幡ヶ谷の話(下書き) | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

古代の関東地方は、大和地方の豪族諸氏がさかんに開拓を行ないました。それにまつわる地名が探せばたくさんあります。
秦氏は、「秦野」「羽田(ハタ、がハネダになった)」「高幡」「幡ヶ谷」「鳩ヶ谷」など。
蘇我氏は、千葉の「蘇我」、小田原の近くの「曽我」
東漢氏(やまとのあや)氏は「綾瀬」(神奈川県と足立区にあります)。
春日氏は「春日部」、日下氏は「草加(クサカ、にこの字をあて、のちソウカと読まれるようになった)」
こうしてみると、なかでも帰化人(最近は渡来人というのがポリティカルコレクトらしいですが)系の諸氏が目立ちます。「新天地」への欲求が強かったと思われます。
「高麗川」も、もちろんそのひとつ。「駒込」とかもそうかもしれませんね。

念のため言っときますが、このころの帰化人(渡来人)のひとたちは「韓国・朝鮮の人達」ではありません。韓国も朝鮮も、この頃よりずーっと後になってできた国の名前ですから(もともと日本人なんて、最初はみんなどっか大陸のほうから来たんですから、帰化人の渡来人の言ったって、ちょっと早いか遅いかの違いだけですよ)

もちろん、現在そこに住んでいるヒトが、みんなその子孫、なワケはありません。千数百年も歳月があるんですから、人間は十回、二十回も入れ変わっています。