上賀茂神社(賀茂別雷/わけいかずち神社)・下鴨神社(賀茂御祖/みおや神社)~流造 | ejiratsu-blog

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(京都市)
 
   ▽上賀茂神社 境内
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   ▽下鴨神社 境内

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 上下社いずれも、山城の賀茂氏の祖先神(氏神)が祀られ、上社の祭神はカモワケイカヅチ、下社の祭神はカモワケイカヅチの母のタマヨリビメと、タマヨリビメの父のカモタケツヌミ(賀茂氏の始祖)です。
 タマヨリビメは、様々な神話に登場し、神霊を宿すとされる依代(よりしろ)の女性(巫女)で、賀茂社ではカモタケツヌミの娘が小川(鴨川)で水遊びしていると、川上から丹塗(にぬり)矢が流れてきたので持ち帰り、寝床の近くに置いていたら、カモワケイカヅチを妊娠・出産したといわれています。
 カモワケイカヅチが成人した祝宴で、カモタケツヌミが「君の父にもこの酒をあげなさい」といったところ、カモワケイカヅチが「私の父は天つ神です」と言い放ち、屋根を突き抜け昇天したそうです。
 丹塗矢=父は、乙訓(おとくに)神社(現・向日/むこう神社)の火雷神(ほのいかづちのかみ)とされています。
 そして、天上のカモワケイカヅチからタマヨリビメへ祭祀するように神託があり、祭祀を執り行うとカモワケイカヅチが神山(こうやま)に降臨したので、これが賀茂祭となり、タマヨリビメの兄のタマヨリヒコの子孫が賀茂の県主(あがたぬし)で、かれらがカモワケイカヅチを祀ったのが賀茂社です。
 両社ともに創建は不明とされていますが、天つ神の流れを汲む神社で、上社は天武天皇(40代)の時代に拝殿を建立し(御神体は神山山頂の磐座/いわくら)、おそらく桓武天皇(50代)の時代に本殿を建立、奈良中期に下社が分社されたようです。
 新撰姓氏録(しんせんしょうじろく、古代氏族の名鑑)では、カモタケツヌミは神武天皇が熊野から大和へ侵攻する際、アマテラスらが派遣し、道案内したヤタガラスの化身とされおり、これは地方豪族だった賀茂氏と天皇家との結び付きを神話化したものです。
 賀茂氏は実際には、朝廷に薪(まき)・炭・水等を提供する役職だったようです。
 山城国風土記逸文では、カモタケツヌミは神武天皇を先導するために、天上から神山に降臨したとされていますが、これは賀茂氏の山城進出を神話化したものです。
 こうして、奈良期以前から朝廷に崇敬されており、平安京遷都では宮殿の鬼門の方角(北東側)に立地され、鴨川からの邪気侵入を阻止する守護神として信仰される等、さらに親密化しました。
 そして、平安初期の平城天皇(51代)の時代には、両社ともに神社の最高位になるとともに、賀茂祭が天皇の使者を派遣・奉献する祭祀へと変化し、現在も葵(あおい)祭として受け継がれています(神前に葵を供え飾るので、葵祭といわれるようになりました)。
 賀茂祭のきっかけは、欽明天皇の時代(29代)に天候不順で不作になり、占うと賀茂神の崇(たた)りが原因で、祭を開催すると豊作になったからで、当初は荒々しい狩猟のような神事で物騒・乱暴だったため、朝廷がそれを禁止、国司管理のもと、風流で優雅な行列を見学する形式に転換されました。
 そののち、室町中期から盛大な賀茂祭がしだいに衰微し、応仁の乱以降は神職による祭祀のみになりましたが、江戸中期の東山天皇(113代)の時代から行列が復活しました。
 余談ですが、東山天皇は長年中止していた大嘗祭も復活しており、5代将軍・徳川綱吉も皇室を尊敬し、江戸幕府と朝廷の関係はおおむね良好なので、賀茂祭も再興でき、江戸初期から皇室や公家が政治に介入させず、学問・文化・祭祀等に専念させる幕府の方針が、この時期には達成していたのでしょう。
 また、平安初期の嵯峨天皇(52代、平城天皇と対立・勝利して即位)の時代から鎌倉初期の後白河天皇(82代)の時代までの約400年間、天皇の未婚の子女が巫女(斎王/さいおう)として奉仕しています。
 斎王が忌み籠もって奉仕する施設は、伊勢神宮では斎宮(さいぐう)、賀茂社では斎院(さいいん)とよばれ、賀茂社は伊勢神宮につぐ(実際にはしのぐ)神社となりました。
 さらに、両社は、現在も宮中で執り行われる、天皇の一年最初の儀式である四方拝(嵯峨天皇の時代から開始され、59代・宇多天皇の時代に定着しました)の対象になっています。
 ここまでみてくると、奈良期に天武系天皇が宇佐神宮と結び付いたように、平安期に天智系天皇が特に結び付いたのが上下賀茂社で、平安京内には仏寺を制限したうえ(東寺・西寺のみ)、密教は天皇と私的につながっており、朝廷が公的につながったのが上下賀茂社だったのではないでしょうか。
 しかし、宇佐神宮と大きく異なるのは、平安期から一般の寺社や山岳信仰(修験道)が神仏習合を本格化した一方、朝廷が関与した伊勢神宮・賀茂社等は、古来からの神事を遵守し、仏事とは差別化していることです(方位や軸線を考慮した伽藍配置や、木部の朱塗り・柱頭部の組物等は仏教の影響です)。
 ちなみに、伊勢の内宮は、天皇家の祖先神なので、当初は皇室のみが関係し、天皇の許可がないと参拝できず、貴族や武士にも崇敬されはじめたのは、朝廷が弱体化し、一般の社寺参詣が普及した平安後期からです。
 朝廷が中央集権の国家体制を維持しようとしたのは、平安中期の醍醐天皇(60代)の時代までで、これ以降は中央の国法による統治と、戸籍・帳簿をもとにした個人への課税(律令制)から、地方に大幅に委任した統治と、土地への課税(荘園公領制)へと方針転換されました。
 ここから朝廷の収入が徐々に減少するようになり、伊勢神宮や賀茂社の維持・運営費用も削減されたので、有力神社各々は寄進された荘園の経営で財源を確保し、伊勢神宮では貴族や武士の祈祷も受け入れるようになりました。
 ところで、賀茂社では下社のみ、平安中期の後一条天皇(68代)の時代から鎌倉末期まで、21年ごとに式年遷宮されましたが(上社は損傷・劣化が進行した際に、権殿に遷宮して修理・建替)、しだいに間隔が長く開くようになり、現在は修理のみです。
つまり、社殿の建替や賀茂祭の盛衰は、費用捻出も起因していたといえます。 
 
●社殿
 
   ▽上賀茂神社 本殿・権殿
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   ▽下鴨神社 西本殿・東本殿
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 下社は父娘の2祭神なので、東西に本殿2棟が並列し(東本殿の祭神がタマヨリビメ、西本殿の祭神がカモタケツヌミ)、上社は娘の子の1祭神(カモワケイカヅチ)ですが、本殿の西側に、御神体を一時安置する仮殿として、同大同形の権殿(ごんでん)があり、現在の4棟は江戸末期の再建です。
 上社での本殿と権殿の並列は、伊勢神宮の社殿地の2区画の並列を連想させ、これも修理・遷宮の際に祭神の生命力が衰弱し、朝廷や国家の衰退につながらないよう、同形同大の2棟複製で対処しているのでしょう。
 両社の2棟とも間口3間・奥行2間の平面に、ソリのある切妻屋根・平入、その前方に拝礼のために庇(向拝)をそのまま延長し、千木や堅魚木はありません。
 土台は御神輿(おみこし)のように井桁状で、柱上には組物(単純な形式の舟肘木/ふなひじき)があり、正面中央に扉と階段があり、四周には縁と手摺(高欄)が取り付いています。
 この流造(ながれづくり)の形式は、古来より賀茂社が各地に分祀されているうえ(賀茂社領の荘園管理のための分祀も多々あります)、雨天でも最低限の祭儀が執り行える構成なので、全国の大半の神社に採用されています(国宝・重要文化財指定の神社建築の過半数が流造です)。