伊藤仁斎「語孟字義」上・読解14~才・志・意・良知良能 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

●才:1条

 

 

○1条

・才者、性之能也。猶手之持、足之行。可以為善、亦可以為不善。譬諸以手持物。攬筆書字、手也。把刀殺人、亦手也。故曰、可以為善、亦可以為不善也。然其書字殺人、皆在於手、而所以書之殺之者、則在於心。故孟子曰、若夫為不善、非才之罪。又曰、非天之降才爾殊也。其所以陥溺其心者然也。明其為不善者、雖在於才、然其所以為之者、在於心也。凡人皆有手、則皆能可以攬筆書字。若勤而不怠、則皆可以善書。其或間有不能書字者、不用其才也。故又曰、或相倍蓗而無算者、不能尽其才者也。多少分明。

 

[才は、性の能なり。なお手の持ち、足の行くがごとし。もって善をなすべく、またもって不善をなすべし。これを手をもって物を持つに譬(たと)うるに、筆を攬(と)って字を書すは、手なり。刀を把(と)って人を殺すも、また手なり。ゆえにいわく、「もって善をなすべく、またもって不善をなすべし」と。しかれどもその字を書し人を殺す、皆、手に在(あ)って、これを書しこれを殺すゆえんの者は、すなわち心に在り。ゆえに孟子のいわく、「もしそれ不善をなすは、才の罪にあらず」。またいわく、「天の才を降(くだ)すこと、爾(しか)く殊(こと)なるにあらざるなり。その、その心を陥溺するゆえんの者しかるなり」と。明きらけし、その不善をなす者は、才に在りといえども、しかれどもそのこれをなすゆえんの者は、心に在ること。およそ人皆手あるときは、すなわち皆よくもって筆を攬って字を書すべし。もし勤めて怠らざるときは、すなわち皆もって書を善(よ)くすべし。それあるいは間(まま)字を書すること能(あた)わざる者あるは、その才を用いざればなり。ゆえにまたいわく、「あるいは相倍蓗(し)して、算(さん)すなき者は、その才を尽くすこと能わざる者なり」と。多少分明なり。]

 

《才は、性の能だ。ちょうど手で持ち、足で行くようなものだ。それで善をすることができ、またそれで不善をすることができる。これを手によって、物を持つことにたとえると、筆を取って字を書くのは、手だ。刀を取って人を殺すのも、また手だ。よっていう、「それで善をすることができ、またそれで不善をすることができる」(『孟子』11-146)。しかし、その字を書き、人を殺すのは、すべて手にあって、これ(字)を書き、これ(人)を殺す理由は、つまり心にある。よって、『孟子』によると、「もし、不善をしても、才の罪ではない」。また(『孟子』で)いう、「天が才を下すことは、そのように異なるのではない。その心を溺れ陥るためのものが、そうさせるのだ」(11-147)。それで不善をなすものは、才にあるといっても、しかし、そのこれ(不善)をなすためのものは、心にあることが、明らかだ。そもそも人は皆、手があれば、つまりすべて充分に、それで筆を取って字を書くことができる。もし、勤めて怠らなければ、つまりすべて、それで書をよくすることができる。それであるいは間字を書くことができない者がいれば、その才は不用だ。よってまたいう、「あるいは、相互に倍増して、数えない者は、その才を尽くすことができない者だ」(11-146)。とても明白だ。》

 

※才=性の能(能力)

 ・才が心に影響:才あり→心が陥溺

 ・心が善に影響:心→善・不善

 

 

●志:2条

 

 

○1条

・心之所之謂之志。此説文之訓也。愚又謂、志者、心之所存主也。孟子曰、夫志、気之帥也。又曰、志壱則動気、是也。若作心之所之、則意欠明瑩。論語曰、匹夫不可奪志也。礼記曰、清明在躬、気志如神。皆謂心之有所存主也。

 

[心の之(ゆ)く所、これを志という。これ説文(せつもん)の訓なり。愚(ぐ)またおもえらく、志は、心の存主する所なり。孟子いわく、「それ志は、気の帥(すい)なり」。またいわく、「志、壱なるときは、すなわち気を動かす」と、これなり。もし、心の之く所と作(な)すときは、すなわち意、明瑩(めいえい)を欠く。論語にいわく、「匹夫(ひっぷ)も志を奪うべからざるなり」。礼記(らいき)にいわく、「清明、躬(み)に在(あ)れば、気志、神のごとし」と。皆、心の存主する所あるをいうなり。]

 

《心が行き着くところ、これを志という。これは、『説文解字』(せつもんかいじ、中国・後漢時代の部首別漢字字典)の解釈だ。愚見だが、また思うに、志は、心の主体を保持するところだ。『孟子』によると、「その志は、気の統率者だ」(3-25)。また(『孟子』で)いう、「一志(志の専一)は、つまり気を動かす」(3-25)は、これだ。もし、心が行き着くところになれば、つまり意味は、明らかさを欠く。『論語』によると、「普通の男でも、志を奪うことはできないのだ」(9-230)。『礼記』によると、「清明心が身にあれば、志気は神のようだ」。すべて、心の主体を保持するところがあることをいうのだ。》

 

※志=心の行き着くところ、心の存主(主体を保持)するところ、気の帥(統率者)

 ・志が気に影響:一志→気が動

 

 

○2条

・凡謂之志、則皆以志於善而言。若於不善、不可謂之志也。若父在観其志、及士尚志等語、皆以志於善言。北溪曰、才志於利、便入小人路、何哉。

 

[およそこれを志というときは、すなわち皆、善に志すをもっていう。もし不善においては、これを志というべからず。「父在(いま)すときは、その志を観る」、および「士(し)は志を尚(たか)くす」等の語のごとき、皆、善に志すをもっていう。北溪のいわく、「才、利に志せば、すなわち小人路に入る」と。何ぞや。]

 

《そもそもこれを志というならば、つまりすべて善を志すことをいう。もし、不善においては、これを志というべきでない。「父が存命していれば、その(父の)志を観る」(『論語』1-11)、または「志を高くする」(『孟子』13-209)等の語句のようなものは、すべて善に志すことをいう。(朱子の高弟・陳淳の)『北溪字義』によると、「才は、利に志せば、つまり小人(庶民)の道に入る」。(才は、義に志せば、つまり君子の道に入るのに、)どうしたことか。》

 

※志=善への志

 

 

●意:2条

 

 

○1条

・意者、指心之往来計較者言。論語所謂毋意者、蓋言聖人盛徳之至、理明心定、自無往来計較之心也。若作毋私意、則多一私字。尤非所以論聖人也。

 

[意は、心の往来・計較する者を指していう。論語にいわゆる「意なし」は、けだし聖人、盛徳の至り、理、明らかに心定まり、自ずから往来・計較の心なきをいうなり。もし私意なしと作(な)すときは、すなわち一(いつ)の私(し)の字を多うす。もっとも聖人を論ずるゆえんにあらざるなり。]

 

《意は、心の往来・比較検討するものを指していう。『論語』のいわゆる「意なし」(9-209)は、思うに、聖人が盛大な徳に至り、理は明らかに心が定まり、自ずから往来・比較検討する心がないのをいう。もし、私意なしとするならば、つまりひとつの私の字を多くしている。もっともで、聖人を論じる理由がないのだ。》

 

※意=心の往来・計較(比較検討)

 

 

○2条

・意字亦是不必用功夫字。按語孟中庸、皆不説於意上用功夫。故孔子説主忠信。中庸説誠身。而孟子専説存心養性。皆未嘗有誠意之説。何者、学脈自有照応。言此則不須言彼。言彼則不須言此。且観子絶四毋意、則不於意上用功夫、益彰彰矣。中庸曰、誠身有道、不明乎善、不誠乎身矣。与欲誠其意先致其知。甚相似。然身字与意字、所指甚別。一則気象盛大、一則功夫急促。学者不容不弁。

 

[意の字、またこれ必ずしも功夫(くふう)を用いざる字なり。按(あん)ずるに語・孟・中庸、皆、意の上において功夫を用うることを説かず。ゆえに孔子、「忠信を主とす」と説き、中庸、「身を誠にす」と説く。しかして孟子、もっぱら「心を存し、性を養う」と説く。皆いまだかつて「意を誠にする」の説あらず。何ぞなれば、学脈自ずから照応あり。これをいうときは、すなわちかれをいうことを須(もち)いず。かれをいうときは、すなわちこれをいうことを須いず。かつ「子、四つを絶つ。意なし」というを観るときは、すなわち意の上において功夫を用ひざること、益彰彰たり。中庸にいわく、「身を誠にするに道あり。善に明かならずんば、身に誠ならず」。「その意を誠にせんと欲せば、先ずその知を致す」と、甚(はなは)だ相似たり。しかれども身の字、意の字と指す所、甚だ別なり。一は、すなわち気象盛大、一は、すなわち功夫急促なり。学者弁ぜずんば、容(ゆる)さず。]

 

《意の字、(情・才と同様に)また、これは、必ずしも工夫を用いない字だ。考えるに、『論語』・『孟子』・『中庸』は、すべて意上において、工夫を用いることを説いていない。よって、孔子が「忠信を主とする」(1-8、9-229、12-288)と説き、『中庸』が「身を誠にする」と説く。そして、『孟子』がとりわけ「心を存し、性を養う」(13-177)と説く。すべて今まで一度も「意を誠にする」の説はない。どうしてかといえば、学派には、自ずから相互の関連・対応がある。コレをいうならば、つまりアレをいうことを用いない。アレをいうならば、つまりコレをいうことを用いない。しかも「孔子が、4つを絶つ。(そのうちのひとつが)意なし」というのを見れば、つまり意上において、工夫を用いないことは、ますます明らかだ。『中庸』によると、「身を誠にするのに道がある。善に明らかでなければ、身が誠でない」、(『大学』によると)「その意を誠にしようとすれば、まずその知識を極めて道理に通じる」は、とても相互に類似している。しかし、身の字は、意の字と指すことが、まったく別だ。一方は、つまり気性がおおらかで、他方は、つまり工夫がせわしない。学ぶ者が、弁別しないのを許さない。》

 

※心・性・情・才・志・意等の字(情3条による)

 ・工夫(功=力)を用いる字:心、性、志

 ・工夫を用いない字:情、才、意

※身≠意

 ・身:身の誠=善の道 → 気象盛大(気性がおおらか)

 ・意:意の誠=致知(知識を極めて道理に通じる) → 功夫急促(工夫がせわしない)

 

 

●良知良能:2条

 

 

○1条

・良、善也。良知良能者、謂本然之善。即四端之心也。孟子曰、孩堤之童、無不知愛其親也。及其長也、無不知敬其兄也。両知字指良知。愛敬両者、即指良能。猶曰今人乍見孺子将入於井、皆有怵惕惻隠之心也。亦所以証夫性之善也。而孟子所以発良知良能之論者、蓋欲使学者拡充之、以成仁義礼智之徳也。非徒論良知良能之説。故曰、親親、仁也。敬長、義也。無他。達之天下也。達者、即拡充之謂也。当与人皆有所不忍。達之於其所忍、仁也。人皆有所不為。達之於其所為、義也参看。孟子之意自分暁。

 

[良は、善なり。良知・良能は、本然の善をいう。すなわち四端の心なり。孟子いわく、「孩堤(がいてい)の童(どう)も、その親を愛するを知らずということなし。その長(ちょう)ずるに及んでや、その兄を敬するを知らずということなし」。両の知の字は、良知を指す。愛・敬の両(ふた)つの者は、すなわち良能を指す。なお「今、人たちまち孺子(じゅし)のまさに井に入らんとするを見ては皆、怵惕(じゅつてき)惻隠の心あり」というがごとし。また、かの性の善を証するゆえんなり。しかして孟子、良知・良能の論を発するゆえんの者は、けだし学者をしてこれを拡充して、もって仁義礼智の徳を成さしめんと欲するなり。徒(いたず)らに良知・良能の説を論ずるにあらず。ゆえにいわく、「親を親(しん)するは、仁なり。長を敬するは、義なり。他なし。これを天下に達するなり」。達は、すなわち拡充のいいなり。まさに「人、皆忍びざる所あり。これをその忍ぶ所に達するは、仁なり。人、皆せざる所あり。これをそのする所に達するは、義なり」と参(まじ)え看るべし。孟子の意、自ずから分暁(ぶんぎょう)なり。]

 

《良は、善だ。良知・良能は、本然の善をいう。つまり、4端の心だ。『孟子』によると、「2・3歳の子供も、その(子供の)親を愛するのを知らないことはない。それ(子供)が生長するに及んでも、その(子供の)兄を敬うのを知らないことはない」(13-191)。両方の知の字は、良知を指す。愛・敬の両者は、つまり良能を指す。ちょうど「現在、人は、突然に幼児がちょうど井戸に入ろうとするのを見れば皆、動揺・同情の心がある」(3-29)というようなものだ。また、あの性善を証明する理由だ。そして、孟子が、良知・良能の論を発する理由は、思うに、学ぶ者によって、これ(4端の心)を拡充して、それで仁義礼智の徳を成就させようとするのだ。無駄に良知・良能の説を論じるのではない。よっていう、「親を親しむのは、仁だ。年長者を敬うのは、義だ。他にない。これを天下に達するのだ」(13-191)。達は、つまり拡充をいうのだ。当然「人には皆、忍びないことがある。これをその忍ぶことに達するのが、仁だ。人には皆、しないことがある。これをそのすることに達するのが、義だ」(14-253)と、比べて見るべきだ。孟子の意味は、自ずから明らかだ。》

 

※良知・良能=本然の善、4端の心

※孟子の性善説:4端の心を拡充(天下に達する) → 仁義礼智の徳を成就

 ・仁:親への親・愛、忍びないことを忍ぶことに達する、惻隠の心

 ・義:兄・長への敬、しないことをすることに達する

 

 

○2条

・近世陽明王氏、専講致良知之旨。然而徒知致良知、而不知本之於仁義。亦盭乎孟子之指。而専務致良知、而遺尽良能。蓋以連知愛二字為良知、而不知両知字指良知、愛敬両者指良能也。豈非失之一偏乎。孟子所以発良知良能論者、本明仁義之為固有。今徒務致良知、而不知本之於仁義者、何哉。王氏之学、蓋自浄智妙円宗旨来。故為此一偏之教、而不知良知良能、本我心之本然、不可須臾離焉、而与孟子之旨幾霄壌矣。不容不弁。

 

[近世、陽明の王氏、もっぱら「良知を致す」の旨(むね)を講(こう)ず。しかれども徒(いたず)らに良知を致すことを知って、これを仁義に本づくることを知らず。また、孟子の旨(むね)に盭(もと)る。しかして、もっぱら良知を致すことを務めて、良能を尽くすことを遺(わす)る。けだし知・愛の二字を連ねて良知となして、両の知の字は、良知を指し、愛・敬の両(ふた)つの者は、良能を指すことを知らざるをもってなり。あにこれを一偏に失するにあらずや。孟子、良知良能の論を発するゆえんの者は、もと仁義の固有たることを明かす。今、徒らに良知を致すことを務めて、これを仁義に本づくることを知らざる者は、何ぞや。王氏の学は、けだし浄智妙円の宗旨より来(きた)る。ゆえにこの一偏の教えをなして、知らず、良知・良能は、もと我が心の本然、しばらくも離るるべからざること。しかして孟子の旨とほとんど霄壌(しょうじょう)なり。弁せずんば、容(ゆる)さず。]

 

《近頃、王陽明(中国・明の儒学者)は、とりわけ「良知を致す」の本旨を講じた。しかし、無駄に良知を致すことを知っていても、これが仁義に基づくことを知らなかった。また、孟子の主旨に背く。そして、とりわけ良知を致すことを務めて、良能を尽くすことを忘れた。思うに、(良知良能1条での『孟子』13-191において、)知・愛の2字を連ねて良知としてしまい、両方の知の字は、良知を指し、愛・敬の両者は、良能を指すことを、知らないのが理由だ。どうしてこれが一方(良能)をなくすことにならないのか(いや、なる)。孟子が良知・良能の論を発する理由は元々、仁義が固有なのを(『孟子』11-146)、明らかにするためだ。現在、無駄に良知を致すことを務めてしまい、これが仁義に基づくことを知らない者は、どうしたことか。王陽明の学(陽明学)は、思うに、仏教の禅の中心教義から来た。よってこの一方的な教えをして、良知・良能は元々、わが心の本然で、しばらくも離れることができないことを(『中庸』)、知らない。そして、孟子の主旨とほとんど、天地ほどの大きな隔たりがあるのだ。弁別しないのを許さない。》

 

※陽明学:良知を致す → 良知に務めすぎ(良能なし→心がない)(仁斎が批判) ~ 禅の影響

※孟子の思想:良知・良能(4端の心)、仁義が固有

 

 

(つづく)