鴨長明「方丈記」読解12~人と交流せず、物と交流 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)
 
 
 [12]手の奴、足の乗り物
 
・夫(それ)、人の友と有るものは、富めるを貴(たふと)み、懇(ねんご)ろなるを先とす。
《そもそも、人の友というものは、裕福な者を尊重し、親密であることを第一とする。》
・必ずしも情(なさけ)あると、素直(すなほ)なるとをば愛せず。
《必ずしも、人情深い者と、正直な者を愛するのではない。》
・ただ、糸竹(しちく)・花月(くわげつ)を友とせんには如(し)かじ。
《ただ、管弦の音楽と自然の花・月を友にしようとするには及ぶまい。》
・人の奴(やつこ)たる者は、賞罰甚(はなはだ)しく、恩顧(おんこ)厚きを先とす。
《人の召使という者は、賞罰の程度がひどく、恩恵が深いことを第一とする。》
・更(さら)に、育(はぐく)み哀(あは)れむと、安く静かなるとをば、願はず。
《けっして、優しく労わってくれたり、穏やかで静かなことを希望しない。》
・ただ、我が身を奴婢(ぬひ)とするには、如(し)かず。
《ただ、自分の体を召使にすることには及ばない。》
・如何(いかが)奴婢とするとならば、もし、成すべき事有れば、即(すなは)ち、己(おの)が身を使ふ。
《どのように召使にするかといえば、もし、なすべきことがあれば、すぐに自分の体を使う。》
・弛(たゆ)からずしも有らねど、人を従へ、人を顧(かへり)みるより易(やす)し。
《だるくないこともないが、他人をしたがえ、他人の世話をするより簡単だ。》
・もし、歩(あり)くべき事有れば、自(みづか)ら歩(あゆ)む。
《もし、歩かなければいけないことがあれば、自分で歩く。》
・苦しと言へども、馬・鞍・牛・車と心を悩ますには、如(し)かず。
《苦しいといっても、馬・鞍・牛・車と、心を悩ませるには及ばない。》
 
・今、一身を分(わか)ちて、二つの用を成す。
《今、(私は)わが身を分けて、2つの働きをする。》
・手の奴(やつこ)、足の乗り物、良く我が心に叶(かな)へり。
《手という召使と、足という乗物で、よく私の思い通りになっている。》
・心、身の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ。
《心は、体の苦しみを知っているので、苦しむ時は休ませる。》
・忠実(まめ)なれば、使ふ。
《健康になれば、使う。》
・使ふとても、度々(たびたび)過(す)ぐさず。
《使うといっても、たびたび度が過ぎることはしない。》
・物憂しとても、心を動かす事なし。
《面倒だからといっても、動揺することはない。》
・如何(いか)に況(いは)むや、常に歩(あり)き、常に働くは、養性なるべし。
《まして、いうまでもなく、常に歩き、常に働くのは、健康増進になるのだ。》
・何ぞ徒(いたづ)らに、休み居(を)らん。
《どうして、無駄に休んでいられようか。》
・人を悩ますは、罪業(ざいごふ)なり。
《他人を苦しめるのは、罪深い悪い行いだ。》
・如何(いかが)、他の力を借(か)るべき。
《どうして、他人の力を借りられようか。》
・衣食(えじき)の類(たぐひ)、また同じ。
《衣服・食事等も、また同じである。》
・藤の衣・麻の衾(ふすま)、得(う)るに随(したが)ひて、肌(はだえ)を隠し、野辺の茅花(をはぎ)、峰の木の実、僅(わづ)かに命を継ぐばかりなり。
《藤の(粗末な)衣服・麻布の寝具は、手に入るもので肌を隠し、野原の多年草のヨメナ・峰の木の実は、かろうじて命をつなぐくらい(の量)だ。》
・人に交はらざれば、姿を恥づる悔いも無し。
《他人と交流しないので、自分の姿を恥ずかしいと悔やむこともない。》
・糧(かて)乏しければ、疎(おろそ)かなる報(ほう)を甘(あま)くす。
《食料が乏しいので、粗末な報い(食事)も、おいしくなる。》
・総(すべ)て、かやうの楽しみ、富める人に対して言ふには有らず。
《だいたい、このような楽しみは、裕福な人に対していっているのではない。》
・ただ、我が身一つにとりて、昔と今とを、擬(なぞら)ふるばかりなり。
《ただ、私一人にとって、昔と今を比較しているだけだ。》
 
 
□考察
 
 ここでは、友達・召使等の人との交流は結局、心よりも金でつながっているので敬遠され、楽器・自然等の物との交流のみとし、自力だけの清貧な生活が実践されていますが、仏道修行のような、自分の欲望を意図的・作為的に抑圧しながらの、禁欲的な修行生活ではなく、自然な振る舞いがみられます。
 
(つづく)