光明皇后の創設した「悲田院」を無視する人間には、藤原氏を代表する資格はない、従って天下は取れない | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

登場人物がじわじわ増えていく上に、貴族の肩書が微妙にどんどん変わっているので、ついていくのが大変ですが(追いついていない所がある、かも知れませんが)。

今回の人事異動で特に重要なのは、「伊周が大納言から内大臣になったこと」でしょう。道兼を右大臣に格上げしたうえで、道長、公任、実資らの先任者を一気に追い越して、伊周を大出世させました。

なぜ、道隆はこんなに焦るのか?

道隆は、自分の命が長くない、ということを予感しているんです。

やたらに水を飲む、日差しが眩しい、これは糖尿病の症状です。飲酒癖の道隆は、かなり糖尿病が進行している、これを明確に自覚しているかどうか分かりませんが。

関白の職を、息子の伊周に直に継がせたい。

しかし、大臣でないと、摂政・関白の宣下は受けられない、という決まりがありました。そこで、自分がいつ倒れてもいいように、伊周を強引に大臣に出世させておいたんです。

道隆は、娘の定子を中宮に「ゴリ押し」したのと同じように、息子を関白に「ゴリ押し」しようとした、わけです。

これはもちろん、ますます「中関白家」への宮中の反感を強めます。

そもそも、朝廷というのは官僚制であり、関白以下の官職はすべて「公職」なんです。親が引退したら子がそのまま同じ地位に就く、というのは通らない。総理大臣の息子が総理大臣にはなれないんです。

だから摂政関白の職は、ここまで藤原摂関家の中でも、兄弟や従兄弟の間で持ち回りされてきた。一族の長老格の者が摂政関白を勤めるものだった。

この常識を無視したのが、道隆の父、兼家です。圧倒的権力を背景に、多くの年長・先任の親族を無視して、長男の道隆に関白を直に譲る、ということをやったわけです。

「政治の私物化」です。平安時代であっても、いやこの王朝時代であるからこそ、前例を無視した朝廷の私物化は、極めて、宜しくないことです。

つまり、道隆の一家「中関白家」は、スタート時点から「ごり押し家族」として、宮中の評判はめちゃくちゃ悪かった。

しかし、熾烈な権力闘争の末に権力を掴んだ父の兼家と違い、苦労知らずで関白になった道隆は、そんなに自分が評判悪いということも、認識していない、

道隆も、伊周も、定子も、いま、極めて足元が危ない。雪景色に御簾を掲げて雅に楽しんでる場合なのか、って状態なんです。

以下、昨日書いた内容とダブりますが。道隆は「ゴリ押し批判」を挽回できなかったのか、って話をします。

疫病患者の施設「悲田院」は、奈良時代に「光明皇后」が創設した施設だ、という話をしました。

光明子は、皇族以外ではじめて「皇后」になった女性です。

この話を詳しくしますと。

それまで、皇后には皇族の女性しかなれない、というのが決まりだったのですが、不比等の息子たち四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は、妹の産んだ皇子が確実に天皇になれるように、藤原の天下がいつまでも続くようにと、妹の光明子を「ゴリ押し」で立后しようとします。

反対した長屋王を陰謀で自害に追い込んだりと、大変な犠牲を払って、ようやく光明子は「臣下(藤原氏)出身で初の皇后」となります。

しかし、このあと疫病が大流行して、藤原四兄弟は全滅してしまうんです。「長屋王の祟りだ」と人々は噂しあった、と。

それもこれも、光明子の強引な立后が原因です。

ものすごく似ていますね、いま「光る君へ」で「ゴリ押し中宮」と陰口を叩かれている、定子さまに。

「悲田院」という名前をわざわざ出したことで、歴史を知ってる視聴者に「光明皇后のこと」を思い出させよう、という意図が、脚本家の大石静さんにはあった、と思うのですが、どうでしょう。

光明皇后は、悲田院・施薬院を創設した、という社会福祉活動(パフォーマンスに過ぎぬにしても)のおかげで、後世まで「偉人」「聖女」として語り伝えられています。藤原氏の繁栄はそのお陰と言っても過言ではない、くらいです。

だからこそ、藤氏長者(藤原氏の代表)である関白は、この「悲田院」による疫病対策を疎かにしてはいけないんです。

道隆が、形だけでも悲田院の視察に立って、民衆に「我々藤原氏は、民を見捨てない」とでも言っておけばよかった。

いや、むしろ中宮定子が悲田院に一瞬でも姿を現したら、形だけでも患者に声を掛けたら、「おお、光明皇后の再来だ」と人気は一気に爆上がりしたんじゃあないでしょうか。

しかし、中関白家の様子では、到底そんなの期待できません。「人気を挽回しなくては」という危機感がないのですから。

であれば、藤原氏の中で「徳」のある者が、代わりに悲田院に来なければなりません。それが出来る者だけが「大河ドラマの主人公」になれます。

そこで、代わりをやったのは誰か。

道長と、まひろです。

光明皇后が、悲田院で自ら病人の看病という「ヨゴレ仕事」をやったという「伝説」が、史実か粉飾かは分かりませんが。まひろの姿は、まさに光明皇后の再来である、と言えます。

まひろだって、藤原一族の一人です。つまり、まひろが藤原氏を守ったんです、ドラマでは勿論そんな野暮なことは一言も言いませんけど。

道兼も、いつのまにか善玉組のキャラになってしまってますが、先週の道長の涙の説得が効いたんですね。

これは道長に「徳」があるということです。

徳のある人間には味方が自然に集まる、これが「大河の主人公」というものです。天下は一人では取れません。日本でいちばん強い者が、ではなく、いちばん仲間が多い人間が、天下を取るんです。

NHK大河ドラマ、というのは、時代劇ではなく歴史劇ですから、主人公は一生をかけて「日本を良くする」人物でなければなりません。

土壇場で、死の穢れがどーの、とか言ってる人間は、貴族だろうとなかろうと、天下は取れません。

「お前が来たら、元も子もないではないか」

「私は、死ぬ気がしませんので」

これを言えた人間だけが「主人公」の資格があります。その意味で、ちょっとメタ台詞ですね。

主人公は、死なないんです。徳があるから。