縄文期概要1 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 不変・不動=「死」、変化・変動=「生」の美意識の源流を遡行すると、中国大陸・朝鮮半島渡来・先進の弥生文化と、日本列島土着・固有の縄文文化の対比へと辿り着くのではないでしょうか。
 梅原猛は、日本文化を縄文的要素と弥生的要素の2つの焦点をもつ楕円構造とみれば理解しやすいといっており、もともとは「縄魂弥才」だったのが、古代には「和魂漢才」、近代には「和魂洋才」になったと説明しています。
 ここでの「弥」・「漢」は中国・朝鮮の先進文化、「洋」は欧米の先進文化で、それらを表層では取り入れつつ、深層に流れ続けている、固有の美意識=「縄」・「和」で変容させたのが日本文化の特徴だといっています。
 これらをまとめると、中国や欧米の不変・不動の文化を、変化・変動させたのが日本文化だといえば、わかりやすくなります。
 縄文文化も、厳密にいえば、純粋な日本固有とはいえず、海外からの渡来要素も紛れ込んでいるうえ、時期や地域によって特色がありますが、それも取り上げて、ここでは縄文期と弥生期を比較・検討してみることにします。
 
 
■縄文期(約1万5000~2300年前):縄文中期まで温暖、縄文後期から寒冷→列島内平和の時代
・縄文草創期(約1万5000~1万年前):寒冷~0
・縄文早期(約1万~6000年前):0~温暖
・縄文前期(約6000~5000年前):温暖
・縄文中期(約5000~4000年前):温暖~0
・縄文後期(約4000~3000年前):0~寒冷
 ⇔ 中国・夏(か、紀元前2070~1600年頃、470年間)
殷(紀元前1600年頃~紀元前1046年、554年間)
・縄文晩期(約3000~2300年前):寒冷=弥生早・前・中期前半
 ⇔ 中国・周(紀元前1046~紀元前770年、276年間)
 
※弥生期(紀元前10世紀初め~3世紀前半):通期で寒冷→列島内戦争の時代
・弥生早期(紀元前1000~紀元前800年)
 ⇔ 周
・弥生前期(紀元前800~紀元前400年)
 ⇔ 中国・春秋時代(紀元前770~紀元前403年、367年間)
・弥生中期(紀元前400~紀元前50年)
 ⇔ 中国・戦国時代(紀元前403~紀元前221年、182年間)
秦(紀元前221~紀元前206年、15年間)、
前漢(紀元前202~8年、210年間)
・弥生後期(紀元前50~180年)
 ⇔ 前漢
新(8~23年、15年間)
後漢(25~220年、195年間)
・弥生終末期(180~240年)
 ⇔ 後漢
中国・三国(魏・呉・蜀)時代(220~280年、60年間)
 
※古墳期=前方後円墳時代(3世紀後半~6世紀終り):通期で温暖→政権内平和の時代
 ⇔ 中国・西晋(280~316年、36年間)
五胡十六国・南北朝
隋(589~618年、29年間)
  
●環境
 約2万年前(約258万年前以降は洪積世=更新世)には、気温が最も寒冷なうえ(現在-約7~8℃)乾燥で、海水面も大幅に低下しており(現在-約130~140m)、氷河が拡大していましたが(ウルム期)、そこからしだいに温暖化して海水面も上昇(縄文海進)・氷河も縮小しました。
 約1万年前(これ以降は完新世=沖積世)には、現在とほぼ同等の気温・海水面になり、日本列島は中国大陸・朝鮮半島から切り離されています。
 約1万3000年前(縄文草創期)には降雨・降雪により、森林が形成され、動植物が豊富になり、山林の栄養分のある水や土が河川で運搬され、近海で魚介類が繁殖、四季の変化が顕著になりました。
 こうして、自然環境が激変したので、縄文文化は南九州(上野原遺跡・鹿児島県霧島市、日本最古で最大)から太平洋岸の南関東まで北上し、約1万年前には東北・北海道まで拡大しました。
 ところが、約7300年前(縄文早期)には、鹿児島南方沖の海底火山・鬼界カルデラ(薩摩硫黄島・竹島一帯)で、巨大噴火が発生し、その火山噴出物の影響で、西日本の縄文文化が壊滅、東日本に遺跡が偏在している要因ともいわれています。
 そして、約6000年前(縄文早期・前期の境目)には、気温が最も温暖(+約2℃)になり、海水面も上昇(+約2~3m)しましたが、そこからしだいに寒冷化して海水面も下降しました。
 約4000年前(縄文中期・後期の境目)には、現在とほぼ同等の気温・海水面になり、約3000年前(縄文後期・晩期の境目)には、気温(-約1~1.5℃)・海水面(-約2m)とも現在よりも低下しました。
 こうした中で、縄文中期までは温暖化で、東日本が隆盛、西日本は大噴火の影響で低迷していましたが、縄文後期からは寒冷化で、東北北部~北海道南部での自然の恩恵が低下、食生活が一時不安定になり、そののち何とか安定を取り戻す一方、関東~北陸での自然の恩恵が上昇、西日本も復活しました。
 約3000年前(紀元前1000年頃)は、九州北部(菜畑遺跡・佐賀県唐津市)に水田稲作が導入された縄文晩期・弥生早期にあたり、寒冷化にともなう海水面のやや低下、海退で沖積平野や低湿地帯が出現し、水田稲作に適した土地が広く確保できたので、農耕が普及する契機になりました。
 ちなみに、中国大陸・朝鮮半島から大勢の渡来人が日本列島へ流入するきっかけになった、中国の戦国時代は、弥生中期にあたり、巨大環濠集落(吉野ヶ里遺跡・佐賀県神埼市~吉野ヶ里町が有名)が出現し、それが小国の形成へと発展、そこには先進文化が影響しているようです。
 
   ▽縄文期の気候変動と海水面変動
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●生活:狩猟採集生活
 日本列島では、移動距離のある大型動物が絶滅した一方、移動距離のない中小型動物の狩猟や山菜・木の実・果実・キノコの採集、魚介類の漁労(ゴミ捨場が貝塚)等、周辺の様々な自然の恩恵から、食料が安定して確保できるようになったので、遊動生活から定住生活へと移行し、集団で集落を形成しました。
 ただし、いきなり通年の定住生活ではなく、最初は季節ごとに近場での遊動生活で、食料と水が他の集団と競合せずに安定確保できる場所で、風雨時の火種確保や防寒・越冬のために住居を設置したのでしょう(栫ノ原/かこいのはら遺跡・鹿児島県南さつま市=夏の定住地、掃除山遺跡・鹿児島市=冬の定住地)。
 縄文期(日本の新石器時代)以前の旧石器時代での遊動生活では、打製石器で大型動物を捕獲でき、かつそれを解体・食料にして生存できる人数が集団で移動し、統率者はいましたが、成員は比較的自由で固定化されず、大量の食料を備蓄できず運搬もできないため、全員で均等に分配する平等な社会でした。
 定住生活になっても、集団に統率者はいましたが、食料の確保に必要な作業を役割分担しており、統率者もその一員なので突出しすぎず、集団の成員どうしは平等が原則で、貧富の格差もほとんどなかったようです。
 また、定住生活になると、持ち運びしないので道具が発達、貯蔵・煮炊き・アク抜き用の縄文土器や、動きの早い小型動物の捕獲用の弓矢、網+オモリ・釣針・モリ・ヤス等の漁具が発明され、磨製石器も普及し、比較的軟らかい石を砥いで斧状にすれば、立木が伐採・加工できたので、竪穴住居が普及しました。
 さらに、定住生活になると、狩猟・採集・漁労の区域をめぐって、集団外と問題になるので、それで集団内が結束しましたが(個人を拘束することにもなります)、当初は集落どうしが対立・抗争へと発展しないよう、友好のために通婚・交易で相互に結び付きました(贈与と返礼の関係=互酬性)。
 そこから、過剰・不要な物と不足・必要な物の物々交換が慣習化し(縄文期から自給自足ではありませんでした)、産地が限定される黒曜石・サヌカイト等が、遠方にまで分布しているほど、物資や情報の流通が活発だったようで、磨製石器でくりぬいた丸木舟で、外洋を航海する技術も発達しました。
 狩猟採集+定住社会では、集団内での平等や、集団外での交易で、貧富の格差や権力の集中が抑止されるため、弥生期まで国家の形成は回避されています。
 紀元前1000年頃からは、狩猟採集の不安を農耕で補完するため、九州北部で水田稲作が普及しましたが、農耕は暦と共同作業が大事なうえ、耕地獲得・利水分配をめぐって集団間で対立・抗争になるため、統率者が重要で、弥生期から普及した青銅器は祭祀具、鉄器は実用具(作業・戦争)と使い分けました。
 統率者は、祭祀の主催や稲種の保管・種蒔時期の決定、圃場・灌漑施設の整備や他の集落との同盟・戦争等を主導することで、集落内で特権化するとともに、寒冷の影響もあって、集落間での貧富の格差が顕在化し、略奪・平定目的で戦争することもあったでしょう。
 こうして、弥生期に農耕社会へ移行するとともに、しだいに統率者が突出するようになり、統率者(国王)が人民の生命・財産等を保証するかわりに、人民が統率者に貢納する、支配と保護の関係へと変容し、国家が形成されました(狩猟採集社会では、贈与と返礼の関係が国家の形成を阻止していました)。
 
●集落
 円滑で均等な人間関係を維持するため、北海道南部~東北北部では縄文早期から、東北南部~関東・中部では縄文前期から、中央の広場(祭場)を取り囲むように、数軒の竪穴住居が円環状に配置されました。
 集落には、その他に共同用の大型竪穴住居(貯蔵穴付)・掘立柱建物(祭殿)や貯蔵穴群(土中は夏に暑くなく、冬に寒くなく、温度変化しにくい)、墓地(土坑墓群)や貝塚・ゴミ捨場(遺物包含/ほうがん層)・水場等も付属していました。
 竪穴住居は、後期旧石器時代から造られ始め(はさみ山遺跡・大阪府藤井寺市、約2万2000年前、日本最古)、縄文期には盛んに造られるようになり、石器で茅の刈り取りは大変困難なので、草木を下地に土を覆い被せた土葺や、樹皮葺が主流だったようです。
 弥生期以降も竪穴住居は引き継がれ、屋内は就寝と風雨時の火種確保や防寒・越冬等のためで、食事・作業等の普段の生活は屋外だったようです。
 余談ですが、高床の建物は縄文中期から出現しており(三内丸山遺跡・青森市=約4500年前、桜町遺跡・富山県小矢部市=約4000年前)、弥生期から稲種保管用の高床倉庫、首長祭祀用の高床住居が本格的に普及しました。
 縄文中期までは、自然の恩恵が豊富だった東日本の集落が大規模化しましたが(三内丸山遺跡が有名)、縄文後期からは、大規模集落が解体されて中小規模化するとともに、複数集落の共同祭場兼墓地が出現しました(環状列石・環状木柱列・環状土籬/どり)。
 弥生期には集落間・地域間での対立・抗争から、戦争が繰り返されたので、防御のために周囲を空堀・水堀や土塁・木柵等で取り巻いた環濠集落が発達し、鉄器で茅の刈り取りが容易になったので、竪穴住居や高床住居・倉庫が茅葺になりました。
 
●墓地
 旧石器時代の遊動生活では、しばらくすると立ち去るため、地面に墓穴を掘り、そこに遺体を直接納めて埋め戻す質素な墓地が通例で(土坑/どこう墓)、死者の生前の装身具・打製石器等を副葬したり、赤色顔料が散布することもありました(湯の里4遺跡・北海道知内/しりうち町、日本最古の土坑墓)。
 赤色は、太陽が昇る(=生まれる)朝焼け・太陽が沈む(=死ぬ)夕焼けや、出産の出血を想起させ、再生・復活の呪力があるとされていたようです。
 それが定住生活になると、生者は死者と共存しなければならず、縄文早期から集団墓地が貯蔵穴とともに、円環状に配置された竪穴住居群の中心に設置されましたが、これは集落の一体感のためや、先祖伝来の土地占有を正当化するためともいわれています。
 埋葬の仕方は多様で、当初は手足を折り曲げて寝かす屈葬の土坑墓が主流で、そこに石を抱かせて埋葬したり(抱石葬/ほうせきそう)、埋葬上に石を並べることもありました(配石墓)。
 屈葬は、子宮内での胎児の姿勢を再現することで、再生を祈願したとか、死者の霊魂が浮遊して生者の危害にならないよう、死者への畏怖があったからとか、休息の姿勢・労力の節約等、諸説あります。
 しかし、縄文後期からは、集落から距離のある場所での複数集落の共同墓地(環状列石・環状土籬)へと変容し、慣習のもとで装身具・道具類が副葬され、共同の葬送祭祀で、集落どうしの結束を強化していたようです。
 また、縄文後期からは、乳幼児の遺体を甕棺(かめかん)に納めて埋葬され(甕棺墓)、これは死亡率が高かった乳幼児が早死にしても葬式をせず(7歳以下は神の子といわれました)、母親が使用していた土器等を子宮に見立てて、再生を祈願したからで、弥生前・中期には成人用の甕棺墓が定着しました。
 身体をのばして埋葬される伸展葬(しんてんそう)は、死者を永遠の寝姿で安置するためともいわれ、縄文前期から出現し、縄文中期から特に西日本で増加、縄文後期には南関東で屈葬を逆転しており、弥生期には伸葬が主流になっています。
 埋葬上に石を部屋状に組み立てた支石墓(しせきぼ)は、朝鮮半島の影響で、縄文晩期に九州北部で出現しましたが、弥生前期まででほぼ衰退しました。
 
●霊魂
 定住生活になると、簡単な植物の栽培や動物の飼育に取り組むのが自然で、おそらく中国大陸・朝鮮半島からたびたび栽培・飼育の情報や技術が移入していたのに、日本列島では約1万年間も狩猟採集が継続され、なかなか農耕が普及しませんでした。
 それは、野生の動植物にすばらしい生命力・精気(タマ)があり、それを食料にすれば、自分も超自然力(超能力)が取得できると信仰されていたからのようで、これは自然と一体化しようとする行為といえ、食料に人工の作為を持ち込みたくなかったのでしょう。
 主に春には山菜、夏には魚介類(春~秋も)、秋には木の実・果実・キノコ、冬には中小型動物(シカ・イノシシやカモ・キジ等)と、四季の移り変わりとともに、多様な食料を確保しており(食料不足はなかったようです)、それは現在でも季節の旬として受け継がれています。
 捕獲・採取した食料の大半は、収穫が減少する冬や夏のために、保存・加工(乾燥・塩漬・燻製)して貯蔵しました(縄文後期から製塩されるようになりました)。
 狩猟採集から農耕へと移行したのは、弥生期に水田稲作と鉄器が(青銅器も)ほぼ同時期に持ち込まれ、森林伐採で圃場・灌漑施設が整備できれば、動植物の捕獲・採取量を圧倒するほど、水田稲作は莫大な収穫量になり、大勢の人々の食料が確保できることがわかったからでしょう。
 すると、稲にもすばらしい生命力・精気(稲魂)があるとされ、収穫量は天候に左右されるため、様々な自然の中でも、太陽・雨水の祭祀を特化するとともに(巫女)、収穫から種蒔までの間の稲種の保管が大切になり(高床倉庫)、それらを職務とする首長がしだいに特権化していきました。
 
●土器:縄文土器
 日本(世界)最古の土器は、約1万6500年前(後期旧石器時代)の破片が出土しており(大平山元Ⅰ遺跡・青森県外ヶ浜町、弓矢の先端である石鏃/せきぞくも出土し、世界最古)、外周に模様はないので、縄文期から模様付の土器が定着したようです。
 縄文土器は、縄目等の多彩な模様や装飾で、外周がほぼ埋め尽くされているので命名され、比較的厚手・軟質・暗い褐色であり、これらはやや低温で不安定な焼成技法で製造されたからです(薪で火を焚いて焼きました)。
 貯蔵・煮炊き・アク抜き用の深鉢形は、通期にわたって出土し、東日本では縄文前期には盛付用の浅鉢形が、縄文後期から急須状の注口(ちゅうこう)土器や皿・壺等が登場した一方、西日本では縄文後期から模様なしの縄文土器が主流でした。
 装飾過多で、不均衡というより、動的な均衡、非対称形というより、対称形を曲線の模様・装飾で打破することによって、生命力や躍動感を創り出しており、神秘的・豪華、変化・変動=「生」の表現といえます。
 一方、弥生土器は、東京本郷の弥生町・向ヶ岡貝塚で、この型式が出土したのが最初なので命名され、縄文土器よりも薄手・硬質・明るい褐色であり、これらは高温で安定した焼成技法で製造されたからです(草・土・灰等を被せて焼きました)。
 装飾過少、静的な均衡、文様は比較的均等な対称形で、機能的・簡素、縄文土器と比較すると、不変・不動=「死」の表現といえます。
 弥生期には縄文文化が北海道・沖縄方面で継続される一方、本州・四国・九州では弥生文化が席巻し、これ以降は時代の移り変わりの中で、縄文文化由来の奇抜さが、まれに見え隠れすることになります。
 
(つづく)