春日大社~春日造 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(奈良市)
 
   ▽境内(回廊内)
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 社伝では奈良後期の称徳天皇(48代、孝謙天皇が復位)の時代の創建とされていますが、これは鹿島神宮から多数の鹿を引き連れて、白鹿の背中に祭神の1柱であるタケミカヅチの分霊を乗せて来たからで、これがきっかけで鹿が神の遣いとして大切にされています。
 記紀神話では、アマテラスが八百万の神々らと、出雲へ派遣する神を相談した際、アメノオハバリかタケミカヅチの父子いずれかが適任だと選定、そのことをアメノオハバリへ伝えに行った使者が鹿の神とされるアメノカクで、結局アメノオハバリの推薦でタケミカヅチが派遣されています。
 アメノオハバリ・タケミカヅチの父子は(いずれも刀剣の神)、イザナギとイザナミとの間に火の神のカグツチが生まれた際、イザナミの陰部が火傷して死去したので、イザナギがカグツチを切り殺して生まれた2柱です。
 しかし、実際は奈良前期の聖武天皇(45代、藤原不比等の娘・光明子が妻)の時代(天平年間)まで創建はさかのぼるようで、天上から神が降臨したとされる三笠山麓に、おそらく藤原不比等(ふひと、中臣=藤原鎌足の次男)が以下の四祭神を氏神として分祀したのがはじまりと推測されています。
 中臣氏(藤原氏)の本拠地である、常陸の鹿島神宮からは武神のタケミカヅチ(最東側の第1殿)、下総の香取神宮からは武神のフツヌシ(第2殿)を分祀しました。
 記紀神話では、アマテラスの命令で、タケミカヅチとフツヌシが出雲へ派遣され、オオクニヌシに国譲りを交渉・成功しており、鹿島・香取の両神宮は、蝦夷(えみし)征伐への大和朝廷の前線基地でもありました。
 また、中臣氏(藤原氏)の祖先神のいる、河内の牧岡(ひらおか)神社( 大阪府東大阪市 )からは、祝詞(のりと)の神・出世の神のアメノコヤネ(第3殿)とヒメガミ(アメノコヤネの妻、最西側の第4殿)を分祀しました。
 記紀神話では、弟のスサノオの乱暴に我慢できなくなった姉のアマテラスが洞窟(天岩戸/あまのいわと)に引き籠もった際、岩戸を開けるように祝詞を唱えた神がアメノコヤネで、のちのアマテラスの孫のニニギが天上から地上へ降臨する際にも、アマテラスを岩戸から誘い出した神々が同伴しています。
 一方、藤原氏の氏寺は、平城京遷都の際に、藤原不比等が藤原京から移転させた興福寺で、藤原氏の隆盛とともに、氏神・氏寺も繁栄し、神仏習合により、神は仏の化身であるという思想(本地垂迹/ほんちすいじゃく説)が浸透するとともに、春日大社と興福寺は一体化していきました。
 春日大社も以前は、20年ごとに式年遷宮があり、解体された木材は、興福寺の領地で転用する風習があり、円成寺(えんじょうじ、 奈良市 )に現存する春日堂と白山堂は、いずれも鎌倉前期の遷宮の際に移築されたもので、春日大社では本殿が見学できないので、貴重な存在です。
  
●社殿
 
   ▽本殿
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  本殿は祭神ごとに同形・同大の4棟が東西に並列しており、各棟は1間四方の平面に、ソリのある切妻屋根・妻入で、その前方には拝礼のための庇(向拝/こうはい)が取り付いています。
 屋根には四角断面の堅魚木が2本、置き千木(千木の先端は伊勢の外宮や出雲大社と同様、垂直に切断)があり、現在の本殿は江戸末期の再建です。
 仏教寺院の影響から、柱下には礎石、柱上には組物(単純な形式の舟肘木/ふなひじき)があり、屋根にはソリをつけ、木部は朱(丹)塗り、板壁は白(漆喰)塗り等、彩色されています。
 神は天上から降臨し、祭祀の際のみ神が社殿に滞在するといわれているので、土台を井桁に組み、その上に柱を立て、オミコシのように、持ち上げればどこにでも移動できる、臨時の仮設の表現にしています。