「光る気へ」で、佐々木蔵之介さん(宣孝)は「いちばんトクをしたのは右大臣であろう、これは道長の陰謀に違いない」と言い切って、まひろは微妙な顔をしていましたが。
部外者がそう考えるのは自然なところですし、現代でも「そう思ってるひと」(ていうか、それが真実で、ドラマは嘘だ、と言い募る人)は多いですが。
しかし、これは「光る君は」というドラマであってね。素直にずっと見ている人は、そう思ってはいないでしょう。真実はいつもひとつ、ではありません。
吉田羊さん主演の舞台「ハムレットQ1」(PARCO劇場)を、先々週と昨日、二度観てきました。いや、シェイクスクピア大好きなもんで。
で、最初に観たときから、昨日また観るまでの間に、私の観劇態度にちょっとした影響のがある出来事が二つばかりありました。
オフィーリア役の飯豊まりえさんが電撃結婚したこと(笑)と、「光る君へ」で吉田羊さん演じる女院さま(詮子)が大きく関わる「考察し甲斐のあるトリック」を観て、興奮してしまったことです。
ああ、やっぱり吉田羊さんは、他人の陰謀に嵌められるほうより、みずから謀るほうの役が合っている、と強く確信したんですよ。
ハムレットの、気がおかしくなったフリを「佯狂」と言います(シェイクスピア好きはみんなこの単語を知ってる)。最初から「羊」が中に入ってる。
だからこそ?
呪詛騒ぎは、吉田羊さんの、いや詮子さまの自作自演だった。
倫子さまは途中で勘づいて筋書きに乗ってあげただけの「事後共犯」だろう、これはあくまで、私の考察ですが…、
とわたくし先日、書きましたが。ある程度その線で合ってたかな、というシーンがありました(倫子さま、いよいよマウントとり始めましたね!)。
世間には「すべて倫子さまの計画、詮子さまは知らなかった」説や「倫子・詮子の共謀」説もあったようで。
中には史実を引いてきて「伊周側の高階家の仕業です」「やっぱりぜんぶ道長の陰謀なんだよ」といった声もあったようです。
大河ドラマが、VIVANT並みの「考察合戦」の舞台になるとは、時代も変わったものです。
この件については、それぞれ意見を言い合うのが面白いと思いますし、脚本の大石さんも、演出も、それを狙っているのではないか、と見ます。
おそらく、「正解」は今後も明示されないでしょう。「真実はいつもひとつ」じゃあないんですから。
光る君へ、は、あくまでドラマであり、実際の歴史がどうだか、の話は、あまり関係ないと思います。そのへんは「ハムレット」も同じです。ハムレットもオフィーリアもあくまで登場人物であり、従って描かれ方は「劇作家シェイクスピア(と劇団)の、胸先三寸」だということです。
ハムレットには歴史上実在のモデルがいたとかいないとか言われますが、しかしこの芝居に出てくるハムレットは、完全にシェイクスピアの創作物です。しかも、パンフの松岡和子先生の文章を読むと、Q1とF2ではハムレットの設定が微妙に違う、ということ、つまり初演と再演では「同じハムレットではない」と言っても過言ではない、わけで。
その意味では「光る君へ」の道長や詮子、倫子と同じ、と言っていえなくもない。
映画「源氏物語千年の謎」の東山紀之さんと、「光る君へ」の柄本佑さんは、同じ藤原道長という名前でも、別の人物です。
史実の道長がどうだと論じるのは余り意味がないんです、このドラマの道長は「陰謀をしないひと」だという設定になっている、のであって。
ハムレットには、いろんな謎があります。
「なぜハムレットは王子なのに、すんなり王位を継げないのか?」
「ハムレットはオフィーリアを愛していたのか?」
「先王殺しは、ほんとうにクローディアスの単独犯なのか?」
「母ガートルードは、ほんとうにイノセントなのか?」
「オフィーリアの父・ポローニアスは、何をどこまで握っていたのか?」
そういう、いろんなことが、「光る君へ」の展開と、ものすごく良く似てるんですよね。ほんとの話。
一番のテーマは、ハムレット王子のはかりごとはどこまで成功(目論見通り)で、どっからが想定外だったのか、劇の最後の場面でハムレットは「勝った」のか?だと思います。これになるべく明快に回答してくれるのが、良い演出だと思います。
ハムレットQ1は、それ、あったと思います。