幕末の志士・維新の元勲が活躍できた背景1 | ejiratsu-blog

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近世の開物思想と近代の文明開化1~6

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 明治維新は、薩摩・長州・土佐・肥前4藩が主導した倒幕運動と、天皇中心・一君万民の新政府樹立+近代化の総称ですが、藩として武力倒幕を決断したのは、長州藩が功山寺挙兵(1864年)後、薩摩藩・土佐藩が四候会議(1867年)後、肥前藩が王政復古の大号令(1867年)後でした。

 倒幕を実現するためには、第1に、各藩の大名達が、藩政を執行する家老(上流藩士)より、有能な家臣(下級藩士)を、起用する基盤がなければならず、脱藩した浪人も、雄藩の下級藩士と連携しないと、活躍できません。

 第2に、江戸幕府の将軍・老中等が、倒幕勢力に圧倒され、既存の幕藩制では限界で、政権を朝廷・天皇へ返上する必要があり、こうしてはじめて、明治維新が成り立ちます。

 第1について、薩摩藩では、郷中制+大概大概(てげてげ)、長州藩では、育(はぐくみ)・手附(てつき)+藩主・毛利敬親(たかちか)の「そうせい候(こう)」、土佐藩では、下士から上士への登用+人民平均の理、肥前藩では、藩主・鍋島直正の「肥前の妖怪」が、影響したとみられます(後述)。

 第2について、15代将軍・徳川慶喜が、大政奉還(1867年)したのは、いったん将軍職を返還しても、朝廷樹立の新政府が、公武合体・公議政体で、その筆頭が慶喜になると予想していたからのようですが、倒幕のクーデター(王政復古の大号令+戊辰戦争)で、それは、なくなりました。

 それとともに、各藩主が版籍奉還(1869年)したのは、いったん藩の土地・人民を返還しても、新政府から再交付されると期待・誤解していたからのようですが、廃藩置県(1871年)で、知事の任命を藩主でない非世襲としたので、それも、なくなりました。

 

 さて、日本の近世から近代への転換を図式化すると、次のようになり、これは、日本の古代から中世への転換と類似しています。

 

[近世]    ┌幕政┐┌―藩政―┐―┐(参与)

  ・天皇―将軍―大名―上級藩士―下級藩士

[近代]└―――王政復古(親政)――――┘

 

[古代]   ┌摂関政┐┌太政官制┐―┐(院近臣)

  ・上皇―天皇―摂関家―上級貴族―中級貴族―下級貴族

[中世]└―――――――院政―――――――┘

 

 近世では、幕政を、世襲の将軍と世襲の老中等(ほぼ譜代大名)が執行、藩政を、世襲の大名(藩主)と世襲の家老(上級藩士)が執行し、幕政と藩政の二元制(幕藩制)でしたが、江戸中期以降、武士を中心に、藩校・私塾等で、中国の漢学・西洋の蘭学等を習得できました。

 すると、江戸後期の大飢饉・列強圧迫等の難局には、幕政では、非世襲の有能者も老中として起用、藩政では、下級藩士の有能者を家臣として起用することで、乗り越えようとし、これらは、幕政で、将軍の側近+老中との取次に、非世襲で有能な側用人(そばようにん)を起用した、先例があります。

 それが幕末には、下級武士が、暗殺による暴力で上級武士を震撼させ、特に薩長の下級藩士の主導で倒幕でき、近代には、天皇家・公家の一部+下級藩士(参与)による王政復古へ転換しましたが、公家の大半・将軍家・大名家等の中間勢力を、天皇の重臣である華族として温存しました。

 一方、古代では当初、天皇を別格とし、ほぼ上級貴族が政権中枢の太政官制でしたが、やがて、太政官制より上位で、天皇補佐役の摂関家が政権を主導する摂関政になってます。

 それが中世には、摂関政より上位で、治天の君としての上皇(法皇)+中級貴族(院近臣、大国受領系と実務官僚系に大別でき、大国受領系の一部が武力行使)による院政へ転換しました。

 そこでは、上級貴族(大臣・納言・参議職)や摂関家(摂政・関白職)の中間勢力を温存しており、王政復古は、これと類似した手法といえます。

 このようにみていくと、中国や西洋のように、革命で特権階級を一切排除するのではなく、歴史の連続性にも充分配慮していたことが理解でき、帝国憲法が、なぜいきなり、現行憲法のように、明確な民主制にならず、君主制と民主制が並存する、曖昧な制度になったのかも、わかります。

 

 ここでは、薩長土肥の下級藩士の一部が、どうして幕末・維新に活躍できたのか、多様だった藩ごとの特色を、みていくことにします。

 

 

●薩摩藩

 

◎郷中制

 薩摩藩は、武士の居住を、城下町のみに集積するのではなく、地域(外城/とじょう)に分散していたからか、武士間にも、村落の若衆制のような組織(郷中/ごうちゅう)がありました。

 若衆制は、おおむね15歳前後で若衆組に加入、妻帯すると脱退し、夜は若衆宿で仲間と寝泊りしたり、村娘のもとへ忍び込んで通じ合ったり(夜這/ばい)、村の祭礼・警備・消防を主導する等、村の大人社会とは別の組織として尊重され、若衆頭をリーダーに、年齢順に序列化されていました。

 薩摩藩士の郷中は、江戸中期以降、町内(方限/ほうぎり)ごとに設置された、武士子弟の自治教育組織で、先輩・後輩の上下関係から、文武両道が育成されました。

 郷中からは、西郷隆盛・従道兄弟や、大久保利通・大山巌等が、輩出され、薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)・藩最高実力者の島津久光は、そこから有能な若者を取り立てました。

 郷中頭には、20歳前後の統率力のある若者が、仲間どうしで選出しましたが、西郷隆盛は、郷中総頭というべき名声があったようです。

 隆盛は、征韓論の不採用で下野・帰郷すると、漢文素読・軍事教練のための私学校を設立しましたが(1874年)、その生徒の暴発をきっかけとし、現状の処遇に不平・不満のある士族の反乱が西南戦争(1877年)で、不本意ながらも隆盛が頭首に推挙されたのも、郷中の風習が影響していたと推測できます。

 それに、幕末の薩摩藩で注意すべきは、藩主・島津斉彬が、名実一体で藩政を主導したのは、わずか7年間で、次の世代には、青年藩主・島津忠義(ただよし)と家老(上級藩士)の上下関係が弱体化・有名無実化し、忠義より上位の島津久光と家老より下位の下級藩士の、結び付きが強化されたことです。

 これは、上記の図式での、古代の太政官制・摂関政から中世の院政への転換や、近世の幕藩制から近代の王政復古への転換を、想起させますが、そのようにしたのは、幕末の難局に、世襲より才能が、必要とされたからでしょう。

 

      ┌――藩政――┐―――――┐

・藩主の島津斉彬―上級藩士(家老)―下級藩士

          ┌―弱体化―┐

・島津久光―藩主の島津忠義―上級藩士(家老)―下級藩士

   └―――――――――強化―――――――――┘

 

◎大概大概

 テゲテゲ(テゲ)は、薩摩の方言で「いい加減」という意味で、良くいえば、「丁度いい」、悪くいえば、「適当」と、両面を併せ持ちますが、本来は、上の者が、大まかな方針を明示するだけで、ほどよい象徴性・高貴性を保持し、人格・人望のある下の者に、細部を任せる、薩摩で重視された美徳でした。

 たとえば、戊辰戦争(1868-69年)で新政府軍だった西郷隆盛、日露戦争(1904-05年)で元帥陸軍大将・満州軍総司令官だった大山巌、日露戦争で海軍中将→大将・連合艦隊司令官だった東郷平八郎の、薩摩藩出身の3人には、テゲがあったといわれています。

 テゲは、当時の日本の美徳でもあったようで、長州藩出身で陸軍中将の児玉源太郎は、日露戦争のために満州軍総参謀長に就任した際、同郷の先輩だが、細部まで部下に指示する上司で、トップになりたいタイプの山県有朋を忌避し、テゲのある大山巌を、満州軍総司令官に要望・実現しました(1904年)。

 その際に、児玉が降格人事にならないよう、台湾総督を留任させましたが、日露戦争中の台湾運営は、無私・聡明な台湾総督府民政長官の後藤新平に、全面委任しており、児玉にもテゲがありました。

 また、薩摩出身で内閣発足直前には陸軍中将だった西郷従道は、第1次伊藤内閣(1885年)以降、ほぼ海軍大臣でしたが、同郷の後輩の山本権兵衛を、海軍省大臣官房主事に抜擢し(1891年)、日清戦争(1894-95年)で海軍大臣副官→海軍省軍務局長→日露戦争で海軍大臣と、軍政部門で活躍させました。

 従道は、第1次大隈内閣(1898年)まで、ほぼ海軍大臣を留任し、その後継者として山本は、第2次山県内閣(1898年)から第1次桂内閣(1901年)まで、海軍大臣に入閣しており、陸軍参謀本部の中にあった海軍軍令部を独立させ、第1次(1913年)・第2次(1923年)と首相まで登り詰めています。

 このように、上司は、大まかな方針を明示するだけとし、無私・聡明で人格・人望のある部下に、細部の事務を任せ、ほとんど口を出さず、失敗の責任は自分が取るという度量のある、有名無実型が美徳とされてきました。

 ちなみに、帝国憲法下での陸軍・海軍は、政府管轄の人事・管理・会計等の陸軍省・海軍省の軍政部門と、天皇が統帥する戦闘・兵站の作戦等の陸軍参謀本部・海軍軍令部の軍令部門に、二分できますが、先の大戦では、軍令部門の無能な若手の無謀な作戦と、責任者のテゲにより、多大な犠牲となりました。

 つまり、トップ(首席)が、空虚・無答責の、有名無実(「君臨すれども統治せず」)が成り立つためには、トップ下(次席)が、無私・聡明で人格・人望があり、名実一体なのが、大前提となります。

 

 

●長州藩

 

◎育(はぐくみ)・手附(てつき)

 ハグクミ・手附は、武士の家柄に関係なく、他家の有能な息子を自家の養子にしたり、上級武士の養子になることで、立身出世の道が開拓できる、長州藩独特の制度で、たとえば、伊藤博文は、ほぼ百姓出身でしたが、上級藩士(大組)の来原(くるはら)良蔵のハグクミになり、武士の格好ができました。

 そのうえ、伊藤は、来原の紹介で松下村塾に入塾し(1857年)、長崎海軍伝習所に付き従い(1858年)、来原の妻の兄で上級藩士(大組)の木戸孝允(桂小五郎)のハグクミにもなり、長州藩の江戸屋敷に移り住み(1859年)、上級藩士(大組)の井上馨等と、イギリスに密航留学までしています(1863年)。

 しかし、来原は、「航海遠略策」を主張した長井雅楽(うた)の暗殺が、未遂になった責任から自害し(1862年)、これ以降、木戸は、伊藤の言動を制限せず、伊藤は、もともと攘夷派でしたが、英留学をきっかけに、開国派に転身しました。

 伊藤は、欧米文化の見聞と、英語堪能による外交手腕から、長州藩の有力者になり、この2度のハグクミが、初代首相にまでつながっています。

 

◎長州藩主13代・毛利敬親(たかちか)の「そうせい候(こう)」

 薩摩藩は、11代藩主の島津斉彬が、公武合体・武備開国を主張し、12代藩主の島津忠義の父で後見人の久光も、それを推進しましたが、薩摩・越前・土佐・宇和島4藩の四候会議(1867年)で、公武合体を断念、武力による倒幕へ一転しました。

 一方、長州藩は、その時期の主流派により、藩の方針が二転しています。

 その変遷は、まず、公武合体・開国通商での国力増強による、将来の攘夷を主張した中道(1861年)、つぎに、それを却下しての、不平等条約の早急破約を主張した攘夷(1862年)、さらに、それを却下しての、開国+武力による倒幕(1866年)で、薩長土肥の動向をまとめると、次に示す通りです。

 

・1830年:51歳の斉直(なりなお)が隠居し、16歳の鍋島直正が肥前藩主10代に

・1837年:24歳の斉広(なりとう)が死去し、19歳の毛利敬親が長州藩主13代に

・1848年:25歳の豊惇(とよあつ)が死去し、22歳の山内容堂が土佐藩主15代に

・1851年:61歳の斉興(なりおき)が隠居し、43歳の島津斉彬が薩摩藩主11代に

・1853年:米ペリーが浦賀に来航

・1853年:露プチャーチンが長崎に来航

・1854年:日米和親条約

○薩摩藩の方針=公武合体・武備開国

・1858年:安政の5ヶ国条約=米・蘭・露・英・仏との不平等条約

・1858年:50歳の斉彬が死去し、19歳の島津忠義が薩摩藩主12代(最後)に

・1859年:33歳の容堂が隠居し、14歳の山内豊範が土佐藩主16代(最後)に

・1861年:忠義の父で斉彬の異母弟・45歳の島津久光が、薩摩藩の実権を掌握

・1861年:47歳の直正が隠居し、16歳の鍋島直大が肥前藩主11代(最後)に

○長州藩の方針=中道

・1861年:長井雅楽が、公武合体・開国通商での国力増強による攘夷を主張した、「航海遠略策」を提出し、藩の方針に採用

○長州藩の方針=攘夷

・1862年:「航海遠略策」を朝廷へ提出したが、却下され、藩の方針を破約攘夷へ転換(翌年に、藩の方針が二分させた責任で、長井が自害)

・1862年:36歳の容堂が隠居撤回し、土佐藩の実権を掌握

・1863年:毛利敬親が参議に補任

・1863年:薩英戦争

・1863年:8月18日の政変=薩摩藩・会津藩が、京都の政局を主導していた長州藩を京都から追放、毛利敬親・元徳(定広、のちの長州藩主14代)父子は、国許で謹慎処分

・1863-64年:四国艦隊下関砲撃事件=英・仏・蘭・米が、長州藩に戦勝

・1864年:禁門の変=京都から追放された長州藩が、会津藩主+京都守護職の松平容保等を排除するために挙兵したが、幕府軍が戦勝し、長州藩が撤退

・1864年:第1次長州征伐=朝廷が幕府に長州藩の征討を命令し、毛利敬親の官職・官位を剥奪・萩で謹慎、3家老の切腹・4参謀の処刑・山口城の破却

・1864年:功山寺挙兵=長州藩の内紛で、高杉晋作の奇兵隊等の尊攘派(正義派)の諸隊が、佐幕派(俗論派)を排撃

○長州藩の方針=倒幕

・1866年:薩長同盟=薩摩藩と長州藩が、政治・軍事同盟し、一橋慶喜・京都守護職で会津藩主9代の松平容保(かたもり)・京都所司代で桑名藩主の松平定敬(さだあき)の3者と敵対、土佐藩の志士が仲介

・1866年:第2次長州征伐=大村益次郎・高杉晋作等の長州藩が戦勝し、幕府軍が撤退、薩摩藩は、幕府軍への出兵拒否

・1867年:四候会議=将軍の徳川慶喜・摂政の二条斉敬の諮問機関として設置され、薩摩藩主の父の島津久光・前越前藩主の松平春嶽・前土佐藩主の山内容堂・前宇和島藩主の伊達宗城4人(幕末の4賢候)の合議が決裂し、薩摩藩は、公武合体を断念し、武力討幕へ

○薩摩藩・土佐藩の方針=倒幕

・1867年:薩土同盟=薩摩藩と土佐藩が、倒幕の密約+大政奉還・公議政体の盟約

・1867年:大政奉還=江戸幕府・15代将軍の徳川慶喜が、明治天皇(122代)へ、政権を返上

○親政

・1867年:王政復古の大号令=将軍・幕府・摂政・関白・京都守護職・京都所司代を廃止し、新政府(総裁・議定・参与の3職)を樹立

○佐賀藩の方針=倒幕

・1868-69年:戊辰戦争=新政府軍が、旧幕府軍に戦勝

・1868年:府藩県三治制=幕府の奉行支配地を府(9府)、それ以外を県とし、知府事・知県事を設置、藩は大名が支配(版籍奉還で、大名を知藩事に任命)

・1869年:版籍奉還=薩摩藩主12代の島津忠義・長州藩主14代の毛利敬親・土佐藩主16代の山内豊範・肥前藩主11代の鍋島直大が、最初に朝廷へ、土地・人民返還の上表を提出、全藩が追随

・1869年:51歳の敬親が隠居し、31歳の毛利元徳が長州藩主14代(最後)に

・1871年:廃藩置県・府県制=藩を廃止し、東京・京都・大阪を府(3府)、それ以外を県に

 

 このように、幕末の難局に長州藩が二転したのは、13代藩主の毛利敬親(元就/もとなりの8世孫、3本の矢の3兄弟以外の元清の家系)が、家臣の意見に反論せず、その都度「そうせい」と返答していたからのようで、だから、敬親は、「そうせい候」といわれました。

 ただし、第1次長州征伐(1864年)の際に、家臣が議論の末、敬親は、幕府に帰順する(佐幕)と決断しており、いつも「そうせい」だったわけでなく、有能な家臣を登用・活躍させ、若者の才能を庇護し、幕末には、雄藩に押し上げているので、無能な名君だったとも、いわれています。

 敬親が「そうせい」といっていたのは、何でも認めなければ、殺されていたからと、後日証言していたようで、藩主の毒殺説も多々ありました(たとえば薩摩藩主の島津斉彬)。

 武家社会は、主君から臣下への一方的な要求だけでは、長く続かず、特に江戸期には、悪行・暴政しそうな藩主がいれば、幕府による所領の没収・削減・移転等の処分につながり、家臣団の生活にも影響するので、家老が結束して忠告し、それでも改善しなければ、監禁・強制隠居させました(主君押込)。

 その際には、幕府に届出し、正当な手続により、旧藩主の家系から新藩主を選出するのが大半で、大名個人は排除しますが、大名家自体は存続させることで、問題解決するのが通例です。

 

 

●土佐藩

 

◎下士から上士への登用

 土佐は、戦国末期に、長宗我部家が統一しましたが(1575年)、関ヶ原の合戦(1600年)に西軍で敗戦し、所領が没収され、土佐藩主が山内家になると、外来の山内家の家臣(上士)と、土着の長曽我部家の半農半兵(一領具足)の遺臣(下士)の、上下関係ができ、当初は、下士が度々反乱しました。

 それが、しだいに、下士を郷士(下士の上位)へ、郷士を上士へ、一部取り立てるようになり、土佐勤王党の武市半平太(1861年結成)・海援隊(1865年結成)の坂本龍馬は、上士待遇(白札)の郷士で、陸援隊(1867年結成)の中岡慎太郎は、郷士でした。

 幕末には、15代藩主の山内容堂が、吉田東洋(少林塾を開業し、後藤象二郎・福岡孝弟・岩崎弥太郎等を輩出)を起用しましたが、公武合体・佐幕派だった東洋は、尊皇攘夷派だった土佐勤王党に暗殺されています(1862年)。

 よって、「酔えば勤皇、醒めれば佐幕」と揶揄されていた容堂は、それを指令した半平太を投獄・切腹させ(1865年)、土佐勤王党を壊滅させています。

 吉田氏も、かつては長宗我部家に出仕していましたが、土佐に入国した山内一豊に、上士として迎え入れられました。

 ですが、土佐藩では、上士と下士の格差が、歴然とあったようです。

 

◎人民平均の理

 上士の板垣退助・福岡孝弟は、高知藩の大参事・権大参事になった際、新政府の許可のもと、富国強兵(国民皆兵)のため、藩庁から、士農工商の四民平等・貴賎上下の階級一和の「諭告」(1870年)を宣言しました(奥宮慥斎/ぞうさい提唱の「人民平均の理」)。

 これは、自由民権運動の先駆ともいえ、政府の基本方針の五箇条の御誓文の1条に、「広く会議を興し万機公論に決すべし」とあると、民選議院設立建白書(1874年)でも主張されており、土佐では、上士と下士の格差解消を最優先とする、風潮があったようです。

 

 

●肥前(佐賀)藩

 

◎肥前藩主10代・鍋島直正の「肥前の妖怪」

 長州藩が、中道→攘夷→倒幕と、藩の方針を二転させ、薩摩藩・土佐藩が、公武合体→倒幕と、藩の方針を一転させたのとは対照的に、肥前藩は、他藩との交流を禁止し、しばらく幕府・他藩の動向に静観しており、そうしたのは、10代藩主の鍋島直正で、「肥前の妖怪」といわれ、警戒されていました。

 肥前藩が態度を表明したのは、戊辰戦争(1868-69年)での倒幕参加からで、その軍事力が称賛されましたが、肥前藩は、江戸幕府の要請で、福岡藩とともに、長崎の海防警備を主導していたため、そこを窓口とし、西洋式の最先端の科学技術導入を推進できました。

 したがって、軍事力・科学技術力での貢献が期待され、薩摩・長州・土佐3藩が仲間とみなし、肥前出身者も新政府に登用されました。

 肥前藩は、「葉隠(はがくれ)」が藩士間で継承されるほど、保守的な武士道の気風があるうえ、藩校の弘道館も、朱子学を中心とし、紋切型の詰め込み教育で、試験に落第したら、家禄を削減し、藩の役人に採用しない罰則があり、秀才を輩出しましたが、大隈重信は、その厳格な教育に反抗しています。

 肥前藩の軍事力が称賛されたのは、幕府の洋学所設立の4年前に、蘭学寮を設立し(1851年)、科学技術を強化していたからで、長崎から英語教師を招聘しやすかったので、英学校(蕃学稽古所)も設立しており(1867年)、大隈重信は、弘道館を退学し(1855年)、科学技術と英語を習得しました。

 薩長土肥の藩校を列挙すると、下記のようになり、肥前藩は、藩内に立地する長崎から、先進の学問を直接摂取しやすかったので、海外より後進の他藩・幕府とは、あまり親密にならなくてもよかったのでしょう。

 

○肥前藩校

・聖堂(朱子学、1708年)→弘道館(1781年)、弘道館内に蒙養舎(初等・中等の通学制)・内生寮(高等の寄宿制)・拡充局(高等の通学制)

・医学寮(1834年)→好生館(1858年)

・皇学寮(国学)→和学寮(1840年)

・蘭学寮(洋学、1851年

・蕃学稽古所(英語、1867年)→致遠館(1868年)

・明善堂(江戸藩邸、1823年)

 

○薩摩藩校

・聖堂(朱子学、1773年)→造士館(1786年)

・稽古所(武芸、1773年)→演武館(1774年)

・医学院(1774年)

・明時館(天文館、暦学、1779年)、明時館内に蘭学講会所(洋学、1855年

・開成所(洋学、1864年

 

○長州藩校

・明倫館(朱子学、1719年)→新明倫館(1849年)→萩明倫館(1863年)

・山口講習堂(朱子学、1860年)→山口(鴻城)明倫館(1863年)

・三田尻講習堂(朱子学、1860年)→学習堂(1864年)→三田尻海軍学校(兵学、1865年)

・萩南苑医学所(1840年)→済生堂(1849年)→好生館(1850年)→明倫館内に好生堂(1856年)→好生局(1865年)

・西洋学所(1855年)→博習堂(1859年)

・有備館(江戸藩邸、1841年)

 

○土佐藩校

・教授館(朱子学、1760年)+文武館(兵学、1862年)→致道館(1862年)

・医学館(1843年)→沢流館(1846年)

・開成館(洋学、1866年

 

※幕府:天文方の蕃書和解御用(1811年)→洋学所(1855年)→蕃書調所(1856年)→洋書調所(1862年)→開成所(1863年)

 

下線:洋学校設立の時期

 

(つづく)