富永仲基「出定後語」読解1~序 | ejiratsu-blog

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 江戸中期の大坂町人の哲学者の富永仲基(なかもと)は、24歳で『翁(おきな)の文(ふみ)』を、31歳で『出定後語(しゅつじょうごご)』を、執筆しましたが、32歳で急死しており、この2書が有名です。

 彼が主張したのは、後発の学説が、先発の学説より、古い時代にさかのぼって起源を求める、加上説で、たとえば、大乗仏教の経典も、仏教を創始した釈迦の発言・行動を逸脱し、後世に捏造されたとする、大乗非仏説を提唱しました。

 ここでは、それらを取り上げた『出定後語』を、みていくことにします。

 

 

■序

 

・基幼而間暇。獲読儒之籍。以及少長、亦間暇。獲読仏之籍。以休。曰、儒仏之道、亦猶是也。皆在樹善已。然而至其因縁道之義於細席也、則豈得無説乎。則不能無属籍也。於是乎、出定成。基乃持此説者、且十年所、以語人、人皆漠。仮吾長数箇、以及頒白年、天下儒仏之道、亦猶儒仏之道、是何益。嗚呼身之側陋而痡。既不能以及人而徳焉。又限之以大故而無伝乎。基也今既三十以長。亦不可以不伝也矣。所願、則伝之其人通邑大都焉、及以伝之韓若漢焉、韓若漢焉、乃以伝之胡西焉、以伝之釈迦牟尼降神之地、使人皆於道有光焉、是死不朽。雖然、何以知非所謂悪慧。是則難。是則待夫明者部索而楔之已。

 

[基、幼にして、間暇(かんか)なり。儒の籍(ふみ)を読むことを獲(え)たり。もって少しく長ずるに及んで、また間暇なり。仏の籍を読むことを獲たり。もって休しぬ。いわく、「儒仏の道は、またかくのごときなり。皆、善を樹(た)つるに在(あ)るのみ」と。しかるに、その道の義を細席に因縁するに至りては、すなわち、あに説なきことを得んや。すなわち、属籍(しょくせき)するなきこと能(あた)わざるなり。ここにおいてか、出定(しゅつじょう)成りぬ。基、乃(すなわ)ちこの説を持する者、かつ十年所(ばかり)、もって人に語るに、人、皆、漠たり。たとい、吾、長ずること数箇(すうか)、もって頒白(はんばく)の年に及ぶとも、天下儒仏の道、また儒仏の道のごとくんば、これ何の益かあらん。ああ、身の側陋(そくろう)にして痡(や)める。すでに、もって人に及ぼして徳すること能わず。また、これを限るに大故(たいこ)をもってして、伝うることなからんや。基や、今すでに三十、もって長じぬ。また、もって伝えざるべからざるなり。願う所は、すなわち、これをその人、通邑(つうゆう)・大都に伝え、及ぼしてもって、これを韓もしくは漢に伝え、韓もしくは漢、及ぼして、もって、これを胡西(こせい)に伝え、もって、これを釈迦牟尼(しゃかむに)降神(ごうじん)の地に伝え、人をして皆、道において光(て)ることあらしめば、これ死して朽ちざるなり。しかりといえども、何をもって、いわゆる悪慧(あくえ)にあらざるを知らん。これ、すなわち難(かた)し。これ、すなわち夫(か)の明者の部索して、これを楔(ふさ)ぐを待つのみ。]

 

《仲基は、幼年には、暇だった。儒教の書籍を読むことができた。それで少々成長するようになって、また暇だった。仏教の書籍を読むことができた。それで休息した。(2つの書籍に)よると、「儒教・仏教の道は、やはり、ちょうどこのようなものだ。すべて善を樹立することにあるだけだ」と。それなのに、その道の意義を詳細に原因究明するのに至っては、つまり、どうして説明のないことができるのか(いや、できない)。つまり、書籍にゆだねないことはできないのだ。こういうわけで、『出定後語』を成すのだ。仲基は、つまり、この説を持つこと、ひとまず10年ほどして、それで人に語ったが、人は皆、はっきりわからなかった。たとえ、私が年長になること数年して、それで白髪の年齢になっても、天下の儒教・仏教の道が、やはり儒教・仏教の道のようなものであれば、これで何の利益があるのか。ああ、わが身が卑しい身分で病気を抱えている。すでに、それで人に影響させて、徳行することはできない。また、これ(年齢)が限られるのに、大事故(死)によって、伝えることがなくなるのか。仲基は、今すでに30歳、それで年長になった。やはり、それで伝えないわけにはいかない。願うことは、つまり、これをその人、交通のさかんな町・村や大都市に伝え、(そこに)影響させることによって、それで、これを韓国や中国に伝え、韓国や中国に影響させることによって、これを中国の西域に伝え、それで、これを釈迦が降臨した地(インド)に伝え、人に皆、道で光を照らすことがさせられれば、これで死んでも、朽ち果てない。そうはいっても、何によって、いわゆる悪い智恵でないのを知るのか。これは、つまりむずかしい。これは、つまり、あの(後世の)聡明な者が各部を思索して、これ(不足分)を塞ぐのを待つだけだ。》

 

・延享元年秋八月 富永仲基 識(しる)す

《1744年8月 富永仲基が記述する》

 

(つづく)