荻生徂徠「弁名」下・読解11~陰陽・五行、五常、極 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

○陰陽・五行:2則

 

(1)

・陰陽者、聖人作易、所立以為天之道者也。所謂極也。学者以陰陽為準、以此而観乎天道之流行、万物之自然、則庶或足以窺之也。然至人事則不然、何則、聖人不立此以為人之道故也。後世説陰陽者、其言曼衍、遂至被之人之道。謬矣。且易主占筮、以稽其疑、以決其幾。故四象八卦六十四卦三百八十四爻、不出奇偶、則亦不出陰陽。判以為二故也。聖人之道主行之。行之者貴一。是其所以不与它経同也。学者察諸。

 

[陰陽なる者は、聖人、易を作るに、立てて、もって天の道と為(な)せし所の者なり。いわゆる極なり。学者、陰陽をもって準と為し、これをもってして天道の流行、万物の自然を観れば、すなわち或いは、もってこれを窺(うかが)うに足るに庶(ちか)きなり。しかれども人事に至りては、すなわち、しからず。何となれば、すなわち聖人は、これを立てて、もって人の道と為さざるがゆえなり。後世、陰陽を説く者、その言、曼衍(まんえん)して、遂に、これを人の道に被(こうむ)らしむるに至る。謬(あやま)れり。かつ易は占筮(せんぜい)を主とし、もってその疑いを稽(かんが)え、もってその幾(きざし)を決す。ゆえに四象(しょう)・八卦(け)・六十四卦・三百八十四爻(こう)は、奇・偶を出(い)でざれば、すなわち、また陰陽を出でず。判(わか)ちて、もって二と為すがゆえなり。聖人の道は、これを行うを主とす。これを行う者は一を貴(たっと)ぶ。これその它(た)経と同じからざる所以(ゆえん)なり。学者これを察せよ。]

 

《陰陽なるものは、聖人が易を作為するのに確立して、それで天の道としたものなのだ。いわゆる極なのだ。学者は、陰陽を準則とし、これによることで、天道の行き渡り・万物の自然を観察すれば、つまり、それでこれ(陰陽)をうかがうのに充分に近かったりするのだ。しかし、人の事に至っては、つまり、そのようでない。なぜかといえば、つまり聖人は、これ(陰陽)を確立して、それで人の道としないからなのだ。後世に、陰陽を説くものは、その(人の道)の言葉が蔓延して、結局、これ(陰陽)を人の道に受けさせることに至る。誤りだ。そのうえ、易は、占いを主とし、それでその疑いを占って考え定め(稽疑/けいぎ)、それでその兆(きざ)しを決める。よって、4象・8卦・64卦・384爻は、奇数か偶数かを出なければ、つまり、また、陰陽を出ない。判別して、それで2つとするからなのだ。聖人の道は、これ(2つ)を行うことを主とする。これを行うものは、1つを尊貴する。これは、その他の経書と同じでない理由なのだ。学者は、これを推察せよ。》

 

 

(2)

・五行始見虞書。水火金木土穀、謂之六府。是言地上之六物也。利用厚生之道、所用之材、不出是六者。然五行之名、則至洪範始有之、曰一、五行。一曰水、二曰火、三曰木、四曰金、五曰土。水曰潤下、火曰炎上、木曰曲直、金曰従革、土爰稼穡。潤下作鹹、炎上作苦、曲直作酸、従革作辛、稼穡作甘。二、五事。一曰貌、二曰言、三曰視、四曰聴、五曰思。貌曰恭、言曰従、視曰明、聴曰聡、思曰睿。恭作粛、従作乂、明作哲、聡作謀、睿作聖。曰休徴。曰粛時雨若、曰乂時暘若、曰哲時燠若、曰謀時寒若、曰聖時風若。曰咎徴。曰狂恒雨若、曰僭恒暘若、曰豫恒燠若、曰急恒寒若、曰蒙恒風若。伝其学者、遂以五行合諸五事庶徴、以為人君之徳感天之事也。其以五行配諸五味、則伝記所謂五声五臭五色之類、洪範時既有之。而所謂雨暘燠寒風、亦似始天之五気言之。

 

[五行は初めて虞(ぐ)書に見ゆ。水・火・金・木・土・穀、これを六府という。これ地上の六物をいうなり。用を利し生を厚くするの道は、用うる所の材、この六者を出(い)でず。しかれども五行の名は、すなわち洪範に至りて始めて、これあり、いわく、「一に五行。一にいわく水、二にいわく火、三にいわく木、四にいわく金、五にいわく土。水には潤下と曰(い)い、火には炎上と曰い、木には曲直と曰い、金には従革と曰い、土はここに稼穡(かしょく)す。潤下は鹹(かん)と作(な)り、炎上は苦と作り、曲直は酸と作り、従革は辛と作り、稼穡は甘と作る。二に五事。一にいわく貌、二にいわく言、三にいわく視、四にいわく聴、五にいわく思。貌には恭と曰い、言には従と曰い、視には明と曰い、聴には聡と曰い、思には睿(えい)と曰う。恭は粛と作り、従は乂(がい)と作り、明は哲(せつ)と作り、聡は謀と作り、睿は聖と作る。いわく休徴。いわく粛なれば時雨、若(したが)い、いわく乂なれば時暘(ちょう)若い、いわく哲なれば時燠(いく)若い、いわく謀なれば時寒、若い、いわく聖なれば時風、若う。いわく咎徴(きょうちょう)。いわく狂なれば恒雨、若い、いわく僭なれば恒暘、若い、いわく豫なれば恒燠、若い、いわく急なれば恒寒、若い、いわく蒙なれば恒風、若う」と。その学を伝うる者、遂に五行をもって、これを五事の庶徴(しょちょう)に合して、もって人君の徳の天を感ぜしむるの事と為(な)すなり。その五行をもって、これを五味に配するは、すなわち伝記にいわゆる五声・五臭・五色の類にして、洪範の時にすでに、これあり。しこうして、いわゆる雨・暘・燠・寒・風も、また始めて天の五気をもって、これをいうに似たり。]

 

《5行(火・水・金・木・土)は、はじめて(『書経』の)虞書に見える。水・火・金・木・土・穀、これを6府という。これは、地上の6物をいうのだ。利用・厚生の道は、使用する材が、この6者を出ない。しかし、5行の名は、つまり(『書経』の)洪範篇に至って、はじめて、これがあって、いう、「1つ目に5行。1にいう水、2にいう火、3にいう木、4にいう金、5にいう土。水は、潤下(潤い下がる)といい、火は、炎上(燃え上がる)といい、木は、曲直(曲がったり真っ直ぐだったり)といい、金は、従革(変革にしたがう)といい、土は、ここに稼(種蒔)・穡(収穫)する。潤下は、塩味となり、炎上は、苦味となり、曲直は、酸味となり、従革は、辛味となり、稼穡は、甘味となる。2つ目に5事。1にいう容貌、2にいう言葉、3にいう視覚、4にいう聴覚、5にいう思慮。容貌は、恭といい、言葉は、従といい、視覚は、明といい、聴覚は、聡といい(聡明)、思慮は、叡という。恭は、粛(つつ)しむとなり、従は、乂(おさ)めるとなり、明は、哲(あき)らかとなり、聡は、謀(はか)るとなり、叡は、聖となる。良いしるし(吉兆)をいう。いう、粛(つつ)しめば、ほどよい雨にしたがい、いう、乂(おさ)めれば、ほどよい晴にしたがい、いう、哲(あき)らかならば、ほどよい暑さにしたがい、いう、謀(はか)れば、ほどよい寒さにしたがい、いう、聖ならば、ほどよい風にしたがう。悪いしるし(凶兆)をいう。いう、狂えば、恒常の雨にしたがい、いう、僭(おご)れば、恒常の晴にしたがい、いう、楽しめば、恒常の暑さにしたがい、いう、急げば、恒常の寒さにしたがい、いう、蒙(くら)ければ、恒常の風にしたがう」。その(洪範篇の)学問を伝えるものは、結局、5行によって、これを5事の良し悪しのしるしに合わせて、それで君主の徳が、天を感じさせる事とするのだ。その5行によって、これを5味に配するのは、つまり伝記のいわゆる5声(宮・商・角・徴/ち・羽)・5臭(羶/せん・香・腥/せい・焦・朽)・5色(青・黄・赤・白・黒)の種類で、洪範篇の時、すでに、これがある。そうして、いわゆる雨・晴・暑さ・寒さ・風も、また、はじめて、天の5気によって、これ(5行)をいうのに類似している。》

 

・蓋天地之間、物無算。而不出水火木金土五者。動物無算。而亦不出羽毛臝鱗介五者。声色臭味亦無算。而不可得而端倪也。聖人各以五紀其類以象之、而後人始得以別焉。日月亦無算也。以干支紀其名、而後人始得以命焉。物之数不可得而窮極也。聖人立一二三四五六七八九十之名、而後人始得以算焉。以此観之、五行者聖人所立以為万物之紀者也。辟諸富商以記号別其貨。豈必有其理哉。亦御繁之術已。然聖人之道、奉天命以行之。故其立数紀物、亦有所法象天地、以神明其徳。是五行之説所以興也。

 

[けだし天地の間、物は算なし。しかも水・火・金・木・土の五者を出(い)でず。動物は算なし。しかもまた羽・毛・臝(ら)・鱗(りん)・介(かい)の五者に出でず。声色臭味もまた算なし。しこうして得て端倪(たんげい)すべからざるなり。聖人、各おの五をもって、その類を紀(しる)して、もってこれを象(かたど)り、しかる後、人、始めて、もって別(わか)つことを得(う)。日月もまた算なきなり。干支(えと)をもって、その名を紀し、しかる後、人、始めて、もって命(なづ)くることを得。物の数は得て窮極すべからざるなり。聖人、一二三四五六七八九十の名を立て、しかる後、人、始めて、もって算(かぞ)うることを得。これをもって、これを観れば、五行なる者は聖人の立てて、もって万物の紀と為(な)す所の者なり。これを富商の記号をもって、その貨を別つに辟(たと)う。あに必ずしも、その理あらんや。また繁を御するの術のみ。しかれども聖人の道は、天命を奉じて、もってこれを行う。ゆえにその数を立て物を紀するも、また天地に法象(ほうしょう)して、もってその徳を神明にする所あり。これ五行の説の興(おこ)る所以(ゆえん)なり。]

 

《思うに、天地の間で、物は、無数にある。しかも、水・火・金・木・土の5者を出ない。動物は、無数にある。しかも、また、鳥類・獣類・人類(裸)・魚類・介類(亀・甲殻類・貝)の5者を出ない。声・色・臭・味も、また、無数にある。そうして、得て、測り知ることができないのだ。聖人は、各々、5つによって、その同類を記述して、それでこれをまとめて、はじめて、人は、それで分別することができる。日・月も、また、無数にあるのだ。干支によって、その名を記述して、はじめて、人は、それで命名することができる。物の数は、得て、究極することができないのだ。聖人は、1・2・3・4・5・6・7・8・9・10の名を確立して、はじめて、人は、それで数えることができる。これ(分別)によって、これ(物)を観察すれば、5行なるものは、聖人が確立して、それで万物の記述とするものなのだ。これを富裕な商人の記号によって、その財貨を分別するのに例えられる。どうして必ずしも、その(分別の)理があるのか(いや、ない)。また、繁栄を制御する術なのだ。しかし、聖人の道は、天命を奉戴して、それでこれを行う。よって、その(分別の)数を確立して、物を記述するのも、また、天地の法則で象徴して、それでその(聖人の)徳を神秘にすることがある。これは、5行の説がおこる理由なのだ。》

 

・祇洪範五事庶徴、以類相感。医書五運六気及声色臭味、以察人臓腑、皆似実有其理者焉。意者殷人貴鬼、巫咸巫賢世為大臣。洪範蓋巫者所伝、其所以藉是葴人君、必別有其術。而今失伝也。如医書五運六気、借支干以明天地之気感人生疾耳。声色臭味、亦借五行以為蔵府之紀耳。故医之拘五行者、不能療病。而諸史五行志、祇使人不信天道。豈非泥五行之故乎。又如易本以二四八立数。而不与五行相干焉。其所謂天数五、地数五、亦未嘗言五行。而漢儒乃以五行傅会。謬之甚者也。後世弗之察。陰陽五行、遂為儒者常言。其説牽強、殆乎不可通焉。

 

[祇(ただ)洪範の五事の庶徴は、類をもって相感ず。医書の五運・六気、及び声色臭味、もって人の臓腑(ぞうふ)を察するは皆、実にその理なる者に似たり。意(おも)うに殷人(いんひと)は鬼(き)を貴(たっと)び、巫咸(ふかん)・巫賢、世(よよ)大臣と為(な)る。洪範は、けだし巫者(ふしゃ)の伝うる所にして、そのこれに藉(か)りて人君を葴(しん)する所以(ゆえん)は、必ず別にその術ありしならん。しかも今は伝を失うなり。医書の五運・六気のごときは、支干を借りて、もって天地の気の人に感じて疾を生ずるを明らかにするのみ。声色臭味も、また五行を借りて、もって蔵府の紀と為(な)すのみ。ゆえに医の五行に拘(かかわ)る者は、病を療(いや)すこと能(あた)わず。しかるに諸史の五行志は、祇、人をして天道を信ぜざらしむ。あに五行に泥(なず)むのゆえにあらずや。また易のごときは、もと二・四・八をもって数を立てて、五行と相干(あいかん)せず。そのいわゆる「天数五、地数五」も、また未だ嘗(かつ)て五行をいわず。しかるに漢儒は、乃(すなわ)ち五行をもって傳会(ふかい)す。謬(あやま)りの甚(はなは)だしき者なり。後世これを察せず。陰陽・五行は、遂に儒者の常言と為る。その説、牽強(けんきょう)にして、通ずべからざるに殆(ちか)し。]

 

《ただ(『書経』の)洪範篇の5事の良し悪しのしるしは、同類によって、相互に感応する。医学書の5運・6気、または声・色・臭・味が、それで人の内臓を推察するのは、すべて、実際には、その(分別の)理なるものに類似している。思うに、殷王朝の人は、霊を尊貴し、巫者(みこ)の咸(かん)・巫者の賢(けん、両者とも人名)が、代々、大臣になった。洪範篇は、思うに、巫者が伝えることで、それ(巫者)がこれ(霊)にかこつけて、君主を戒める理由は、必ず別にその術があるからなのだ。しかも、今は、伝えることを失っているのだ。医学書の5運・6気のようなものは、干支(えと)を借用して、それで天地の気が人に感じて、疾病を生ずることを明らかにするのだ。声・色・臭・味も、また、5行を借用して、それで内臓の記述とするのだ。よって、医学の5行にこだわるものは、病気を療養することができない。それなのに、様々な歴史書の5行志は、ただ人に天道を信じさせない。どうして5行に執着するからでないのか(いや、執着するからだ)。また、易のようなものは、元々、2・4・8によって数を確立し、5行と相互干渉しない。そのいわゆる「(1~10で、)天(陽)の数(奇数)が5つ,地(陰)の数(偶数)が5つ」も、また、今まで一度も5行をいっていない。それなのに、漢代の儒学者は、つまり5行をこじつけた。誤りのひどいものなのだ。後世は、これ(こじつけ)を推察しない。陰陽・5行は、結局、儒学者の常識の言葉となる。その(陰陽・5行の)説は、こじつけで(牽強傳会)、通用することができないのに近い。》

 

 

○五常:1則

 

(1)

・五常始見泰誓、未審何謂也。仁義礼智並言者、始見孟子及喪服四制。然未以為五常。然荀子譏子思孟子造五行、則豈昉孟子邪。至於漢儒始以仁義礼智信為五常、以配諸元亨利貞、木火土金水、而宋儒因之。然史記楽書、以仁義礼智聖配宮商角徴羽而無信。孟子亦曰、仁之於父子也、義之於君臣也、礼之於賓主也、知之於賢者也、聖人之於天道也、則与之合焉。王弼以貞配信為水、則与諸家殊焉。孔安国註孝経、以父慈子孝兄友弟弟婦順為五常、則大殊焉。可見皆出於一時論説之言、而古所不伝已。至於宋儒、則元亨利貞、仁義礼智信、四徳五常、為儒者第一義、而未有敢議之者。皆不知古之失也。

 

[五常は始めて泰誓(たいせい)に見ゆれども、未だ何をいうかを審(つまびら)かにせざるなり。仁義礼智、並べていう者は、始めて孟子、及び喪服四制に見ゆ。しかれども未だもって五常と為(な)さず。しかれども荀子(じゅんし)に子思(しし)・孟子の五行を造ることを譏(そし)れば、すなわち、あに孟子に昉(はじま)るか。漢儒に至りて、始めて仁義礼智信をもって五常と為し、もってこれを元亨利貞、木火土金水に配し、しこうして宋儒、これに因(よ)る。しかれども史記の楽書(がくしょ)は、仁義礼智聖をもって宮商角徴(ち)羽に配して、信なし。孟子もまた「仁の父子におけるや、義の君臣におけるや、礼の賓主におけるや、知の賢者におけるや、聖人の天道におけるや」と曰(い)えば、すなわち、これと合す。王弼(おうひつ)は貞をもって信に配して水と為せば、すなわち諸家と殊(こと)なり。孔安国(こうあんこく)は孝経に註して、父は慈、子は孝、兄は友、弟は弟、婦は順なるをもって五常と為せば、すなわち大いに殊なり。見るべし、皆、一時論説の言に出(い)でて、古(いにしえ)の伝えざる所なることを。宋儒に至りては、すなわち元亨利貞、仁義礼智信の、四徳・五常を、儒者の第一義と為し、しこうして未だ敢(あ)えて、これを議する者あらず。皆、古を知らざるの失なり。]

 

《5常は、はじめて、(『書経』の)泰誓篇に見えたが、まだ何をいっているか、詳しくなかったのだ。仁・義・礼・智が、並べられていうものは、はじめて、『孟子』・(『礼記(らいき)』の)喪服四制篇に見える。しかし、まだ、それで5常とならない。しかし、『荀子』で、子思・孟子が5行(火・水・金・木・土)を建造したことを非難すれば、つまり、どうして『孟子』に、はじまったのか(いや、『孟子』に、はじまっていない)。漢代の儒学者に至って、はじめて、仁・義・礼・智・信を5常とし、それでこれ(5常)を元・亨・利・貞(の4徳)、木・火・土・金・水(の5行)に配し、そうして、宋代の儒学者は、これ(4徳・5行)による。しかし、『史記』の楽書は、仁・義・礼・智・聖を、宮・商・角・徴・羽(の5声)に配して、信がない。『孟子』も、また、「仁の父と子における、義の君と臣における、礼の主人と賓客における、知の賢者における、聖人の天道における」(14-246)といえば、つまり、これ(『史記』の楽書)と合致する。王弼(三国時代の魏の学者)は、貞を信に配して、水とすれば、つまり様々な学派と異なる。孔安国(前漢代の学者)は、『孝経』に注釈して、父は慈、子は孝、兄は友、弟は悌(てい)、婦は順によって、5常とすれば、つまり、大いに異なる。すべて、一時の論説の言葉に出ていて、昔が伝えられていないことを、見ることができる。宋代の儒学者に至っては、つまり元・亨・利・貞の4徳や、仁・義・礼・智・信の5常を、儒学者の第一の意義とし、そうして、まだあえて、これ(5行)を議論するものでない。すべて、昔を知らない過失なのだ。》

 

 

○極:2則

 

(1)

・極者、謂先王立是、以為民之所準拠者也。詩曰、思文后稷、克配彼天。立我烝民、莫匪爾極。又曰、商邑翼翼、四方之極。大学曰、是故君子無所不用其極。周礼曰、以為民極。洪範曰、皇建其有極。祭義曰、因物之精、制為之極。皆是也。漢儒訓極為中。蓋先王建之、以使賢者俯就、而不肖者企而及之。故極有中之義。非直訓中也。朱子以為至極之義。是其意謂人君躬行人倫之極以為万民標準也。先王之道、立人所皆能者為教。豈至極之義哉。祇人所皆能者莫至焉。則亦在所見如何耳。然極字之義、以準拠為主意。它皆傍意。如北極、亦人所以為準拠也。

 

[極なる者は、先王、これを立てて、もって民の準拠する所と為(な)す者をいうなり。詩にいわく、「思(こ)れ文なる后稷(こうしょく)、克(よ)く彼(か)の天に配す。我が烝民(じょうみん)を立つるは、爾(なんじ)の極に匪(あら)ざるはなし」と。またいわく、「商邑(しょうゆう)翼翼たり、四方の極」と。大学にいわく、「このゆえに君子は、その極を用いざる所なし」と。周礼(しゅらい)にいわく、「もって民の極と為(な)す」と。洪範にいわく、「皇(きみ)、その有極を建つ」と。祭義にいわく、「物の精に因(よ)りて、制して、これが極と為す」と。皆これなり。漢儒は極を訓じて中と為す。けだし先王、これを建て、もって賢者をして俯して就きて、不肖者をして企(つまだ)ちて、これに及ばしむ。ゆえに極に中の義あり。直ちに中と訓ずるにあらざるなり。朱子は、もって至極の義と為す。これその意に、人君、躬(みずか)ら人倫の極を行い、もって万民の標準と為すというなり。先王の道は、人の皆よくする所の者を立てて教えと為す。あに至極の義ならんや。祇(ただ)人の皆よくする所の者は、これより至れるはなし。すなわち、また見る所の如何(いかん)に在(あ)るのみ。しかれども極の字の義は、準拠をもって主意と為す。它(た)は皆、傍意なり。北極のごときも、また人の、もって準拠と為す所なり。]

 

《極なるものは、先王が、これを確立して、それで民が準拠することになるものをいうのだ。『詩経』によると、「ああ、文徳なる后稷(伝説上の周王朝の始祖、農業神)は、よくあの天に配する。私の万民を確立するのは、あなたの極でないものはない」。また、いう、「殷王朝の都(都邑)は、整って美しく、四方が極だ」と。『大学』によると、「これだから君子(立派な人)は、その極を用いないことがない」(2-6)。『周礼』によると、「それで民の極とする」。(『書経』の)洪範篇によると、「(5つ目に皇極/治世の大切な方法。)皇帝は、その極があることを建造する」。(『礼記(らいき)』の)祭義篇によると、「物の精緻によって、制して、これが極とする」。すべて、これ(極)なのだ。漢代の儒学者は、極を注釈(訓注)して、中とする。思うに、先王は、これ(極)を建造し、それで賢者を、ヒレ伏せさせて、つきしたがわせ、未熟者を、ツマ先立ちさせて、これ(極)に及ばせる。よって、極には、中の意義がある。直接、中と注釈することにしないのだ。朱子は、それで至極の意義とする。これは、その(朱子の)意思で、君主が、自分で人倫の極を行い、それで万民の標準とすることをいうのだ。先王の道は、人が皆、充分なものを確立して、教えとする。どうして至極の意義になるのか(いや、ならない)。ただ人が皆、充分なものは、至ることがない。つまり、また、見ることが何かにあるのだ。しかし、極の字の意義は、準拠を主要な意味とする。他は、すべて、派生の意味なのだ。北極のようなものも、また、人が、それで準拠とすることなのだ。》

 

 

(2)

・易有太極。漢儒以為元気、宋儒以為理之尊称。皆非也。易謂六十四卦、三百八十四爻也。太極者謂聖人所立以為準拠也。易六十四卦、三百八十四爻、皆莫非示民所準拠者。是則又其統会者、故曰太極。即説卦伝所謂立天之道、曰陰与陽。立地之道、曰柔与剛。立人之道、曰仁与義、是也。故大伝又曰、六爻之動、三極之道也。豈不然乎。

 

[易に大極あり。漢儒は、もって元気と為(な)し、宋儒は、もって理の尊称と為す。皆、非なり。易は六十四卦(け)・三百八十四爻(こう)をいうなり。大極なる者は、聖人の立てて、もって準拠と為す所の者をいうなり。易の六十四卦・三百八十四爻は皆、民に準拠する所を示すにあらざる者なし。これすなわち、またその統会する者にして、ゆえに大極と曰(い)う。すなわち説卦伝にいわゆる「天の道を立つ、いわく陰と陽と。地の道を立つ、いわく柔と剛と。人の道を立つ、いわく仁と義と」、これなり。ゆえに大伝にまたいわく、「六爻の動は、三極の道なり」と。あに、しからざらんや。]

 

《易は、太極がある。漢代の儒学者は、それで元気とし、宋代の儒学者は、それで理の尊称とする。すべて、非(誤り)なのだ。易は、64卦・384爻をいうのだ。太極なるものは、聖人が確立して、それで準拠とするものをいうのだ。易の64卦・384爻は、すべて、民に準拠することを示さないものではない。これは、つまり、また、それ(準拠)が統合したもので、よって、太極という。つまり、(『易経』の)説卦伝の、いわゆる「天の道を確立する、陰と陽をいう。地の道を確立する、柔と剛をいう。人の道を確立する、仁と義をいう」は、これ(極)なのだ。よって、また、(『易経』の)繋辞伝によると、「6爻の動きは、3極の道なのだ」。どうして、そのようでないのか(いや、そのようだ)。》

 

・蓋伏羲仰観而俯察、以見夫無適非陰陽剛柔者。河図之数、五十有五、見夫無適非奇偶者。六十四卦、三百八十四爻、豈它哉。以見夫陰陽剛柔之中、又有剛柔陰陽、無有窮尽。故画之耳。故唯陰陽剛柔、易所由出、読易者、亦必以此為準拠、可以得其義也。由是而画一画者二。是両儀也。又画二画者四。是四象也。又画三画者八。是八卦也。

 

[けだし伏羲(ふくぎ)、仰いで見て俯して察し、もって夫(か)の適(ゆ)くとして陰陽・剛柔にあらざる者なきことを見る。河図(かと)の数、五十有五、夫の適くとして奇偶にあらざる者なきことを見る。六十四卦(け)・三百八十四爻(こう)は、あに它(た)ならんや。もって夫の陰陽・剛柔の中に、また剛柔・陰陽ありて、窮(きわま)り尽くることあることなきを見る。ゆえにこれを画(かく)するのみ。ゆえにただ陰陽・剛柔のみ、易の由(よ)りて出(い)ずる所にして、易を読む者も、また必ずこれをもって準拠と為(な)さば、もってその義を得(う)べきなり。これに由りて一画を画する者は二。これ両儀なり。また二画を画する者は四。これ四象(しょう)なり。また三画を画する者は八。これ八卦なり。]

 

《思うに、伏羲(古代中国の伝説上の帝王)は、仰視して(天を)観察し、俯瞰して(地を)観察して、それで、あのおもむきが、陰陽・剛柔(続いた横棒が陽・剛、切れた横棒が陰・柔)でないものはないことを見る。河図(黄河に現われた龍馬の背上に書いた図)の数は、55で、あのおもむきが、奇数か偶数かでないものはないことを見る。64卦・384爻は、どうして他なのか(いや、他でもない)。それで、あの陰陽・剛柔の中に、また、剛柔・陰陽があって、究め尽くすこと(窮尽/きゅうじん)がないのを見る。よって、これ(卦・爻)を図画にするのだ。よって、ただ陰陽・剛柔だけは、易が、(それに)よって出ることで、易を読むものも、また、必ずこれ(極)によって、準拠とすれば、それでその(極の)意義を得ることができるのだ。これ(極)によって、1画目を図画するものは、2つ(陽・陰)だ。これは、両儀なのだ。また、2画目を図画するものは、4つ(太陽・少陰・太陰・少陽)だ。これは、4象なのだ。また、3画目を図画するものは、8つ(乾/けん・兌/だ・離・震・巽/そん・坎/かん・艮/ごん・坤/こん)だ。これは、8卦なのだ。》

 

・老子亦学易者、故多説謙損卑退之道。其所謂一生二二生三者、亦是義。解其書者乃曰、道生天地。是一生二。天地生人而三才立。是二生三。夫道生天地、得言一生二。天地生人、豈得言二生三乎。亦不知而妄説已。

 

[老子もまた易を学ぶ者、ゆえに多く謙損卑退の道を説く。そのいわゆる「一は二を生じ、二は三を生ず」という者も、またこの義なり。その書を解する者、乃(すなわ)ちいわく、「道は天地を生ず。これ一は二を生ずるなり。天地は人を生じて三才、立つ。これ二は三を生ずるなり」と。夫(そ)れ道の天地を生ずるは、「一は二を生ず」ということを得(う)。天地の人を生ずるは、あに「二は三を生ず」ということを得んや。また知らずして妄説するのみ。]

 

《老子も、また、易を学ぶもので、よって、多く、謙卦(地山謙、64卦の15番目)・損卦(山沢損、41番目)・卑小・後退の道を説く。そのいわゆる「(道は、1を生じ、)1は、2を生じ、2は、3を生じる」(『老子』42)というものも、また、この(極の)意義なのだ。その(老子の)書物を解釈するものは、つまり、いう、「道は、天地を生じる。これは、1が2を生じることなのだ。天地は、人を生じて、3才(天・地・人)が確立する。これは、2が3を生じることなのだ」と。そもそも道が天地を生じるのは、「1は、2を生じる」ということを得る。天地が人を生じるのは、どうして「2は、3を生じる」ということを得るのか(いや、得ない)。また、知らないで、妄説なのだ。》

 

・漢儒以両儀為天地、亦其意。而傅会以乾元坤元。故曰、太極者元気也。夫乾元坤元、伝既分而言之、豈有一元気乎。且一元気渾渾爾。何以得謂之極哉。凡古所謂極者、皆所以示民也。必不然矣。宋儒貴精賤粗。故立理気之説、而以理為太極。然大伝三極之文、其謂之何。其妄可知已。大氐極皆以易見者言之、使人不惑。而諸老先生乃以其高妙難見者言之、使人惑。亦不知古言故也。

 

[漢儒の両儀をもって天地と為(な)すも、またその意なり。しかも傅会(ふかい)するに乾元(けんげん)・坤元(こんげん)をもってす。ゆえにいわく、「太極なる者は元気なり」と。夫(そ)れ乾元・坤元は、伝すでに分(わか)ちて、これをいえば、あに一元気あらんや。かつ一元気は渾渾爾(こんこんじ)たり。何をもって、これを極ということを得んや。凡(およ)そ古(いにしえ)のいわゆる極なる者は皆、もって民に示す所なり。必ずしからず。宋儒は精を貴(たっと)び粗を賤(いや)しむ。ゆえに理気の説を立てて、理をもって太極と為す。しかれども大伝の三極の文、それこれを何といわん。その妄なること、知るべきのみ。大氐(たいてい)、極は皆、見易(やす)き者をもって、これをいい、人をして惑わしむ。しかるに諸老先生、乃(すなわ)ちその高妙にして見難(がた)き者をもって、これをいい、人をして惑わしむ。また古言を知らざるがゆえなり。]

 

《漢代の儒学者が、両儀を天地とするのも、また、その(極の)意味なのだ。しかも、こじつけるのに、乾元(天の力)・坤元(地の徳)によってする。よって、いう、「太極なるものは、元気なのだ」と。そもそも乾元・坤元は、(『易経』の)象伝(しょうでん)がすでに分別して、これ(極)をいえば、どうしてひとつの元気なのか(いや、ひとつの元気でない)。そのうえ、ひとつの元気は、尽き果てないで未分化だ。何によって、これ(ひとつの元気)を極ということを得るのか。だいたい昔のいわゆる極なるものは、すべて、それで民に示すことなのだ。必ず、そのようにしない。宋代の儒学者は、精緻を尊貴し、粗雑を卑賤する。よって、理・気の説を確立して、理を太極とする。しかし、(『易経』の)繋辞伝の3極(天・地・人)の文章は、それがこれ(3極)を何というのか。それが妄想なのを、知ることができるのだ。たいてい、極は、すべて、見やすいものによって、これ(極)をいい、人を困惑させる。それなのに、様々な老人の先生は、つまりそれが高度な霊妙で、見にくいものによって、これ(極)をいい、人を困惑させる。また、古い言葉を知らないからなのだ。》

 

 

(つづく)