李御寧の「縮み」志向の日本人 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 韓国人の比較文化研究者(のちに韓国初代文化大臣)・李御寧(イ・オリョン)は『「縮み」志向の日本人』で、日本人は小さく縮ませたものを好む傾向にあり、扇子・俳句・弁当・極小茶室等、様々な実例を列挙・解説していますが、なぜそうなったのかは考察されていません。
 そのうえ、日本で実際には古墳、出雲大社・奈良の大仏殿・京都の大極殿(雲太・和二・京三)、城郭や巨大戦艦の大和・武蔵等、大きなものも建造されていますが、それらへの言及はなく、物の大小はあくまでも日本特有の表現をした成果(現象)といえ、その根源(本質)は他にあるようです。
 したがって、ここでは実例をもとに、「なぜ日本人は小さく縮ませたものを好む傾向にあるのか」を、探求してみますが、そもそも「日本特有の表現方法とは何か」も、あわせて探求してみます。
 
 李氏は、「縮み志向」を6つの型に分類していますが、かれの印象による区別なので、それらを私なりにまとめると、
・「折り畳む」:扇子/せんす(←団扇/うちわ)、短小の折り畳み傘(←長傘)、風呂敷
・「詰め込む」:弁当(←食膳)、文庫本(←単行本)、カプセルホテル(←ビジネスホテル)、トランジスタラジオ(真空管ラジオ)、ウォークマン(オーディオ)、電卓(←電子計算機)、軽自動車(←普通自動車)
・「取り込む」:庭園・盆栽・生花(←自然)、都会の茶室(←田舎の草庵)、神棚・仏壇(←神社・仏寺)
・「削り取る」:短歌(←長歌)、俳句(←和歌=短歌)、コケシ・ダルマ(←手足ありの人形)、念仏「南無阿弥陀仏」・題目「南無妙法蓮華経」(←読経)、浮世絵(←日本絵画)、無表情の能面(←表情のある仮面)
の4つになりますが、ここで注意したいのは、いずれも本元の単なる模倣品・代用品ではなく、それ独自の表現にまで高められたものが多いことです。
 そして、それらには、
・「小さいことが美しい」
・「小さいことで使いやすい」
の2つの側面があり、美しいと人々に共有されるには、普及・定着の土壌が必要で、使いやすいと人々に共有されるには、移動・携帯の土壌が必要になり、いずれも簡略化・凝縮化しても成立しているかが前提なので、利便性・美観性・経済性等を追求した結果の小型化かどうかが吟味の対象になります。
 それでは、「なぜ日本人は小さく縮ませたものを好む傾向にあるのか」と「日本特有の表現方法とは何か」をみていきます。
 
 
●環境:「微小・変動」
 
 日本列島での精巧な美術・工芸品は、古来より安土桃山期までは特権階級(公家・武家・豪商等)の間で流通し、そのほとんどは中国大陸・朝鮮半島由来の「唐物(からもの)」が重宝されたので、世界中でその萌芽の可能性があるといえ、それだけが取り立てて、小さく縮ませたものを好む理由にはなりません。
 注目すべきは、戦乱が終息した江戸期に、特権階級の文化・技術の一部が、生活にゆとりができた庶民にも普及・定着したことです。
この時代は、平和維持のため、政治面では身分・地位・家柄等が厳格に規定されていても、城下町では武士・商人・職人が結び付き、経済面では対等で(職人は商人を仲介に商品を武士等へ販売し、武士と商人の間で金銭の貸し借りも頻繁にありました)、文化・芸術面でも一部共有していたのが実情でした。
 そうなると、全人口の7~8割の農民は、それ以前から小さく縮ませたものを好む土壌がないと、庶民には浸透しませんが、それは以下の理由と推測できます。
 ヨーロッパや中国大陸・朝鮮半島は国土が比較的広大なうえ、地形も単純・雄大なので、城壁都市やありのままの自然を再現した巨大庭園等、大自然に対峙・支配しようとし、人工物が大規模化する一方、日本列島は国土が狭小なうえ、地形も複雑・微妙に変化しています。
 よって、それに対応して生活するため、日本人は古来より微地形を読み取り、大自然に立ち向かわず、自然の摂理や循環に同化しようと、人工物を小規模化するのが顕著です(大規模化のほとんどは海外の影響で、実用性より象徴性=権威・権力の表現です)。
 特に微地形は、農民達による水田稲作での灌漑施設の整備や、武士達による所領での経営や合戦での戦術に大切なので、微小な変化を把握する繊細さ・緻密さと、それを共有・反映して協力することが必須だったのではないでしょうか。
 日本列島は平地が少なく、一人あたりの耕地面積が比較的小さいので、農民達は古来(弥生期)より米作と畑作(商品作物等)を両立させ、開墾・農具改善・品種改良・灌漑施設整備等で農産物の生産性を向上させたり、地域の特産物として加工品化する等、農業の集約化・多角化・商業化が発達しました。
 つまり、純粋な農民というより、手広く営む「百姓」というのが適切で、それと同様、漁民達も新鮮な海産物を流通させるのには限界があるため、加工品化が主流になり、農産物や海産物は手間をかけた手工業品的・手工芸品的だったことも、小さいものを好む土壌といえます。
 そして、庶民にも普及・定着するには、広範な人々によいと受け入れられるよう、一定の水準を確保しつつ、わかりやすくしなければならず、そのために洗練化と定型化が進行しましたが、日本古来の共通認識は次のように醸成されてきました。
 欧米や中国は、そこが世界(宇宙)の中心だと認知され、全体を描き尽くし、部分は全体に従属させて完結しようとするうえ、人為が自然を超越したように表現するため、物の永遠性を追求し、求心性・対称性・正面性等、静的な均衡・調和が愛好されます。
 朝鮮は、中国と近距離なので(周辺)、しばしば中国の支配下となり、中国に対抗するためには中央集権化を徹底しなければならず、そのためには中国由来の制度・文化を全面的に受け入れ、王朝の交代や科挙による官僚登用も導入され、中国と同様、能力や実績で国王が選出されました。
 一方、日本は、中国や朝鮮と遠距離なので(亜周辺)、支配下にならず冊封(さくほう、貢納による主従関係)を拒否でき(古墳期5世紀後半の21代・雄略天皇の時代から)、2度の蒙古襲来や西洋列強にも侵略されず、中国・欧米由来の制度・文化を選択的に受け入れつつ、独自の志向と表現も形成してきました。
 それは変動=「生」、不変・不動=「死」という志向で、太陽の運行や季節の変化等、自然の摂理・循環のように、絶え間なく移り変われば(無常)永久不死不滅なので心が安定し、人工物は自然(全体)に寄り添い融合・一体化させようと、要素・断片(部分)の寄せ集めでよく、あえて未完にします(完成=死)。
 具体的には、人工による作為ですが、自然に生成したように表現し、移り変わりの瞬間を切り取り、動的に均衡・調和させたり、物と心を呼応(一致・対比)させて表現したり、物の「縮み」を心の「拡がり」に転換させるため、小宇宙を形成する等、物より心の永遠性の追求が愛好されます。
 ただし、ここで、ありのままの自然をただ再現(真似・写実)しただけでは、印象として消えてしまうので、観念として残すことが大事で、武道・芸道等が洗練化・定型化される過程で、強調・誇張も許容されているのがおもしろいところです(自然体より形式美を優先することもあります)。
 このように、日本列島特有の地形的な影響と、中国大陸(帝国)‐朝鮮半島(周辺)‐日本列島(亜周辺)の地理的な影響から、小さきもの・変化するものを見る眼が研ぎ澄まされたのではないでしょうか。
 
 
●行動:「旅行・移動」
 
 それとともに、江戸期には庶民も寺社参詣を名目とし、気軽に旅行できるようになったことも、小さく縮ませたものを好むようになった一因で、庶民の遠出は馬・牛等にたよらず、徒歩が基本でした。
 日本の旅行といえるものの歴史は、特権階級と庶民に大別すると、まず特権階級の旅行といえるもの(実際は移動)は、修験者(山伏)による山中(霊山)修行がその発祥といえ、飛鳥期から奈良期にかけての修験者・役小角(えんのおづの)が修験道の始祖で、全国各地にかれが修行したとされる霊場があります。
 修験者達の霊山修行は、山岳の霊力を心身に吸収して超自然的な能力(験力/げんりき)を体得し、それを人々に授与するためで、過酷な修行は煩悩(欲望)を取り去って自然と一体化する行為、霊山(他界・異界)からの下山は生まれ変わりを意味し、これは平安期の密教僧にも受け継がれています。
 日本では、古来より人々が信仰していた神道によると、死・疫病や月経・出産、犯罪等はもちろん、普通に日常生活していても、年月が経過すれば、しだいに生気・精気が減衰、心身に不潔さ・不浄さが蓄積し(ケガレ=気枯れ)、やがてそれが災厄の要因になるとされていました。
 よって、生気・精気回復、心身清浄化のためには、定期的な呪術・祈祷の儀式(ミソギ・ハライ)が必要で(常若/とこわか)、日本人はあらゆる場面でケガレ・ミソギ・ハライの行為を取り入れられるとともに、仏教とも結び付きました(神仏習合)。
 飛鳥期の天武天皇(40代)の時代以前には、不潔さ・不浄さが蓄積しすぎないよう、頻繁に天皇の宮殿が移転され、それ以後に不動の藤原京が造営されると、例えば持統天皇(41代)は自分の神性回復のため、実質政務期間約11年で31回も飛鳥から吉野へ遠出しています。
 平安期の皇族・貴族による季節の年中行事や人生の通過儀礼、平安京内の本邸・平安京外の別邸での遊宴も、遊びではなく、生気・精気回復のための祀り・祭り(神事)の一種で、生まれ変わりを意識していました。
 やがて、末法思想の影響もあり、平安後期から浄土教が流行すると、修験者・密教僧だけでなく、皇族・貴族等が霊山や寺社を崇敬・参詣し、加持祈祷するようになり、例えば後白河上皇(77代)は院政を主導した約34年間で34回も京都から熊野へ遠出しています。
 これらの遠出は、記紀神話での、混沌とした世界からイザナギとイザナミが、まず地上に国産み、つぎに天上で神生みした際、イザナミが死んで他界・異界へ行ってしまい、イザナギがイザナミを奪還しようとしたが断念、イザナミが汚れ(ケガレ)たので、清めて(ミソギ)神々が誕生したことを想起させます。
 そして、寺社への参詣は、鎌倉期からは武士、室町期からは庶民にも拡大しました。
 平安末期から鎌倉初期にかけての仏僧・西行(もと北面の武士)や、江戸前期の俳人・松尾芭蕉等が、霊場巡礼の長旅と簡素な草庵での隠遁生活に明け暮れたのも、誕生→死滅→再生を擬似的に繰り返すことで自然の循環と一体化し、永久不死不滅を獲得しようとしたからで、旅の途中での死が理想とされました。
 鴨長明・吉田兼好(ともに神官の家系で、のちに出家)等の草庵での忌み籠もった生活は、記紀神話での、アマテラスが洞窟へ引き籠もると、暗闇になって災難が多発、神々の連携でアマテラスを誘い引っ張り出すと、陽光が取り戻せ災難も排除できたことを想起させ、ケガレ・ハライ・ミソギの行為といえます。
 
 つぎに庶民の旅行といえるものは、奈良期から平安中期までの一部の納税者による庸(成人男性の中央政府での労役の代納物)・調(青年・成人男性の貢納物)等の家から都までの運搬や、防人(さきもり、当初は遠江/とおとうみ、現・静岡県西部以東の農民が対象)赴任の九州北部への移動があげられます。
 しかし、かれらの運搬・移動の際の、食料・寝床や武装等の調達は、自費だったうえ、その間でも免除されない徴税があり(庸・調・雑徭=青年・成人男性の地方機関での労役は除外)、男性はかなり過酷な負担で、現状は租(耕作者一律に収穫量の3%)程度の負担しかない女性が家を切り盛りしたはずです。
 防人は、奈良中期から九州の農民からの徴用となり、地方にも武士団が台頭した平安中期には終了、租庸調等の徴税は、平安中期の宇多・醍醐天皇(59・60代)の時代までは小幅な変更でなんとか維持しようとしますが、10世紀前半の朱雀天皇(61代)の時代からは大幅に転換しました。
 それは、庶民から中央政府(朝廷)への納税分を、すべて地方機関(国司)が負担するかわりに、朝廷の監督を緩和し、国司の裁量で地域を統治させたことで、朝廷は国司に徴税権と警察権を委譲しました。
 国司は、耕地さえ把握すればよく、戸籍の調査が不要になるので、個人への課税から土地への課税に切り替え、課税は物納(年貢)と労役の2つだけに整理し、所領の治安維持のため、武士が台頭しました。
 そうなると、これまで中央に集中していた物品が、地方に分散するようになり、地方機関から中央政府へや、庶民から地方機関へも、物納より金納が便利なので、平安後期から中国・宋の銅銭が流通するようになり、行政による庶民の強制旅行(移動)がなくなりました。
 庶民も生産物を商品として換金するのが基本になるので、良質な商品を安価に創り出す工夫をするようになり、武士も所領の経営や商売にも乗り出し、しだいに武士や庶民が裕福になっていきます。
 こうして寺社参詣は、鎌倉期からは武士、室町期からは庶民にも拡大しましたが、戦国期になると、特に有力な支援者がいなくなった神社は荒廃し、資金調達・境内再興のため、伊勢神宮(外宮)・熊野三山・浅間神社(富士山)等が、下級の神職(御師/おんし)を全国各地の町や村に派遣しました。
 御師はもともと、平安期に皇族・貴族が神社等に加持祈祷してもらう際、宿泊や案内の世話をしてもらう神職で、当初は参詣のたびに契約していましたが、しだいにその関係が恒常化、鎌倉期からは武士、室町期からは庶民も世話するようになっていました。
 御師達は、戦乱で庶民の移動が困難な時期には、町や村で暦(こよみ)や札(ふだ)を配布したり、五穀豊穣・商売繁盛等を祈願するかわりに、初穂料として穀物・金銭等を受け取り、庶民の代理人として奉納することで活動していました。
 それが天下統一で関所が撤廃、江戸期には五街道等の交通網が整備され、農業技術の進歩等で農作物の収穫量が増加、商品経済も発達し、農民・商人の生活が向上、参詣が容易になると、御師達は担当する町や村の人々を神社周辺にある自分の宿坊に滞在させ、案内する等、かつての役割を復活させています。
 徳川幕府は、江戸前期から庶民を、いずれかの宗派の寺院に所属させ(寺檀/じだん制度)、各寺は戸籍を作成、住居・旅行等で移動の際には、檀家であることの証文を必要とすることで、庶民の行動を管理しましたが(宗教組織による反乱抑止のためです)、寺社参詣には寛容でした。
 庶民は、表では神仏祈願のために、他藩の領地も自由に行き来できる通行手形を地元の寺院で発行してもらいましたが、裏ではその周辺地域や道中の観光・遊興のためでもありました。
 特に伊勢神宮は、内宮では皇祖神で太陽神のアマテラス、外宮では穀物神のトヨウケが祭神なので、天下泰平・五穀豊穣(商売繁盛)の祈願を目的とする「お伊勢参り」は、政権の方針である幕藩体制の維持と年貢納入の安定とも合致するので、規制する理由はありませんでした。
 ですが、当時の庶民にとって、社寺往復の旅費は相当な負担となり、一人で大金を用意するのは困難なため、そこで生み出されたのが「講」という仕組みで、特に伊勢講(神明講)は集落担当の御師と密接に結び付き、参詣の流行を生み出しました。
 講では所属者全員が定期的にお金を出し合い、その積立金をクジ引きで決めた数人の代表者の旅費や寺社への奉納金として参詣に送り出し、一度代表者になれば次回以降クジを引く権利を失うので、いつかは所属者全員が参詣できるよう配慮されており、寺社参詣は農村の場合、農閑期を利用しました。
 出発や帰還の際には、講で盛大な宴会が執り行われ、目的地やその道中では講への土産を購入する等、個人の観光旅行ではなく、あくまでも代表者として振る舞いましたが、江戸からのお伊勢参りは参詣後に京・大坂等まで見物する人々もいました。
 伊勢には全国各地から人々が集散するとともに、知識・技術・流行等の最新情報も集積するので、参詣時にそれらを吸収し、帰還後の宴会は講への情報伝達の場でもありました。
 お伊勢参りが盛んになると、特別な効果があるという60年に一度のありがたい年(おかげ年)への期待と結び付き、数百人規模の集団参詣の現象も発生しており(お陰参り)、参詣者が頻繁に通行する街道筋では、人に物を施し与える慣習ができ、旅費がなくてもお伊勢参りできたそうです。
 また、江戸期には現地への寺社参詣にとどまらず、全国各地の集落では、本社の祭神を分霊した神社や祠(ほこら)も建立され、神仏が身近にあり、庶民の生活と密接に結び付いていました。
 農民達は、対等な立場での寄合で(神のもとの平等)、地域の問題を解決し、春には豊作祈願、秋には収穫感謝のために祭が執り行われましたが、これらは俗と聖を行き来する日常の行為といえ、農作業は誕生(発芽)→死滅(結実)→再生(種蒔)を繰り返すので、毎年の生まれ変わりに寄り添っています。
 ここまでみてくると、近代以前の日本人の旅行のほとんどは寺社参詣でしたが、それは俗と聖を行き来する非日常の行為といえ、かれらはそうすることでも生まれ変わろうとし、それを繰り返すことで自然の循環と一体化しようとしたのではないでしょうか。
 
 
●体制:「分権・二元」
 
 古墳、出雲大社、奈良の大仏殿、京都の大極殿、城郭の天守、巨大戦艦の大和・武蔵等、日本の巨大な建造物は当初、権威・権力を誇示するためが大半ですが、いずれも一時的で、時代とともに適応しなくなると、小型化・低層化する傾向にあります。
 古墳は、飛鳥期の薄葬令をきっかけに小型化、出雲大社は、度々の倒壊で棟高が48m→24mと低下、大仏殿は、江戸中期に間口が約2/3に縮小、大極殿は、焼失と再建が繰り返され、平安末期には再建されず、その機能は内裏(天皇の居所、御所)の紫宸殿(ししんでん)へ移転しました。
 城郭の天守は、戦乱が終息した江戸前期には高層での再建が禁止され、巨大戦艦は、魚雷や戦闘機の爆撃を防御できませんでした。
 そのうえ日本では、そもそも権威・権力が次々に移り変わっていき、権威・権力を長年保持することが困難で、巨大化に固執しない風潮もありました。
 日本の歴史を振り返ってみると、中央集権が採用されたのは、古代の7世紀後半から10世紀前半まで(約250年間)と近代の明治維新以降(約150年間)しかなく、そのいずれもが海外の圧力の影響で(古代は中国大陸・朝鮮半島での戦乱、近代は西洋列強での武力)、それ以外は地方分権が大半でした。
 地方分権とは、権限や財源の地方への委譲のことですが、日本のはじまりを大和政権が樹立したと推定される4世紀前半の崇神天皇(10代、実際は初代)の時代に設定すると、約1700年間中で400年間(約1/4)が中央集権でしたが、それらも純粋な体制とはいえません。
 その変遷を大雑把にまとめると、以下のようになります。
 古墳期から飛鳥期の天智天皇(38代)の時代までは、大王=天皇が各地の豪族達と連合し、各豪族が私有地と私有民を統治する二元支配で、飛鳥期の天武・持統天皇の時代から奈良期・平安前期までは、中国由来の律令制(公地公民)が本格化しましたが、うまくいかず平安中期の朱雀天皇の時代に断念しました。
 中央集権は、古墳期5世紀後半の雄略天皇(21代)の時代から徐々に推進されましたが、実質は天皇の群臣の有力豪族が政権を運営したため、大化の改新でもその体制は継続され、壬申の乱で有力豪族を一掃できたので加速できました。
 ところが、律令制が形骸化しても廃棄せず、平安後期から私領(荘園)を容認・拡大した摂関政・院政となり、鎌倉前期まで荘園公領制による西日本の公家と東日本の武家の二元支配、承久の乱で武家が公家の領地を没収・西日本まで進出しましたが、南北朝の動乱で公家と武家の対立が再発しました。
 荘園発達の理由は、10世紀前半から国司の裁量で地域が統治できるようになり、私腹をこやす国司が出現、朝廷への賄賂で国司の地位が買収され、国司は地方に赴任せず、現地の徴税官や有力農民と対立、最終的には土地を皇族・貴族等の有力者に寄進し、朝廷から徴税免除や立入禁止の権利を獲得したからです。
 そうなれば荘園は治外法権なので、荘園を奪取しようとする武装集団(山賊・海賊)が出現し、それにともなって領主に奉仕して荘園を警護する武士集団が結成され、そこから平氏と源氏が台頭しました。
 平氏は院庁と結び付き、朝廷の主要な役職を独占しましたが、源氏が平氏を滅亡させると、源氏は武力を背景に、院庁から諸国に守護(警察権+地頭の監督権)、荘園・公領に地頭(徴税・治安維持等の管理権)を任命する権利を獲得し、家臣を派遣、しだいに地頭は土地の支配権を奪い取り、全国へと拡大しました。
 承久の乱までは、主君(幕府)に奉仕(戦争協力)しても、臣下(御家人)に御恩(所領分与)がありましたが、鎌倉中期の蒙古襲来では領土を獲得していないうえ、御家人は世代交代とともに家族が増加するので生活が困窮化、北条氏への不満から後醍醐天皇(96代)らが反乱、足利氏が幕府を再興しました。
 室町期から戦国期にかけては諸国で領主制・郷村制による武家政治へと移行、安土桃山期に天下統一が達成されましたが、江戸期には幕府が諸藩の大名を統制し、各藩が人民を統治する二元支配としました(幕藩体制)。
 鎌倉幕府では、地頭の権限が顕著で、土地単位の支配でしたが、室町幕府では、守護の権限が強化され、南北朝期から自治的な集落(惣村)の形成が急増したことで、領国単位の支配になり、武士・寺社・農民等の勢力が団結し、対立・抗争が繰り返されるようになりました。
 こうして、群雄割拠の戦国期となり、最終的には家柄でなく、能力のある武将が天下統一しましたが(信長→秀吉→家康)、これ以降は下克上にならないよう、江戸幕府は重要拠点を直轄地として確保しつつ、参勤交代・天下普請等で諸藩の財政を圧迫させ、謀反の余地を取り去りました。
 日本列島は中心である中国大陸からみれば亜周辺ですが、武家は「亜周辺」でも遠い位置の鎌倉で分権から出発することで基盤を強化し、そこから「周辺」に近い位置の京都へと乗り込んで権威と権力を隣接させ、分権からしだいに集権へと結束しようとしました。
 ですが、天下統一後は将軍家永続のため、集権をあえて回避し、「亜周辺」でも遠い江戸へ引き返し、武家と公家の二元性を回復したかにみえますが、実際は公家を学問や文芸に専念させ、武家が政治を取仕切りました。
 明治期には討幕運動から、権威の中心である天皇を、権力の中心である江戸へと移動させ、律令制を回復することで、ようやく天皇制・官僚制による中央集権へ転換したかにみえますが、日本の政治は一貫して歴代の中国のような中央集権ではありませんでした。
 天皇制に権威はあるが権力がないことがほとんどで、官僚制も科挙(家柄でなく、試験での能力による登用)が全面的に採用されたのも明治期からですが、どちらも次のように不純な体制でした。
 
 天皇制については、中国では天の命令で、天子(皇帝)としてふさわしい有徳者に、天下(国家)の統治を委任するとされ、もし皇帝が悪政をすれば、天意でその国家を滅亡させ、別にふさわしい有徳者を選定し、建国を任命するという思想があり(天命思想・易姓革命)、これが王朝交代の根拠とされています。
 ここでの天意とは、人民の支持がなくなることで、中国はつねに権威と権力を併せ持つ皇帝が国家の中心にいて、その中心の構築と破壊が繰り返されてきました。
 それとは対照的に、日本の天皇は、次々に交代する為政者の権力を正当化するため、権威が保持されてきた経緯があり、それが今日まで天皇家が永続できた要因ですが、明治期から天皇は中央集権の頂点に君臨したので、太平洋戦争後には天皇に絶対的権限はあるが責任はないという矛盾が露呈しました。
 アメリカのGHQは、今後日本が社会主義化・共産主義化しないよう、天皇の権威に依拠する統治を存続させ(天皇に絶対的権限があったのは、むしろこの時期だけでした)、それは暫定政府の思惑とも一致し、天皇の戦争責任は免除されています。
 日本では古来より天皇は空虚な中心だったのがほとんどで、古墳期から飛鳥期には中央の有力豪族、平安中・後期には摂関家や上皇が実質の中心となり、それが将軍になっても、鎌倉期には有力御家人や執権、室町期には三管四職、江戸期には老中と、しだいに将軍からも中心をずらしました。
 有能な豪族・貴族・武将等が独断政治をする場合には、血統で正統性のある皇族を天皇に擁立することで実権を掌握し、能力がない天皇や将軍の場合には、血統を維持するために中心をずらし、実際は豪族・貴族・武士どうしの合議で物事を決定してきたのが大半でした。
 記紀神話でも、アマテラスはスサノオの地上・天上での乱暴に我慢できなくなったので、洞窟に引き籠りましたが、神々の連携で洞窟から引っ張り出されても、アマテラスは何もせず、神々による河原での集会で、スサノオが天上からも追放されたことから、天皇は籠もって祀るのが本来の仕事とされています。
 それを反映し、日本の律令制でも(古代・近代ともに)、行政の責任者である太政官より、祭祀の責任者である神祇官のほうが、最上位に設定されていました。
 ここまでみてくると、歴史からは集権より分権のほうが日本人に適合していることがわかりますが、集権は良い時に個人の手柄にし、分権は悪い時に責任を曖昧にする傾向にあり、注意が必要です。
 そして、集権は上下関係に、分権は対等関係につながりますが、上下関係が公的で儀式化するのとは反対に、対等関係は私的で遊興化しがちで、茶の湯や連歌での主人と客人の触れ合いも、そのような中から発展したのでしょう。
 
 官僚制については、飛鳥期から奈良期の律令制導入時に科挙は採用されず、部分的には平安期から取り入れられましたが、下級役人までの昇進で、上・中級役人は世襲で貴族が独占し、台頭した武士も当初は貴族化していきました(平氏)。
 ところが、鎌倉期から江戸期までは武家の棟梁が公家の頂点・天皇から将軍に任命されることで(源氏等・足利氏・徳川氏)、権威は公家、権力は武家と並存し、徐々に武家が公家より優位になって実権を掌握していきましたが、武士の役職も世襲なので、科挙を受け付けない土壌だったといえます。
 平氏は中央政府(朝廷)の武官から文官になり、朝廷を乗っ取りましたが、源氏・足利氏・徳川氏は朝廷から独立した幕府を開設し、その構成員の武士達には道徳的に高貴な武人が要求され、天下統一で戦乱が終息すると、武士は役人(文人)化しましたが、ついに官僚(朝廷の武官・文官)になりませんでした。
 明治期に科挙が本格化されても、中央政府による試験は文官のみ、武官は内閣から独立した軍部が所管する士官学校からの登用なので、文官と武官がともに中央政府に所属せず、名目は天皇のもとでの一元体制とされていましたが、実際は内閣(文人)と軍部(武人)が並存する二元体制でした。
 それが昭和期からの軍部の暴走で、侵略戦争へと突き進みましたが、文人より武人が優位な状況は江戸期から温存されてきたとみえ(明治維新が下級武士の革命だからか)、これでは純粋な中央集権でなく、双方を並存する場合には、そのバランスを最重要視すべきですが、軍部の暴走はそれが無視された結果です。
 一方、中国や朝鮮では、官僚が文字と知識を独占することで実権を掌握するため、武官より文官が優位になり、文官が利権を悪用・堕落すると、武官が反乱したり、政権の支配力が低下すると、周辺の遊牧民に乗っ取られて王朝交代となりますが、再度統治する際には、文書でのやりとりのために文官が必要です。
 中国や朝鮮の科挙は、中央政府が試験で文官・武官ともに採用し、両者とも中央政府に所属する一元体制なので、純粋な中央集権であり、日本も太平洋戦争後にはアメリカの圧力でようやく、それを取り入れました(自衛隊の文民統制)。
 このように、日本の政治面では、二元支配がほとんどで、一元支配にみえても、実際はそうでなかったりしますが、文化面でも、古墳期からたびたび大勢の渡来人が流入・帰化し(平安貴族の約3割は渡来系といわれています)、先住民と移住民が混在することになり、漢字とともに、万葉仮名が普及しました。
 そののち、万葉仮名は平仮名・片仮名の発明につながり、漢字は公式文書用(儀式的)で知的・理念的、片仮名は口頭の文章用(神仏の言葉に使用されたことに由来)、平仮名は日常の読み書き用(遊興的)で美的・直感的と使い分けられるようになりました。
 中国の宮廷では、男性にのみ漢詩が発達しましたが、日本の宮廷では、それとともに男女の性差なく和歌も発達し、平安期には女性の特権階級による平仮名での物語・随筆等も登場(源氏物語・枕草子等)、武士も文字は漢字と仮名の混合がわかればよく、現在でも二元的・相互補完的に使用されています。
 
 ここまでは、国レベルについてでしたが、家レベルについても同様で、二元的な傾向がみられます。
 日本の特権階級の家制度は、古墳期には父系制と母系制が混在した双系制で、その名残から飛鳥期から奈良期には6人の女性天皇が即位しています(推古・皇極=斉明・持統・元明・元正・孝謙の6天皇)。
 平安期の貴族は結婚しても、夫が妻のもとへ行き来し、子は妻の家族と生活するのが通例なので、夫と妻の財産は別々で管理され、武士の台頭・活躍とともに、しだいに表面上は中央集権的な家父長制へと移行しました。
 ただ、武家でも、息子がいなければ、しばしば親戚の有能な男子を後継者として養子にしたり、商家では、息子を後継者にせず、有能な男子を娘婿にする(家父長制との整合性から養子として迎え入れました)等、出自よりも家制度の維持を優先させています。
 さらに、律令制下の農民(百姓)は、庸・調の運搬や労役等、男性が過酷な負担だったため、女性が家を切り盛りすることが多々あり、そののち男性の負担が軽減されても、農業・商業・手工業等の多様な業種で生計をたて、家は労働組織なので、非血縁者も従属し、家存続のために、女性がかなり活躍しました。
 家父長制は労働組織でない武士の家に受け入れられましたが、それでも鎌倉期までは武士の未亡人が所領(荘園・公領)を管理することもでき、女性も自分の財産を所有していました。
 平安期の貴族の邸宅・寝殿造は、開放的な広間、閉鎖的な塗籠(ぬりごめ)、それらの四周の庇(ひさし)等で構成されますが、塗籠は夫婦の寝室兼納戸として使用され、大事な財産を収納する聖なる場で、女性が管理していました。
 そこから発展して、貸出や担保の物品・金銭等を保管する土倉(どそう)を建造し、高利で貸し付ける金融業者(借上/かしあげ)が出現しましたが、土倉は塗籠のように聖なる場とされ、鎌倉期には多くの女性が金融業を営んでいたようです。
 それが、室町期になると女性の財産や所領の権利が減少し、江戸期になると不動産を所有する権利が正式になくなり、それでも動産(嫁入の家財道具等)の権利は確保されましたが、武家政治の定着とともに、しだいに女性の地位は低下していき、南北朝期以降には、女流文学も輩出されなくなりました。
 表面上は男尊女卑が進展したかにみえますが、江戸期の離婚率は相当高く、未婚の母も多かったようで、法的には夫婦の離婚権は夫が持っているため、妻が離婚したければ、家から飛び出し、夫が仕方なく離縁状を書くことも多々あり、その後の妻の再婚も、前の離婚は影響しませんでした。
 ただし、江戸期の子供の教育は、武士の家の男子は藩校で学問や教養、庶民の家の男子は寺子屋で読み書き・ソロバンを学習しましたが、女子は各家で作法を習得する程度で、男女で性差があり、幕末の識字率は平均40%程度だったともいわれ、農民や商人も帳簿・書状等の必要から識字ができました。
 つまり、国レベルで二元支配や、一元支配でも集権から分権へ移行しがちなのと同様、家レベルも男性(父系)のみの一元的でなく、女性(母系)が補完する二元的になりがちでしたが、共通するのは変化があっても、国や家を存続させるために、権限を集中させすぎず、危機を分散しようとする姿勢です。
 これは不変・不動=「死」、変動=「生」という志向につながり、これも自然の摂理と一体化しようとする行為のようで、一元支配より二元支配、集権より分権が浸透していたので、特権階級の文化・技術の一部が、庶民にも普及・定着し、それがそののちの急速な近代化も実現させたのでしょう。
 ちなみに、中国や朝鮮の儒教では本来、血縁的な関係である父母への孝行と、契約的な関係である主君への忠義を区別し、忠より孝を大切にすべきとされ、家レベルと国レベルはいずれも一元支配で、父母や主君は有徳者が前提ですが、国より家を優先させることで、家を国から防護することができます。
 他方、日本では江戸後期から孝より忠が大切だと主張されはじめ、忠孝一致の思想も登場し、明治末期から天皇を国家の家父長とする忠孝一致の意識が形成されましたが、これは西洋列強がキリスト教の絶対神のもとで国民意識が統一され、それが近代化を推し進めたので、それを天皇に置き換えたからです。
 この時代の日本は、家レベルと国レベルがいずれも一元支配になり、家と国が直結した、歴史的にみても特異な期間で、それらの頂点に軍部の暴走が位置づけられ、外交を遮断して引き籠り、東アジアの近隣諸国へ攻撃・侵略した結果、家が国の犠牲になりました。
 
 
●まとめ
 
 以上、日本人が小さく縮ませたものを好む傾向にあるのは、「微小・変動」「旅行・移動」「分権・二元」の3つのキーワードでまとめてみました。
 そして、日本特有の表現方法の根底にあるのは、変動=「生」、不変・不動=「死」という志向で、自然の摂理・循環と一体化させることが表現の主題となり、そこから移り変わりの瞬間を切り取ったり、何度でも生まれ変わろうとしたり、権限を集中させて固定化せず、分散させて流動的に対処しようとします。
 小さきものを好む傾向は、今後も継続されるでしょうが、日本人の欠点は、局部への過剰なこだわりと、大局観のなさ、責任の所在を曖昧にすること等です。
 しかし、小さきものを好んでばかりではいられず、不得手な巨大なものへも対処する必要がありますが、その際には、注意が行き渡る(責任がもてる)範囲に分割し、大きなものの儀式性・形式性と小さきものの遊興性・遊戯性が両立しているかが大切ではないでしょうか。
 「縮み志向」の実例では、単独のものだけが取り上げられていますが、都市・建築・制度等、周囲と密接に関係するものに取り組む場合には、すべて清算された白紙の状態から立案することがないので、自然の摂理・循環と一体化するように、既存のものに寄り添いつつ、改変・再生すべきでしょう。
  そこで、小さきものを見る目が活躍しますが、特に制度を改正するうえで、権限と財源の問題は、上位の分権が下位の集権につながるおそれがあるので、そのバランスに注意すべきです。