三木清「人生論ノート」考察13~健康 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

●健康について

 

 前々項・前項・本項で、死・孤独・健康と、取り上げてきたのは、生も死も絶対的にみる、古典主義的な見方と、生・病・老・死と相対的にみる、浪漫主義的な見方の、死の見方の二分を、それぞれ伝統主義の見方・孤独の見方・健康の見方の二分と、呼応させているからです。

 この項では、健康の見方は、次のように、その双方と呼応させています。

 

・古典的=絶対的:生・死 ~ 古代哲学=健康の所有感から出立し、自然物の形成・維持を発見

・浪漫的=相対的:生病老死 ~ 近代科学=健康の窮迫感から出発し、病気が発明・出立

 

 古代哲学では、所有感から出発するので、所有する健康から出立し、いかに自然な状態を形成しつつ、維持するかを発見する一方、近代科学では、窮迫感から出発するので、窮迫する健康から、病気を発明・出立しました。

 

 これを前提に、まず、健康は、各自・銘々のものにおいて平等で、個性的・宗教的(信仰心は個別的)なので、個々の心・身(精神/身体、心理/生理)を同等に大切にし、利・害も観察、自己の個性を発見し、その個性に忠実であり、その個性を形成すべきとされています。

 これは、健康を、古代の自然哲学の問題・自然形而上学の問題・人間的自然の問題とみていることになり、健康には、心・身の体操が必要とされ、ここで、身体だけでなく、精神も重要視しているのは、思想・想像・思案・思考・恐怖・動揺等が、実際の病気にも影響するからです。

 よって、自然にしたがう・自然を模倣するのが、健康法の公理になり、この自然は、個別的・自己形成的で、自然の利益は、無用の不安を除いて安心を与える、道徳的効果とされ、健康は、直観的・具体的な物の形だとし、健康の完全なイメージを取り戻すべきだとみています。

 

 つぎに、健康と病気は、西洋で歴史上、以下のように変遷しました。

 古代では、病気を健康の欠乏とみて、病気は、神の懲罰で、健康は、神の意志と、理解されていたようで、健康も病気も、超自然的でした。

 それがキリスト教では、人間を原罪で病的にし、贖罪(しょくざい、つぐない)で死後に救済されるとしたので、生前の健康が皆無になり、それにニーチェは、生前の苦悩を死後に逃避させただけだと、キリスト教を攻撃し(神の死)、生の苦悩を引き受ける、主観的認識の哲学に辿り着きました。

 そこでは、キリスト教による病的な抑圧からの解放を健康とし、支配的な価値を破壊しましたが、近代では、科学の客観的認識により、人格が分解されたので、健康の概念も、同様に分裂してしまい、病気の概念も、独自性・固有の意味をもつようになったとされています。

 しかし、次のように、近代のような、人々の経験的な存在概念から科学的に判断する、平均的な健康では、健康の本質を把握できないので、古代のような、当事者の価値・目的論的概念から哲学的に判断する、個性的な健康、つまり、各自・銘々の健康の完全なイメージが必要とされています。

 

・古代=個性的な健康:当事者の価値・目的論的概念から哲学的に判断 → 多種類・多価値の相違

・近代=平均的な健康:人々の経験的な存在概念から科学的に判断 → 数値で標準化

 

 ここまでみると、「孤独について」の項では、古典主義的な見方だと、孤独を交流の欠乏とみて、実在性がないので、浪漫主義的な見方で、孤独の超越を条件とみて、実在性があるとしましたが、この項では、古典主義的な見方で、健康をみて、はじめて当事者に有意義なのがわかります。

 だから、最後に、健康は、平和と同様とされ、これは、「死について」の項での、古典主義的な見方の、死の平和を想起しますが、生・死に、半生半死がないように、健康・病気に、相対的な半健康半病気はなく、絶対的な健康か否かで、それを健康の完全なイメージといっているのでしょう。

 また、「唯一のことを変えるのは善くない」というのは、近代・西洋医学での自立的で機能的な見方で、「ひとつのことよりも、多くのことを変えるのが、ヨリ安全である」というのは、古代・東洋医学での依存的で関係的な見方といえるのではないでしょうか。

 この、自立的で機能的な見方と、依存的で関係的な見方は、「習慣について」の項での、それぞれ、近代・西洋での、外面と内面(分解・分裂)と、古代・東洋での、素材の構成(内外面一体)に、相当するので、前者(一変)を否定し、後者(多変)を肯定したようにみえます。

 

~・~・~

 

◎健康についての「ノート」

 

○健康=各自・銘々のもので平等:単純・敬虔な真理 → 宗教的、個性的

・重要な養生訓:自分自身への利害観察=健康を保つ最上の物理学の規則を超えた智慧(ベーコン)

・生理(身体)的親和性=心理(精神)的親和性と同様に微妙・大切だと、気づかずに、本能が選択

 → 健康の規則=人間的個性の規則:自己の個性を発見、その個性に忠実、その個性を形成すべき

・生理学の規則と心理学の規則=同様

 

○養生論の根底=自然哲学(医学・生理学でない)

・自然哲学:所有感(健康)から出立、発見的(健康=発明させず)、自然物の形成・維持

・近代科学:窮迫感(病気)から出発、発明的 → 発明=窮迫感から発生

 

○健康の問題=人間的自然の問題(身体の問題でない)

 → 健康=身体(生理)の体操+精神(心理)の体操が必要

・自己の身体=世の中の物の中で、自己の思想で変化できる

・想像の病気=実際の病気になれる → 自分の身体への恐怖を敬遠すべき

・思案=恐怖を増長 → 恐怖=効果のない動揺を発生

・自分が破滅したと思考→緊急の用事が出来れば、自分の生命が完全だと見出すことあり

 

○健康法の公理=自然に従え=自然の模倣:無用の不安を除いて安心を与える道徳的効果

・自然=個別的・自己形成的(一般的でない)

・健康=物の形、直観的・具体的

・健康の問題=自然形而上学の問題:変化すべき→新しくすべき

 

○健康の観念の最大の変化=キリスト教の影響:主観性の哲学から発生

※言葉の形而上学 → 立派な養生訓が引き出せる

・健康:客観的

・病的:主観的

※近代科学の客観主義=主観主義の裏返し、双生児

・ニーチェ:健康の哲学を追求 → キリスト教を攻撃 → 主観主義=健康の哲学を破壊的

・主観主義が出現 → 病気の観念=独自性をもつ

 → 固有の意味・積極的な意味を獲得(病気=健康の欠乏でない)

・近代主義=人格の分解に行き着く → 重要な出来事:健康の観念も同様に分裂

・現代人=健康の完全なイメージをもたず:不幸の大原因

 → 健康の完全なイメージを取り戻す:今日の最大の問題の一つ

 

○病気・健康=当事者の価値判断(存在判断でない) → 哲学に属する

・経験的な存在概念 → 平均を持ち出す → 平均的な健康=個性的な健康の本質を把握できず

・健康=目的論的概念 → 科学の範囲を逸脱

・自然哲学・自然形而上学の喪失=健康喪失の原因、科学的時代に病気の迷信が多数存在する理由

 

○健康=平和と同様、多種類・多価値の相違あり

※健康の形而上学的原理:変化の行い=ヨリ穏やかな極端への好みをもって、反対のことを交換せよ

・絶食と飽食を用いて飽食を、覚めて眠って眠りを、座って動いて動きを

・唯一を変えるのは善くない → 一つよりも多くを変えるのがヨリ安全

 

(つづく)