なり。夫(そ)れ道なる者は、先王の立つる所にして、天地自然にこれあるにあらず。生民より以来、数千載(せんざい)、数十聖人の心力・知巧を更(へ)て成す所にして、一聖人、終身の力のよく為す所にあらず。ゆえに聖人といえども、学ばずんば道を知ること能(あた)わず。これ孔子の学びし所以(ゆえん)なり。後儒は老氏の説を狃(な)れ聞きて、以為(おも)えらく、道なる者は天地自然にこれあり、いやしくも聖徳あらば、すなわち道は挙げて、これを措(お)くと。ゆえにその説は皆、窒碍(ちつがい)して通ぜず。]

 

《孔子は、学問を好み、『論語』にしばしば、それで自分からいっている。宋代の儒学者は、その(学問を好む)意義を知らないで、それで謙遜した言葉とする。伊藤仁斎先生は、それで昔を考え、偏見を補おうとする。すべて、非(誤り)なのだ。そもそも道なるものは、先王が確立したことで、天地自然に、これ(道)があるのではない。人類が誕生して以来、数1000年に、数10の聖人の心の力・知の巧を経験して成就したことで、一人の聖人が、生涯の力の充分にしたことでない。よって、聖人といっても、学ばなければ、道を知ることができない。これは、孔子が学んだ理由なのだ。後世の儒学者は、老子の説を慣れ聞いて、思うに、道なるものは、天地自然に、これ(道)があり、もしも、聖なる徳があれば、つまり道は、取り上げて、これ(道)を据え置く(挙措)。よって、その(居敬・窮理の)説は、すべて、行き詰まって通用しない。》

 

 

(6)

・仁斎先生曰、学問以道徳為本、見聞為用。非若今人専以読書冊講義理為学問者比焉。殊不知、学者学先王之道以求成徳於己耳。故道徳之外、豈有它哉。何本末之有也。且子路曰、何必読書、然後為学、則孔子悪夫佞者。今以読書冊為非。世所謂道学先生、自有此俗態。豈不醜哉。且所謂見聞為用者、引子張干禄。是自干禄之道、豈学問之法哉。舎六経而求諸見聞、其不肆然自恣者幾希。

 

[仁斎先生いわく、「学問は道徳をもって本と為(な)し、見聞を用と為す。今人の専(もっぱ)ら書冊を読み義理を講ずるをもって学問と為す者のごときの比にあらず」と。殊(こと)に知らず、学なる者は先王の道を学んで、もって徳を己(おのれ)に成さんことを求むるのみなることを。ゆえに道徳の外(ほか)に、あに它(た)あらんや。何の本末か、これあらんや。かつ子路(しろ)「何ぞ必ずしも書を読みて、しかる後、学ぶと為さん」と曰(い)いたれば、すなわち孔子は、夫(か)の佞(ねい)者を悪(にく)めり。今、書冊を読むをもって非と為す。世のいわゆる道学先生は、自(おの)ずから、この俗態あり。あに醜(しゅう)ならずや。かつ、いわゆる「見聞を用と為す」という者に、子張(しちょう)の禄を干(もと)むるを引く。これ自ずから禄を干むるの道にして、あに学問の法ならんや。六経を舎(す)てて、これを見聞に求めるときは、その肆然(しぜん)として自恣(じし)せざる者は幾希(すくな)し。]

 

《伊藤仁斎先生がいう、「学問は、道徳を根本とし、見聞を用法とする。今の人が、ひたすら書物を読み、義の理を講釈することを学問とするようなものと、比較にならない」(『語孟字義』学3条)と。意外にも、学なるものは、先王の道を学んで、それで徳を自己に成就することを探し求めるだけなのを、知らない。よって、道徳以外に、どうして他があるのか(いや、他はない)。何の根本・末端が、これ(学問)にあるのか。そのうえ、子路(孔子の弟子)が、「なぜ必ず読書して、はじめて、学ぶことをするのか」というのは、つまり、孔子が、あの口達者を憎んでいるからだ。今は、書物を読むことを、非(誤り)とする。世の中のいわゆる宋代の学者は、自然に、この(書物を読むことを誤りとする)低俗な状態がある。どうして醜(みにく)くないのか(いや、醜い)。そのうえ、いわゆる「見聞を用法とする」というものは、子張(孔子の弟子)が俸禄(給与)を求めることを(学んだのを)引用する。これは、自然に俸禄を求める道で、どうして学問の方法なのか(いや、学問の方法でない)。6経を捨て去って、これ(学問の方法)を見聞に探し求めるならば、その(自己の)ほしいままで自分勝手にしない者は、少ない。》

 

 

(7)

・学問之道、以信聖人為先。蓋聖人知大仁至、而其思深遠也。其所立教人之法、治国之術、皆有若迂遠不近人情者存焉。乃後儒好自用其智、而信聖人之不深、故其意謂上古之法不合今世之宜。遂別立居敬窮理主静致良知種種之目焉。是皆其私智浅見所為耳。殊不知、道無古今一也。設使聖人之教不合今世之宜、則亦非聖人焉。故学者苟能一意遵聖人之教、習之久、与之化、而後能見聖人之教亘万世、有不可得而易者也。

 

[学問の道は、聖人を信ずるをもって、先と為(な)す。けだし聖人は知、大に仁、至りて、その思うこと深遠なり。その立つる所の人を教うるの法、国を治むるの術は皆、迂遠にして人情に近からざるがごとき者の存することあり。乃(すなわ)ち後儒は好んで自(みずか)ら、その智を用いて、聖人を信ずるの深からざる、ゆえにその意に謂(おも)えらく、上古の法は今の世の宜(よろ)しきに合(あわ)せずと。遂に別に居敬(きょけい)・窮理(きゅうり)・主静・致良知の種種の目(もく)を立つ。これ皆その私智、浅見の為す所のみ。殊(こと)に知らず、道は古今となく、一なることを。設使(もし)聖人の教え、今の世の宜しきに合せずんば、すなわち、また聖人にあらず。ゆえに学者いやしくも、よく一意に聖人の教えに遵(したが)い、これに習うこと久しく、これと化せば、しかる後よく聖人の教えの万世に亘(わた)りて、得て易(か)うべからざる者あるを見るなり。]

 

《学問の道は、聖人を信じることを真先にする。思うに、聖人は、知が偉大で、仁が至って、その(聖人の)思うことは、深遠なのだ。それ(聖人)が確立した、人を教える方法・国を統治する術は、すべて、まわりくどくて、人の情に近くないようなものが存在することもある。つまり後世の儒学者は、好んで、自分で、その(後世の儒学者の)智を用いて、聖人を信じることが深くなく、よって、その(後世の儒学者の)意思は、思うに、大昔の方法が、今の世の中のよいことに合わせていない。結局、別に居敬・窮理・主静(無欲の安静)・致良知(私欲の除去)の様々な項目を確立した。これは、すべて、その(後世の儒学者の)私的な智恵が、浅はかな見識とすることなのだ。意外にも、道は、昔も今もなく、ひとつなのを、知らない。もし、聖人の教えが、今の世の中のよいことに合わすことがなければ、つまり、また、聖人でない。よって、学ぶ者は、もしも、充分に、ひとつの意思が、聖人の教えにしたがい、これ(聖人の教え)に習うことが長く、これ(道)に変化して、はじめて、充分に聖人の教えが全時代に渡って得て、変わることができないものがあるのを見るのだ。》

 

 

(8)

・読書之道、以識古文辞古言為先。如宋諸老先生、其稟質聡敏、操志高邁、豈漢唐諸儒所能及哉。然自韓柳出而後文辞大変、而言古今殊矣。諸先生生於其後、以今文視古文、以今言視古言。故其用心雖勤、卒未得古之道者、職此之由。及於明滄溟先生、始倡古文辞、而士頗能読古書如読後世之書者亦有之。祇其所志、僅在丘明子長之間、而不及六経。豈不惜乎。然苟能遵其教、而知古今文辞之所以殊、則古言可識、古義可明、而古聖人之道可得而言焉。学者其留意諸。

 

[書を読むの道は、古文辞を識(し)り古言を識るをもって先と為(な)す。宋の諸老先生のごときは、その稟質(ひんしつ)、聡敏(そうびん)、操志高邁(こうまい)にして、あに漢唐諸儒のよく及ぶならんや。しかれども韓・柳、出(い)でてよりして後、文辞、大いに変じ、しこうして言は古今、殊(こと)なり。諸先生はその後に生(うま)れ、今文をもって古文を視、今言をもって古言を視る。ゆえにその心を用うるは勤むといえども、卒(つい)に未だ古(いにしえ)の道を得ざる者は、職として、これにこれ由(よ)る。明(みん)の滄溟(そうめい)先生に及んで、始めて古文辞を倡(とな)え、しこうして士、頗(すこぶ)るよく古書を読むこと、後世の書を読むごとき者も、またこれあり。祇(ただ)その志す所は、僅(わず)かに丘明・子長の間に在(あ)りて、六経に及ばず。あに惜しからずや。しかれども、いやしくも、よくその教えに遵(したが)いて、古今の文辞の殊なる所以(ゆえん)を知らば、すなわち古言、識るべく、古義、明らかにすべくして、古聖人の道、得ていうべし。学者それ意をこれに留めよ。]

 

《読書の道は、古文辞(古い文章の言葉)を知り、古い言葉を知ることを真先にする。宋代の様々な老人の先生のようなものは、その(様々な先生の)生まれ持った性質が、聡明・鋭敏で、意志が固く優れていて、どうして漢代・唐代の様々な儒学者が充分に及ぶのか(いや、及ばない)。しかし、韓愈(かんゆ、唐代中期の学者)・柳宗元(りゅうそうげん、唐代中期の学者、韓愈と古文復興運動を提唱)が出現して以後、文章の言葉がとても変化し、そうして、言葉は、昔と今で異なった。様々な先生は、その後に生まれ、今の文章によって古い文章を見て、今の言葉によって、古い言葉を見た。よって、それ(古いものを今のように見ること)を用心して勤めるといっても、結局、まだ昔の道を得られないのは、主として、これ(古いものを今のように見ること)による。明代の王世貞(おうせいてい、学者、古文復古運動を提唱)に及んで、はじめて、古文辞を提唱し、そうして、士は、たいそう充分に古書を読むことが、後世の書物を読むようにするのも、また、これ(古いものを今のように見ること)がある。ただそれ(王世貞)が意志することは、わずかに、左丘明(さきゅうめい、春秋時代の学者、『春秋左氏伝』の著者)・司馬遷(しばせん、前漢代の歴史家、『史記』の著者)の間にあって、6経には及ばない。どうして惜しくないのか(いや、惜しい)。しかし、もしも、充分にその(聖人の)教えにしたがって、昔と今の文章の言葉が異なる理由を知れば、つまり古い言葉が知ることができれば、古い意義が明らかにできて、古い聖人の道を得て、いうことができる。学者は、それでこれ(古文辞)を留意せよ。》

 

 

(9)

・大学小学、学校之名也。朱子以為学問有大小之分者、非也。賈誼所言、唯以大事小事大節小節言之。内則所載、十歳至二十歳、其所学次第、可以見已。六芸亦終身之業、而朱子以属小学之事、而別以格物致知誠意正心脩身為大学所教。豈然乎。大学所言、工夫唯在格物、而致知以下、皆其效験已。大学在郊、小学在公宮南之左、而郷曰庠、術曰序、家曰塾。是小学与庠序校殊焉。庠序校塾為郷術州里人所游、而小学乃世子所習礼処、賈誼所言、亦世子之礼、則朱子之説、豈非謬乎。

 

[大学・小学は、学校の名なり。朱子、もって学問に大小の分ありと為(な)す者は、非なり。賈誼(かぎ)のいう所は、ただ大事・小事・大節・小節をもって、これをいう。内則に載する所は、十歳より二十歳に至るまで、その学ぶ所の次第なること、もって見るべきのみ。六芸もまた終身の業なるに、朱子は、もって小学の事に属し、しこうして別に格物・致知・誠意・正心・脩身をもって大学の教うる所と為す。あに、しからんや。大学のいう所は、工夫はただ格物に在(あ)り、しこうして致知以下は、皆その效験のみ。大学は郊に在り、小学は公宮の南の左に在り、しこうして郷には庠(しょう)と曰(い)い、術には序と曰い、家には塾と曰う。これ小学と庠・序・校とは殊(こと)なり。庠・序・校・塾は、郷・術・州・里の人の游(あそ)ぶ所為(た)りて、小学は、乃(すなわ)ち世子(せいし)の礼を習う所の処、賈誼のいう所も、また世子の礼なれば、すなわち朱子の説は、あに謬(あやま)りにあらずや。]

 

《大学・小学は、学校の名なのだ。朱子が、それで学問に大小の分別があるとするのは、非(誤り)なのだ。賈誼(前漢代の学者)のいうことは、ただ大事・小事・大節・小節によって、これ(大小)をいう。(『礼記(らいき)』の)内則篇に記載することは、10歳から20歳に至るまで、その(学問の大小の)学ぶことの順序よいのが、それで見ることができるのだ。6芸も、また、生涯の事業で、朱子は、それで小学の事業に属し、そうして、別に、格物・致知・誠意・正心・修身を、(書物の)『大学』が教えることとする。どうして、そのようなのか(いや、そのようでない)。『大学』のいうことは、工夫が、ただ格物にあり、そうして、致知以下は、すべて、その(工夫の)効果なのだ。(学校の)大学は、郊外にあり、小学は、公的な宮殿の南の左にあり、そうして、(学校は、)(都に近い)郷では、庠といい、(都に遠い)術(遂)では、序といい、家では、塾という。これは、小学と庠・序・校で異なる。庠・序・校・塾は、郷・術(遂)・州・里の人が楽しむ場所であって、小学は、つまり帝王・諸侯の後継者が礼を習う場所で、賈誼のいうことも、また、帝王・諸侯の後継者の礼であれば、つまり朱子の説は、どうして誤りでないのか(いや、誤りだ)。》

 

・文王世子曰、凡学、世子及学士必時、春夏学干戈、秋冬学羽籥、皆於東序。春誦夏弦、大師詔之瞽宗。秋学礼、執礼者詔之。冬読書、典書者詔之。礼在瞽宗、書在上庠。内則曰、有虞氏養国老於上庠、養庶老於下庠。夏后氏養国老於東序、養庶老於西序。殷人養国老於右学、養庶老於左学。周人養国老於東膠、養庶老於虞庠。虞庠在国之西郊。是庠序学瞽宗、皆所習之礼不同。故其宮室之制亦異。是其所以殊名也。大学具庠序瞽宗之制、亦可見已。朱子一概岐為大小学者、豈非謬乎。

 

[文王世子にいわく、「凡(およ)そ世子、及び学士に学(おし)うるには必ず時あり。春夏には干戈(かんか)を学(おし)え、秋冬には羽籥(うやく)を学え皆、東序においてす。春には誦(しょう)し夏には弦(げん)し、大師(たいし)これを瞽宗(こそう)に詔(つ)ぐ。秋には礼を学え、執礼者これを詔ぐ。冬には書を読み、典書者これを詔ぐ。礼は瞽宗に在(あ)り、書は上庠(じょうしょう)に在り」と。内則にいわく、「有虞(ゆうぐ)氏は国老を上庠に養い、庶老を下庠に養う。夏后氏は国老を東序に養い、庶老を西序に養う。殷人(いんひと)は国老を右学に養い、庶老を左学に養う。周人は国老を東膠(こう)に養い、庶老を虞庠(ぐしょう)に養う。虞庠は国の西郊に在り」と。これ庠・序・学・瞽宗は皆、習わす所の礼、同じからず。ゆえにその宮室の制もまた異なり。これその名を殊にする所以なり。大学は庠・序・瞽宗の制を具(そな)うること、また見るべきのみ。朱子、一概に岐(わか)ちて大小の学と為(な)す者は、あに謬(あやま)りにあらずや。]

 

《(『礼記(らいき)』の)文王(殷代末期の周の君主)世子篇によると、「だいたい帝王・諸侯の後継者・学士に教えるには、必ず時機がある。春・夏には、盾(たて、干)と矛(ほこ、戈)での武の舞を教え、秋・冬には、キジの羽根と笛での文の舞を教え、すべて、東序(の学校)においてする。春には、詩歌を唱え、夏には、弦楽器を弾き、大楽正(楽の長官)が、これを瞽宗(の学校)で告げ教えた。秋には、礼を教え、礼儀担当教官が、これを告げ教える。冬には、読書し、書経担当教官が、これを告げ教える。礼は、瞽宗(の学校)にあり、書は、上庠(の学校)にある」。(『礼記』の)内則篇によると、「舜(古代中国の伝説上の帝王)は、国老(卿・大夫の退官者)を、上庠(の学校)で教え養わさせ、庶老(士の退官者)を下庠(の学校)で教え養わさせた。夏王朝は、国老を東序(の学校)で教え養わさせ、庶老を西序(の学校)で教え養わさせた。殷王朝の人は、国老を右学(の学校)で教え養わさせ、庶老を左学(の学校)で教え養わさせた。周王朝の人は、国老を東膠(の学校)で教え養わさせ、庶老を虞庠(の学校)で教え養わさせた。虞庠は、国(の都)の西の郊外にあった」。これは、庠・序・学・瞽宗で、すべて、習わす礼が、同じでない。よって、その(学校の)建物の制度も、また、異なる。これは、その(学校の)名が異なる理由なのだ。大学は、庠・序・瞽宗の制度を具備させることが、また、見ることができるのだ。朱子が、一概に分岐して、大小の学校とするものは、どうして誤りでないのか(いや、誤りだ)。》

 

・王制曰、凡入学以歯。将出学、小胥大胥小楽正簡不帥教者、以告于大楽正。大楽正以告于王。王命三公九卿大夫元士皆入学。不変、王親視学。不変、王三日不挙、屏之遠方。是古所謂入学、謂適学也。非若後世養生徒於学者也。朱子昧乎古礼。皆謬矣。

 

[王制にいわく、「凡(およ)そ学に入りては歯(よわい)をもってす。まさに学を出(い)でんとするとき、小胥(しょ)・大胥・小楽正(がくせい)、教えに帥(したが)わざる者を簡(えら)び、もって大楽正に告ぐ。大楽正、もって王に告ぐ。王、三公・九卿(けい)・大夫(たいふ)・元士に命じて皆、学に入れしむ。変ぜざれば、王、親しく学を視る。変ぜざれば、王、三日挙げず、これを遠方に屏(しりぞ)く」と。これ古(いにしえ)のいわゆる「学に入る」とは、学に適(ゆ)くをいうなり。後世の生徒を学に養うごとき者にあらざるなり。朱子、古礼に昧(くら)し。皆、謬(あやま)れり。]

 

《(『礼記(らいき)』の)王制篇によると、「だいたい入学は、年齢によってする。まさに大学を卒業するならば、小胥(下役人)・大胥・小楽正(の楽官)で、教えにしたがわない者を選んで、それで大楽正(楽の長官)に報告する。大楽正は、それで王に報告する。王は、3公(天子を補佐する3人)・9卿(大夫の上位)・大夫(卿の下位で、士の上位)・元士(大夫の下位)に命令して、(報告された者を)皆、(再度)入学させる。変わらなければ、王は、親密に大学を視察する。変わらなければ、王は、3日間、(食事の音楽を)挙行せず、これ(変わらない者)を遠方に追放する」。これは、昔のいわゆる「入学」が、大学に行って、したがうことをいうのだ(適従)。後世の生徒を学校で(食べさせて)養うようなものではないのだ。朱子は、昔の礼に暗い。すべて、誤りだ。》

 

 

(つづく)