鴨長明「方丈記」読解10~日野の生活 | ejiratsu-blog

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(つづき)
 
 
 [10]草庵の生活
 
・もし、念仏物憂(ものう)く、読経忠実(まめ)成らぬ時は、自(みづか)ら休み、自ら怠る。
《もし、念仏を唱えるのが面倒で、御経を読むのも熱心でない時は、自分から休んで、自分から怠ける。》
・妨(さまた)ぐる人もなく、また恥づべき人も無し。
《妨げる人もいないし、また恥ずかしく思う人もいない。》
・殊更(ことさら)に無言をせざれども、独り居(を)れば、口業(くごふ)を修(をさ)めつべし。
《わざわざ、無言の行するわけではないが、一人でいるので、言葉の修行をすることができる。》
・必ず禁戒を守るとしも無くと、境界(きやうがい)無ければ、何に付けてか破らん。
《必ず禁止の戒律を守ろうとしなくても、(破る)環境にないので、何によって破ることがあろう。》
・もし、また跡の白波に、この身を寄する朝(あした)には、岡の屋に行き交ふ船を眺めて、満沙弥(まんしやみ)が風情を盗み、もし、桂の風、葉を鳴らす夕(ゆふべ)には、潯陽(じんやう)の江を思ひ遣りて、源都督(げんととく)の行いを習ふ。
《もし、航跡の白波に、わが身を重ね合わせる朝方には、巨椋(おぐら)池畔に行き交う船を眺めて、歌人の満沙弥の歌の風情を学び取り、もし、カツラの木に吹く風が、葉を鳴らす夕方には、中国の長江に思いを巡らせ、琵琶の名手・源経信(みなもとのつねのぶ)の演奏を真似する。》
・もし、余興あれば、しばしば松の響きに秋風楽(しうふうらく)を比(たぐ)へ、水の音に流泉(りうせん)の曲を操(あやつ)る。
《もし、興味が尽きなければ、何度も松風の響に合わせて、秋風楽の曲を弾き、水の音に合わせて、流泉の曲を弾く。》
・芸は、これ拙(つた)なけれども、人の耳を悦(よろこ)ばしめむとには有らず。
《芸は、確かに拙いが、他人の耳を喜ばせるつもりはない。》
・一人調べ、一人詠じて、自ら心を養(やしな)ふばかりなり。
《一人で弾き、一人で吟じ、自分の心をはぐくむだけである。》
 
・また、麓(ふもと)に一つの柴の庵あり。
《また、日野山麓に、1軒の柴の庵がある。》
・即(すなは)ち、この山守(やまもり)が居る所なり。
《つまり、それは山守がいる場所だ。》
・彼処(かしこ)に小童(こわらは)あり。
《そこに少年がいる。》
・時々来たりて、逢(あ)ひ訪(とぶら)ふ。
《ときどき訪ねて来る。》
・もし、徒然(つれづれ)なる時は、これを友として遊行(ゆぎやう)す。
《もし、何もすることがない時は、この少年を友達として遊び歩く。》
・彼は十歳、これは六十、その齡(よはひ)事の外なれど、心を慰(なぐさ)むる事、これ同じ。
《彼は10歳、私は60歳で、その年齢は大きく離れているが、心を慰めることは同じだ。》
・或(ある)は茅花(つばな)を抜き、岩梨(いはなし)を採り、零余子(ぬかご)を盛り、芹(せり)を摘む。
《ある時は、チガヤの花を抜き、イワナシの実を採り、ヌカゴ取り、セリを摘む。》
・或は裾(すそ)わの田居(たゐ)に至りて、落穂を拾ひて、穂組(ほくみ)を作る。
《ある時は、山裾の田に到着し、落穂を拾って、穂組を作る。》
 
・もし、麗(うら)らかなれば、峰に攀(よ)ぢ上(のぼ)りて、遙かに故郷(ふるさと)の空を望み、木幡山(こはたやま)・伏見の里・鳥羽・羽束師(はつかし)を見る。
《もし、のどかな日であれば、峰によじ登って、遠く故郷の空を眺め、木幡山(現・京都府宇治市)・伏見の里(現・京都市伏見区)・鳥羽(現・京都市南区~伏見区)・羽束師(現・伏見区)を見る。》
・勝地(しょうち)は主(ぬし)なければ、心を慰(なぐさ)むるに障(さは)りなし。
《景勝地は、持ち主がいないので、心を慰めるのに、妨げるものはない。》
・歩み煩(わづら)ひ無く、心遠く至る時は、これより峰続き炭山(すみやま)を越え、笠取(かさとり)を過ぎて、或は石間(いはま)に詣(もう)で、或は石山を拝(をが)む。
《歩くのが苦でなく、心が遠くまで思い至る時は、ここから峰伝いに炭山(現・宇治市)を越え、笠取山(現・宇治市)を通り過ぎて、ある時は、岩間寺(現・滋賀県大津市)に参詣し、ある時は、石山寺(現・大津市)に参拝する。》
・もしはまた、粟津(あはづ)の原を分けつつ、蝉丸(せみまる)の翁(おきな)が跡を弔(とぶら)ひ、田上川を渡りて、猿丸太夫(さるまろまうちぎみ)が墓を訪(たづ)ぬ。
《もしくはまた、粟津の原(現・大津市)を分け入り、蝉丸の翁の旧跡を追善供養し、田上川を渡って、猿丸太夫の墓を訪ねる。》
・帰るさには、折に付けつつ、桜を狩り、紅葉(もみじ)を求め、蕨(わらび)を折り、木の実を拾ひて、かつは仏に奉(たてまつ)り、かつは家土産(いえづと)にす。
《帰り際には、その時節に応じて、桜の花を観賞し、紅葉を探し、ワラビを取り、木の実を拾って、ひとつには仏にお供えし、ひとつには家へのお土産にする。》
 
・もし、夜(よ)、静か成れば、窓(まどい)の月に故人を忍び、猿の声に袖を潤(うるほ)す。
《もし、夜が静かであれば、窓の月を眺めて故人を忍び、猿の声を聞いて、衣服の袖を(涙で)濡らす。》
・叢(くさむら)の蛍は、遠く槙(まき)の島の篝火(かがりび)に紛(まが)ひ、暁の雨は、自(おのづか)ら木の葉吹く嵐に似たり。
《草むらの蛍は、遠く槙の島のかがり火と見間違い、明け方の雨(の音)は、自然と木の葉を吹き付ける嵐に似ている。》
・山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峰の鹿(かせぎ)の近く馴(な)れたるに付けても、世に遠ざかる程を知る。
《山鳥のホロホロと鳴くのを聞いては、父か母かと疑い、峰の鹿が近くで懐(なつい)ては、世間から遠ざかった程度がわかる。》
・或はまた、埋(うづ)み火を掻(か)き起こして、老の寝覚(ねざめ)の友とす。
《ある時はまた、(灰の中に)埋めた炭火をかき出して、老人の寝起きの遊び仲間とする。》
・恐ろしき山成らねば、梟(ふくろう)の声を哀(あは)れむに付けても、山中の景色、折に付けて尽くる事無し。
《恐ろしい山でないので、フクロウの声をしみじみ感じても、山中の景色は、四季折々に応じて、尽きることがない。》
・いはんや、深く思ひ、深く知らん人の為には、これにしも限るべからず。
《まして、深く思い、深く知っている人にとっては、これだけに限るものではない。》
 
 
□考察
 
 晩年の鴨長明は、日野の草庵で、主に仏道修行と、和歌や琴・琵琶の演奏の芸道に取り組んでいたようですが、読経・念仏に飽きると、休んで怠け、しばらくすると和歌を詠んだり、楽器を弾いて楽しむ等の繰り返しで、出家したといっても、熱心に厳格な仏道修行に明け暮れたわけではありません。
 ここから長明は、隠遁生活が不徹底だと評価されがちですが、彼は、むしろひとつのことを徹底化せず、自由さ・寛容さ・中途半端さを大切にし、自然が四季を永遠に繰り返すように、仏道・芸道と怠惰・遊興を行ったり来たりすることで、自然の摂理である循環と同化しようとしたのではないでしょうか。
 長明の和歌については、1201年・47歳の時に、後鳥羽上皇(82代)が勅撰集編纂のために開設された和歌所(わかどころ)の寄人(よりうど、職員)になりましたが、著名な歌人で新古今集の選者の一人・藤原定家は、身分が非常に低いと日記(「明月記」)に書いており、出自が活躍の障壁になっていたようです。
  1211年・49歳の時には、3代将軍・源実朝が和歌の師匠を探し求めていたので、著名な歌人で新古今集の選者の一人・蹴鞠でも有名な飛鳥井雅経(まさつね)の推薦により、鎌倉に下向・面談しましたが、師匠にはなれず、その翌年に方丈記を執筆しています。
 長明の音楽については、琴や琵琶の名手でしたが、音楽の師匠が死去し、その追悼の音楽集会を開催した際、師匠から正式に伝授されていない琵琶の秘曲を演奏したのが非難され、後日には後鳥羽上皇の喚問に弁明しましたが、それも50歳での出家のきっかけともいわれています(「文机談/ぶんきだん」)。
 このように、長明は、アル時期まで和歌や音楽に、徹底的に取り組み、アル段階まで到達できましたが、神職と同様、和歌や音楽も行き詰った末の不徹底な隠遁生活といえます。
 また、老人の長明は、日野山麓の山守の息子の少年と、時々交流・遊興していますが、少年は、誕生直後なので清浄で、一生涯の中の増進期、老人は、死滅直前なので不浄で、一生涯の中の減退期といえ、老人が少年から生気・精気を吸収しようとしたとも読み取れます(貴族・武士・仏僧の少年愛と同様)。
 さらに、天候と調子がよければ長明は、日野の近郊へと遠出していたようですが、先人の西行のように、長旅の経験の記述はなく、ここでも不徹底さがみられます。
 一方、夜の生活で取り上げられている、猿の声・叢の蛍・暁の雨・山鳥の鳴き声・峰の鹿・埋み火+寝覚・梟の声は、いずれも先例のある和歌を溶け込ませ、重ね合わせており、主題を反復することで、文章の品格を向上させるだけでなく、反復の連続は、永遠な自然と同化させる行為でもあります。
 
(つづく)