国分功一郎の「中動態の世界-意志と責任の考古学」 | ejiratsu-blog

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丸山真男の「なる」「うむ」「つくる」

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国分功一郎「暇と退屈の倫理学」要約

国分功一郎「暇と退屈の倫理学」考察

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 哲学者の国分功一郎は、「中動態の世界-意志と責任の考古学」で、能動(自発)でもなく、受動(強制)でもなく、同意・行為する状況があり、それを「中動」とし、西洋の言語(文法)・哲学(思考)における中動態を考察しました。

 本書は、そこへやや唐突に入っていくので、筆者が本書の4年後に執筆した、共著『「利他」とは何か』(東京工業大学・未来の人類研究センター)の《中動態から考える利他-責任と帰責性》をみると、その背景が理解しやすくなります。

 

 近代的な思想は、自立した人間・個人が主体で、能動性(「する」)が強調され(たとえば超越論的主観性)、後近代(ポストモダン)的な思想は、その批判として、受動性(「される」)が強調されました(たとえば構造主義)。

 しかし、筆者は、それらをいずれも両極端だとし、能動態と受動態の対立から脱却するため、両者に取って代わる概念を提示しようと、古代言語の中動態に注目しました。

 もともと古代ギリシア語は、能動態(主語が、動詞の指し示す過程の外部にあり、他動詞的=外態)と中動態(主語が、動詞の指し示す過程の内部にあり、自動詞的=内態)が対立し、受動態は中動態からの派生で、当初は、意志の概念もなかったそうです。

 それが、キリスト教哲学における世界の創造という信仰が出現して以降、意志の概念が創始されたようで、現在のように、能動態と受動態の対立に変化したとされています(古代ギリシアでは、刑事罰で故意の殺人と過失致死が区別されていたので、責任の概念は、あったようです)。

 これらに、これ以前の歴史も加味し、本書で解説された、西洋の言語の発展をまとめると、次のようになります。

 

※名詞的構文(不定法):行為・状態を指し示す名詞で、出来事を描写する(動詞と名詞が未分化)

※動詞的構文:行為・状態を指し示す動詞で、主語に帰属させる

‐非人称の主語+動詞(非人称構文)

‐1~3人称の主語+動詞

・[筆者の憶測]中動態のみ

・能動態と中動態の対立:主語が、動詞の指し示す過程の、外部にあるか、内部にあるか

・能動態と受動態の対立:「する」か、「される」か(尋問する言語)

 

 筆者は、問題ある言動が、選択の余地がなかった完全な受動(肉体的・精神的圧迫の状況)でない場合、自由な選択のもとで、思い通りに能動できたはずだと、自分の意志のせいにし、責任を無理矢理に押し付けても、不正確で乱暴な、受動か能動かの区別なので、本当の解決にはならないとしました。

 そもそも言動(外形)は、自発的な意志(内心)だけが原因だとはいえず、環境の刺激による身体への強制的な影響も勘案すべきなので、意志の概念に依存せず、社会で絶対に必要な、責任の概念は温存する思想を作り出すために、中動態を持ち込み、自分の責任を実感・応答させようとしました。

 そこから筆者は、ギリシア悲劇のように、神的因果性の被害者の側面(受動的)と、人間的因果性の加害者の側面(能動的)を、いずれも両立すべきとしています(中動的)。

 つまり、神的因果性で、思い通りにならない運命に翻弄されつつ(強制的)、人間的因果性で、人間の断固たる選択・決断で行為したと(自発的)、両側面を混じり合わせました。

 なお、実際の刑事裁判でも、何を発言・行動したのか(人間的因果性の側面)だけで、罰則を判決せず、判決までに、被告人がどのような境遇・背景だったのか(神的因果性の側面)も勘案する、情状酌量の余地があります。

 そして、問題ある発言・行動+境遇・背景等の一連の出来事を、当事者(被告人)が、自分自身で客観的に認識して見つめ直せば(神的因果性の側面)、主体的に責任を引き受けられるようになり(人間的因果性の側面)、更生・再発防止につながりやすくなるとみています。

 

 本書では、中動態を理解するために、能動態と受動態の対立に支配された西洋の言語に、疑問を提示した人物として、ドイツの哲学者のマルティン・ハイデッガー、フランスの哲学者のジル・ドゥルーズ、オランダの哲学者のバールーフ・デ・スピノザが、取り上げられています。

 

 ハイデッガーは、初期には、世界を道具の集合とみており、道具には目的があるので、意志の概念を前提にしていましたが、そののち一転し、意志を批判するようになり、意志は、過去の記憶を回想せず、忘却を強制し、未来だけを志向する、新たな始まりの絶対化ですが、これは、現実にはありえません。

 よって、意志は、情報を入手しないままでの思惟なので、思考の放棄といえ、それは、敵意・復讐心でしかなく、意志の概念から脱却する(意欲しないことを意欲する)には、能動でもなく、受動でもない、放下(ほうげ、自然の生成と人間の作為の間)が大切だとしたので、中動態的といえます。

 こうして、ハイデッガーは、未来(過去との切断)と結び付く行為・目的(「する」)から、過去を引き受ける状態・存在(「ある」)へと、関心を転換しました。

 

 ドゥルーズは、実体(物体)を指し示す名詞的なもの(存在、静的)より、実体の出来事(非物体)を指し示す動詞的なもの(存在の仕方・表面・様態、動的)を優位とし、その出来事に表現された意味(属性・状態)を探求すべきとしました。

 もし、名詞を優位にすれば、名詞で指し示される実体に、形容詞で指し示される性質や、動詞で指し示される運動が、付与される構図になり、名詞は、物体の本性の行為を指し示すのが前提になるので、能動性・受動性(行為した者か、行為された者か)が、どこからともなく出現してしまいます。

 一方、動詞を優位にすれば、動詞で指し示される出来事から、主語・主体を発生・規定することになり、現実の出来事も、様々に分岐した世界の可能性の系列のうちの、ひとつの収束にすぎないので、出来事こそが言語を可能にすると結論づけており、行為を敬遠しているので、中動態的といえます。

 ただし、ドゥルーズがみていたのは、人称・時制・態のない、動詞が名詞的に取り扱われる、フランス語の不定法で、前述した西洋の言語の発展において、動詞と名詞が未分化な、名詞的構文だったことに注意すべきです。

 

 スピノザは、万物は神の一部、神の内在原因が作用したもので、神は宇宙・自然だといい、人間の(完全な)自由意志を否定しており、人間が自由と感じるのは、人間の言動の原因の認識を欠いているからだとしました(人間の言動の原因を認識する自由意志は、肯定しています)。

 したがって、実体は、神が唯一なので、諸々の個物は、環境(外部)ではなく、神自身(内部)や他の個物に刺激され、それで様々な性質・形態に変状・表現しているとみています(様態的存在論)。

 ここで、あらゆる様態的存在は、全体的にみれば、神の本性(内部)で説明できるので、能動といえ、部分的にみれば、一方の個物が他方の個物(外部)に影響されたと説明できるので、受動といえますが、スピノザは、これにより、個物のひとつである人間の自由意志を否定したのではありません。

 そうではなく、人間は、外側の刺激が内側の感情に影響し、変状・表現しますが、そこでは刺激の大小で選択の余地に有無ができ、それは、自然の生成と人間の作為の間なので、中動態的といえ、中動は、刺激小・選択の余地ありなので、多様ですが、受動は、刺激大・選択の余地なしなので、一様です。

 それで、その変状が、自分の本質を、充分に表現できれば、能動的で、充分に表現できなければ、受動的としており、スピノザは、能動か、受動かを、行為の方向の差(「する」か、「される」か)ではなく、変状・自分の本質の表現の差(表現できたか、できなかったか)とし、そこに自由をみています。

 

 ところで、上記の3動態は、日本政治思想史学者の丸山真男が『忠誠と反逆』の《歴史意識の「古層」》で提示された、「なる」「うむ」「つくる」の3様態を想起させ、次のように、まとめることができます。

 

・能動態:人間の作為 → 人間的因果性 ~ 「つくる」

・中動態:自然の生成と人間の作為の並存 → 神的因果性と人間的因果性の両立 ~ 「うむ」

・受動態:自然の生成 → 神的因果性 ~ 「なる」

 

 ちなみに、本書でも、英文学者の細江逸記の論文から、中動態の意味の根底にあるのは、「自然の勢い」で、その力の度合が動詞に影響しているとみていますが、丸山も前述の著書で、記紀の神代を取り上げ、「なる」の受動的服従の側面とともに、「勢い」の能動的実践の側面を、導き出しています。

 

 このように、中動態は、世界の歴史上の所々で垣間みれますが、前述で、人間は、外側の刺激が内側の感情に影響し、変状・表現するといったので、この感情の要因となる環境の刺激を、世界の歴史上で取り上げることにします。

 まず、世界の歴史は、おおむね狩猟社会→農業社会→工業社会→情報社会と移行したといえ、上記の3動態に、産業等をあてはめ、次のように、想定してみます。

 

・能動的:工業・情報業 ~ 自発的、人為(人間の作為)

・中動的:狩猟業・農業 ~ 強制的と自発的の間、自然と人為の並存

・受動的:肉体的・精神的圧迫 ~ 強制的、自然(自然の生成)

 

 ここで、完全に受動的なのは、奴隷・監禁・投獄等の肉体的圧迫や、知的障害・心的疾患・マインドコントロール等の精神的圧迫ですが、それで圧迫された人々が、言語・哲学を主導することは、ほぼないでしょう。

 そうなると、狩猟業(漁業)は、猟場(漁場)の知識等で工夫できますが(人為)、それには限界があり、不猟(不漁)になっても仕方なく(自然)、農業は、品種改良の技術等で工夫できますが(人為)、それにも限界があり、不作になっても仕方なく(自然)、獲物・水産物・農産物は有限で、中動的といえます。

 他方、工業・情報業は、創造が中心で(人為)、商品・サービスは無限で、狩猟業・農業よりも、能動的といえますが、需要と供給のバランスも勘案すべきで、無尽蔵ではありません(自然)。

 そうして、世界の歴史は、おおむね中動的な狩猟業・農業から、能動的な工業・情報業へと、主要産業が移行したので、その環境に呼応し、言語・哲学も、中動態が衰退したり、能動態と受動態の対立が支配的になったと、解釈することもできます。

 つぎに、農業での地主と小作の関係や、工業での経営者と労働者の関係をみると、権力を行使する者は、能動的で、権力を行使される者は、中動的といえます(服従か反抗か逃避か、選択の自由があるので、完全な受動的とはいえません)。

 さらに、農業社会での為政者(政治)は、収穫物を治者と被治者で配分するのが中心で、欲望・欲求(私的)と、理性・知性(公的)の、度合を選択するのが中心なので(プロアイレシス、リベルム・アルビトリウム)、中動的といえます。

 それとは対照的に、工業社会での経営者(経済)は、あらゆる段階での判断が必要になり、利益の配分も、そのひとつにすぎないうえ、自然にあまり左右されず、自由度が格段に増大したので、農業社会での為政者よりも、能動的といえますが、経営環境の制約もあります。

 そのうえ、近年、工業は、天然資源・地球環境が有限だとわかり、閉じた世界になったので、中動的に振る舞うことが要求されるようになりましたが、情報業は、物体がないうえ、成長の途中で、まだ成熟しておらず無限で、開かれた世界なので、工業よりも、能動的に振る舞われています。

 

 また、産業だけでなく、主権国家の戦争や、独裁者の大量虐殺でも、能動・受動・中動がみられ、そこでは、加害者が、受動的な選択の余地なき決断や、中動的な非自発的(仕方ない)同意だったとし、責任を回避・曖昧にすれば、被害者は、到底受け入れられません。

 ドイツ出身でユダヤ人の哲学者のハンナ・アレントは、ナチスが、過去を切断し、未来を構想したのに、意志に固執しましたが、それを中動的にみれば、敵意・復讐心です。

 でも、ホロコーストの中心人物の一人のアドルフ・アイヒマンに、大量虐殺の動機となる思考が欠如していた事実が判明すると、能動的にみたうえで、意志の概念を持ち出したくなったとしか、理解できません。

 それとは逆に、当時の国民が、反抗も逃避も亡命もできず、完全に受動的な絶対服従であれば、国民にまで、責任の概念を要求すべきではないでしょう。

 

 最後に、前近代の国家にも、宗主・藩属の関係により、能動・受動・中動がみられ、上記の3動態に、東アジア各国をあてはめると、次のようになります。

 

・能動的=中国大陸:華夷思想(中心) → 先進文物の発祥(中央集権、宦官・科挙あり、儒教が基盤)

・中動的=日本列島:中国大陸から遠く離れ孤島(亜周辺)

 → 先進文物を選択的に摂取:多様(地方分権、宦官・科挙なし、神仏儒等が共存)

・受動的=朝鮮半島:中国大陸から近く陸続き(周辺)

 → 先進文物を全面的に摂取:一様(中央集権、宦官・科挙あり、儒教が席巻)

 

 この傾向は、欧米文化を摂取するようになった、近現代にも影響しており、たとえば、宗教において、日本は、無宗教ですが、韓国は、キリスト教が普及(総人口の約3割)し、コロナ対応において、日本は、都道府県主導ですが、北朝鮮・韓国は、政府主導といえます。