(つづき)
○蘇我倉山田石川麻呂(くらのやまだのいしかわのまろ)
・蘇我倉麻呂(馬子の息子)の息子
‐ナカノオオエと親密に
・皇極3(644)年1月1日:飛鳥寺での蹴鞠(けまり)で、ナカノオオエと中臣の連鎌子(鎌足)の2人が出会い、南淵請安(みなぶちのしょうあん)の儒教講義の行き帰りで仲良くなり、中臣鎌足は、ナカノオオエに、蘇我倉山田麻呂の長女と結婚し、仲間に取り込もうとしたが、長女が同族の身狭(むさ)の臣と結婚したため、そのかわりに倉山田麻呂の次女が、ナカノオオエと結婚、佐伯の連子麻呂・葛城の稚(わかい)犬養の連網田(あみた)も、仲間に引き込み
‐蘇我氏本家滅亡に加担
・皇極4(645)年6月8日:前述(巨勢徳太の項)
‐右大臣に新任
・皇極4年6月14日:(孝徳天皇が、)同母姉の皇極天皇を、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号とし、阿倍の臣内麻呂を左大臣、蘇我の臣倉山田石川麻呂を右大臣、中臣の連鎌子(鎌足)を内臣(うちつおみ)に任命し、鎌足には、大錦(だいきん、冠位12階の7位)も授与、食封(へひと、じきふ、徴税による給与)を若干増加、仏僧の旻(みん)・高向(たかむこ)の史(ふびと)玄理(げんり)を国博士(くにのはかせ、国政の顧問)に任命
‐命令書を授与
・皇極4年6月15日:(孝徳天皇が、)金泥の命令書(金策/こがねのふみた)を、左大臣の阿倍の臣内麻呂・右大臣の蘇我の臣倉山田石川麻呂に授与
‐立派に国家を統治
・大化元(645)年7月12日:(孝徳)天皇が、左大臣の阿倍内麻呂(倉梯/くらはし麻呂)・右大臣の蘇我倉山田石川麻呂に、歴代の聖王(ひじりのきみ、せいおう、立派な王)のように、国家を統治するよう命令
‐天皇に進言
・大化元年7月13日:(孝徳)天皇が、左大臣の阿倍内麻呂・右大臣の蘇我倉山田石川麻呂に、臣下や庶民のために、何をすればよいか相談
・大化元年7月14日:右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が、まず祭祀、つぎに政治を強化すべきだと、天皇に進言
‐訴訟制度(鐘櫃の制)
・大化2(646)年2月15日:(孝徳)天皇が、離宮の東門で、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂に、庶民用の投書箱を設置するよう命令し、官僚が審理
‐自害
・大化5(649)年3月24日:蘇我の臣日向(ひむか)が、皇太子のナカノオオエに、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂は、皇太子が海辺にいった際に、殺害する計画があると嘘を密告すると、皇太子は、それを信用し、大伴の連狛(こま)・三国の公(きみ)麻呂・穂積の臣噛(くい)を、蘇我倉山田石川麻呂のもとに派遣し、謀反の虚実を質問すると、虚実は、孝徳天皇に直接返答するといって拒否、天皇も、狛・麻呂・噛の3人を派遣したが、同様の返答なので、天皇が、兵士に、蘇我倉山田石川麻呂の邸宅を包囲させると、一家で大和国境まで逃走
・大化5年3月25日:蘇我倉山田石川麻呂が、妻子等8人と、山田寺で自害
・大化5年3月25日:大伴の連狛・蘇我の臣日向が、兵士と、蘇我倉山田石川麻呂を追撃し、黒山(現・大阪府美原町黒山)で、土師の連身(む)・采女(うねめ)の臣使主(おみ)麻呂と合流すると、一家は自害したと報告があったので、丹比坂(たじひのさか)から引き返し
・大化5年3月26日:前述(紀麻呂の項)
・大化5年3月:(孝徳天皇が、)使者を派遣し、蘇我倉山田石川麻呂の財産を没収、財産の中の名著には、ナカノオオエに贈与するとのメモがあり、使者がそれを報告すると、皇太子のナカノオオエは、後悔・悲嘆
○チノイラツメ
・孝徳天皇(36代)の妃(大化元/645年7月2日)
・蘇我倉山田石川麻呂(馬子の孫)の娘
○ミヤツコヒメ
・皇太子のナカノオオエ(のちの38代・天智)の妃(大化5/649年3月)
・蘇我倉山田石川麻呂(馬子の孫)の娘
‐死去
・大化5(649)年3月:ミヤツコヒメは、斬首した物部の二田(ふつた)の造塩への憎悪から、精神が追い詰められて死去し、皇太子のナカノオオエは、悲嘆・号泣、野中の川原の史(ふびと)満(みつ)が、その和歌を皇太子に奏上すると、ナカノオオエは、称賛し、褒美に絹4匹・布20端・綿2カマスを贈呈
○オチノイラツメ
・天智天皇(38代)の嬪(天智7/668年2月23日)
・オオタノヒメ+持統天皇(41代)+タケルの母
・蘇我倉山田石川麻呂(馬子の孫)の娘
○メイノイラツメ
・天智天皇(38代)の嬪(天智7/668年2月23日)
・ミナベノヒメ+元明天皇(43代)の母
・蘇我倉山田石川麻呂(馬子の孫)の娘、オチノイラツメの妹
○蘇我日向(ひむか)
・蘇我倉麻呂(馬子の息子)の息子
‐謀略
・大化5(649)年3月24日:前述(蘇我倉山田石川麻呂の項)
・大化5年3月25日:前述(蘇我倉山田石川麻呂の項)
・大化5年3月26日:前述(蘇我倉山田石川麻呂の項)
・大化5年3月:前述(蘇我倉山田石川麻呂の項)
‐筑紫の宰(かみ、長官)に就任
・大化5年3月:(孝徳天皇が、)蘇我の臣日向を、筑紫の宰に任命し、世間の人々は、栄転のような流刑(隠流/しのびながし)と噂に
○蘇我赤兄(あかえ)
・蘇我倉麻呂(馬子の息子)の息子
‐アリマへの謀略
・斉明4(658)年11月3日:(斉明天皇が、紀伊の温泉/白浜温泉に行幸した際、)留守役の蘇我の臣赤兄が、アリマ(36代・孝徳の息子)に、斉明天皇には、重税による蓄財・運河造営の浪費・土木事業3つの失政があると指摘すると、アリマは、挙兵の計画を告白
・斉明4年11月5日:アリマが、赤兄の邸宅の高殿で相談していると、腰掛(床几/しょうぎ)が壊れ、不吉の前兆だと悟って中断・解散、赤兄は、物部の朴井(えのい)の連鮪(しび)を派遣し、アリマの市経(いちぶ、現・奈良県生駒市壱分町)の邸宅を取り囲むとともに、斉明天皇に謀反を報告
・斉明4年11月9日:(斉明天皇が、)アリマ+守(もり)の君大石(おおいわ)・坂合部(さかいべ)の連薬・塩屋の連鯯(このしろ)を逮捕し、紀伊の温泉に送致、舎人(とねり、召使)の新田部(にいたべ)の米麻呂も同行、皇太子のナカノオオエが、アリマに謀反の理由を質問すると、天と赤兄だけがわかっていると応答
‐筑紫宰(ちくしのかみ、のちの大宰師/だざいのそち、九州の最高責任者)に就任
・天智8(669)年1月9日:(天智天皇/38代)が、蘇我の臣赤兄を、筑紫宰に任命
‐藤原鎌足の邸宅を訪問
・天智8年10月19日:(天智)天皇が再度、死去した内大臣の藤原鎌足の邸宅を訪問し、大錦上(だいきんじょう、冠位26階の7位)の蘇我の臣赤兄に、詔(みことのり)を読み上げさせ、金の香炉を贈呈
‐新年祭祀
・天智10(671)年1月2日:前述(巨勢人の項)
‐左大臣に新任
・天智10年1月5日:前述(紀大人の項)
‐オオアマを送迎
・天智10年10月19日:オオアマ(のちの40代・天武)は、吉野宮へ出発し、左大臣の蘇我の臣赤兄・右大臣の中臣の連金(かね)・大納言の蘇我の臣果安(はたやす)等が、宇治まで送迎した際、危険な出家だと言及、夕方に嶋宮(しまのみや、島の庄の離宮、現・奈良県明日香村)に到着
‐群臣の結束
・天智10年11月23日:前述(紀大人の項)
‐戦犯で流罪
・天武元(672)年8月25日:前述(巨勢人の項)
○ヒタチノイラツメ
・天智天皇(38代)の嬪(天智7/668年2月23日)
・ヤマベノヒメの母
・蘇我赤兄の娘
○オオヌノイラツメ
・天武天皇(40代)の夫人(天武2/673年2月27日)
・ホヅミ+キノヒメ+タカタノヒメの母
・蘇我赤兄の娘
○蘇我連子(むらじこ)
・蘇我倉麻呂(馬子の息子)の息子
‐死去
・天智3(664)年5月:(右)大臣・大紫(だいし、冠位26階の5位)の蘇我連子が死去
○蘇我果安(はたやす)
・蘇我倉麻呂(馬子の息子)の息子
‐御史大夫(ぎょしだいふ)に新任
・天智10(671)年1月5日:前述(紀大人の項)
‐オオアマを送迎
・天智10年10月19日:前述(蘇我赤兄の項)
‐群臣の結束
・天智10年11月23日:前述(紀大人の項)
‐壬申の乱で政府軍に参戦・自害
・天武元(672)年7月2日:前述(巨勢人の項)
○蘇我安麻呂(やすまろ)
・蘇我連子の息子
‐オオアマに味方
・天智10(671)年10月17日:(天智)天皇が重病で、蘇我の臣安麻呂を派遣し、皇太弟のオオアマを寝床に呼び寄せる際、安麻呂は、親密だったオオアマに注意して返事せよと忠告、天皇は、皇位継承してほしいと説得したが、オオアマは、多病を理由に何度も辞退し、次期天皇に皇后のヤマトノヒメ、次期皇太子にオオトモ(天智の息子)を推薦、自分は出家して仏道修行したいといい、天皇が許可し、次田生磐(すぎたのおいわ)に袈裟を用意させ、宮廷で剃髪
○蘇我氏の死去年代
・蘇我イシカワ(武内の宿禰の息子):5世紀前半?
・蘇我マチ(イシカワの息子):5世紀前半?
・蘇我カラコ(マチの息子):5世紀後半?
・蘇我イナメ(カラコの孫)6世紀後半
・蘇我ウマコ(イナメの息子):7世紀前半
‐キタシヒメ(イナメの娘):6世紀終り~7世紀初め?
‐オアネノキミ(イナメの娘)
‐イシキナ(イナメの娘)
・蘇我エミシ(ウマコの息子):7世紀半ば
・蘇我イルカ(エミシの息子):7世紀半ば
‐ホテノイラツメ(ウマコの娘)
・蘇我クラノヤマダノイシカワノマロ(ウマコの孫):7世紀半ば
‐チノイラツメ(クラノヤマダノイシカワノマロの娘)
‐ミヤツコヒメ(クラノヤマダノイシカワノマロの娘)
‐オチノイラツメ(クラノヤマダノイシカワノマロの娘)
‐メイノイラツメ(クラノヤマダノイシカワノマロの娘)
・蘇我ヒムカ(ウマコの孫):7世紀後半?
・蘇我アカエ(ウマコの孫):7世紀後半?
‐ヒタチノイラツメ(アカエの娘)
‐オオヌノイラツメ(アカエの娘)
・蘇我ムラジコ(ウマコの孫):7世紀後半
・蘇我ハタヤス(ウマコの孫):7世紀後半
・蘇我ヤスマロ(ムラジコの息子):7世紀後半?
(おわり)