田沼意次はなぜ松平定信を徳川から追い出したのか? それは事業仕分け、特殊法人潰しであって。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

ドラマはあくまでドラマであり、田沼意次は時代劇というドラマ世界では悪役のポジションに据えられるのに格好のキャラクターです。 

「大奥」は歴史劇ではなく時代劇です。ここでは人間は愛憎だけで動きます。つまり、好いた惚れた、色と欲と、恨みつらみ、妬み嫉み、がすべての世界。

歴史上の人物の業績とか功罪とか、そういう話はNHK大河でやればいいんで。民放の「大奥」には、そんなの関係ありません。 

 日本史には、たいてい「二つの常識」があります。
道鏡といえば皇位簒奪、清盛といえば傲慢、富子といえば銭ゲバ、綱吉といえば犬将軍、田沼といえば賄賂政治。

こういうのが「表の常識」。

日本人の多くが、ずっとそう聞かされ、いまだに何となく信じている話です。

 しかし、田沼が「賄賂政治家」というのは根拠のない言いがかりだ、というのは、日本史を多少なりともかじっている者は、みんな知っています。

反対派である松平定信一派による誹謗中傷のおかげで、そういう評価が定着してしまったのを、多くの現代人までもが無批判に受け継いでしまっています。

でも、これが「間違い」だというのは、もはや「本当の常識」となっています。
「普通の世間」と「歴史マニア」のあいだには現実にギャップがあります。 

学校の歴史の先生も、実は大抵「普通の世間」のほうに属していて、いまだに「田沼といえば賄賂」みたいなことを教室で教えちゃう、らしいんですよね。
だから、日本にはそういう、「分かりやすい俗説しか知らない人」が拡大再生産されます。
そして、民放の時代劇は、そういう「普通の世間」に向けて作られています。歴史の本質には興味ない人たち、です。

「ドラマ大奥で、安田顕が宮舘涼太を徳川から追い出したのは何故ですか?」

安田顕は田沼意次、宮舘涼太は松平定信ですね。

歴史上の田沼意次が定信の養子をお膳立てした理由は、ドラマのとは全く別物です。 

歴史上実在の田沼意次と松平定信の話だけをしますので、安田顕や宮舘涼太の顔は一旦忘れてくだされば幸いです。 

 松平定信は、御三卿田安家の次男坊で、有能だから将軍になれたはずなのに、それを警戒したライバル一橋治済が、老中・田沼意次と結託して、将軍候補から外すためにムリヤリ奥州白河松平家に養子に出した。
だから松平定信は田沼をめっちゃ恨んでいて、のちに岩窟王のように復活して、田沼を追い落として自分が老中になると、田沼を六万石から一万石に大減封して遠州相良から奥州棚岡というド田舎においやった。
とってもわかりやすい「報復人事」ですけど。江戸時代の政治ってそんなもの?
なんかくだらない権力闘争だなあ、というふうにも思えてきますけど。

定信、というのは白河松平家に養子に行った時点で、白河のほうの通字を付けた諱です。彼は、この名前になったおかげで「親藩」ではなく「譜代」となり、能力次第で幕府政治に参画することができるようになったのです。
私は、定信というのも一応の人物であり、単なる私怨で田沼を攻撃したり追い落としたりするようなコスイ人間ではない、と考えています。
定信が許せなかったのは田沼の重商主義政策であって、朱子学的な「武士としては当たり前の思想」(日本人は米を作って生きろ、商売なんかは賎しいモノだ)の信奉者である定信にとっては、田沼は「武士にあるまじき邪道政治家だ」と映ったことでしょう。
これはあくまで思想の対立であって、個人的な恨みつらみの話ではないんです。

江戸幕府というのは、世襲の将軍はだいたい飾り物で、実務は全て家来のなかでそこそこ優秀なやつが、その都度、選ばれて順繰りに担当する、という仕組みです。将軍の親族(親藩)は政治に参加しません(できません)。
また、徳川の昔からの家来ではない外様大名も、幕府の政治には関われません。
幕府を運営するのは「譜代」と呼ばれる、三河松平の昔から代々、徳川に仕えてきた家来だけです。
だから、「将軍の孫」である限りは政治に参加できない。彼は徳川から追い出されて譜代大名の養子「松平定信」になったから、のちに優秀さを買われて老中になれたんです。

江戸幕府というのは、官僚制です。
彼らの職業は世襲ではありません。つまり老中の息子だからって老中にはなれません。
だから田沼意次のように業績を挙げて出世して、領地を貰える奴もいるし、その代わり失敗すれば失脚して、容赦なく領地を取り上げられます。
田沼意次も、そういうジェットコースターのような人生を歩んだ人物です。

田沼意次は、十代将軍家治に引き立てられ、異例の出世をして、三河の相良に城と領地を貰います。しかし家治が死ぬと途端に失脚し、城も領地も取り上げられます。
これを松平定信による報復だとするのは、ドラマ的には面白い筋立てですけど。

だいたい、御三卿(とのちに呼ばれる)「一橋」「田安」「清水」というのは、もともと「屋敷の名前」であり、実態は城も領地もない部屋住みです。
御三卿は、八代将軍吉宗が、「自分の子孫で永久に将軍位を独占させたい」と考えて作った、いわば「新御三家」です。が、御三家とは決定的な性質の違いがあります。
 御三家は、家康の息子の下から三人が、城と領地を貰って分家したものです。「いざというとき将軍の跡継ぎを出す資格を持つ」という以外は、他の大名と同じです。領国経営の仕事があり、地元振興、産業育成などに心を砕いているわけです。水戸は江戸定府ですが、尾張と紀州は参勤交代もします。

ところが御三卿は、江戸城の中の屋敷に住み、城もまとまった領地もありません。家臣はすべて幕府からの出向で、飛び飛びにある領地からの年貢の徴収もすべて彼ら幕府の役人がやっていますから、事実上は「幕府から十万石のお手当てをもらい、将軍のスペアとして無為徒食しているだけの存在」です。
いわば、御三家は立派な地方自治体ですが、御三卿というのは本省でポストのなくなった天下り役人を受け入れるための「仕事のない特殊法人」のようなものです。

そもそも吉宗が、将軍になれなかった次男と三男を、他の大名家に養子にも出さず、江戸城内で部屋住みにして、仕事もないのに給料だけ払う、という大甘なシステムを作ってしまったことに端を発します。
大奥の女中のうち美人は全員「おまえらは再就職先があるだろう」といって大量解雇した吉宗も、自分の息子にだけは甘かったのです。つまり、他家に養子に出したら将軍の跡継ぎの資格を失ってしまい、のちのち尾張や水戸に将軍位をさらわれてしまうかもしれない、と恐れたのです。

それにしても、こんな「仕事のない天下りの受け皿特殊法人」は幕府財政の無駄だからと、「事業仕分け」でいったん廃止の方向で決まったことがあります。これをやった中心人物のひとりが田沼意次であるといわれています。
つまり「将軍のスペアなんて一つで充分だ。一橋の跡取りを将軍の養子にして、田安家と清水家の跡取りたちはみな大名の養子に出してしまえば、いずれ三家とも自然消滅して、三十万石の出費が浮くではないか」というわけです(あからさまにそう宣言したわけではありませんが)。その方針のもとに譜代大名のところに養子にやられた一人が、田安家出身の松平定信です。
ところが、田沼が失脚して松平定信が老中として舞い戻ってくると、守旧派との取引で、空家になっていた御三卿システムを復活させてしまいます。その結果、「御三卿だけは、当主がいなくても存続する」という悪しき前例ができてしまいました。
普通の大名家なら、藩士はみんな(名目上)大名個人の家来ですから、その大名に跡継ぎがなければ、藩は解散、藩士は解雇となるんですが、御三卿の家臣団はみんな幕府からの出向なので、こういう変則的なことが通ってしまったのです。

吉宗の思惑通り、御三卿の一橋家から将軍になった家斉は、ものすごい数の子供を作ったことで有名ですが、生まれた子供を片端からいろんな大名に養子に押し付け、勢力の伸張をはかりました。
ここにいたって御三卿は、もはや藩でもなければ家ですらなく、将軍の子供が「めぼしい養子先」を見つけるまでの、便利な待機ポストのようになってしまいます。しかも年収十万石の手当て付きです。まさに「渡り」の温床です。

将軍の次男三男は、御三卿のどれかの「当主」となってチャンスを待ち、どこかで跡継ぎの座が空いたと見ればすかさず養子になって去っていきます。
しかし、空家になった屋敷には、幕府からの出向役人がいるわけです。にわかには本省に戻れませんから、別の誰か将軍の跡継ぎ候補を屋敷に住まわせて形式上、家を継がせないと、仕事をなくして浮いてしまいます。
こういうことって、現代の組織でもよくあるわけですが、「将軍の息子が養子先を見つけるまで待機する」という目的のために作られた屋敷が、いつのまにか、そこで働く役人の職場確保のため「それ自体が存続する」ことが目的になってしまう。という本末転倒なことが起こる。官僚制度の「あるある」です。

話が先走りましたが。
将来こんなふうにならないために、田沼意次は頑張った、わけです。
江戸城内にいたら「将軍のスペアのスペア」として一生飼い殺しだった男の子が、譜代大名に養子に行ったから老中にもなれたんで、田沼に感謝してもいいくらいで。

田沼意次はのちに、松平定信らによる報復人事で、失脚して城も領地も取り上げられた、とされますが。
伊達とか島津とかの外様大名にとって領国というのは先祖代々の「固有の領土」です。
けれど譜代大名は、幕府の仕事をするために江戸の近くに領地をもらっているのだから、役目を免ぜられば減俸されて遠国に国がえになるのは、通常の人事です。
田沼の処遇は少々懲罰的で苛烈に見えますが、今までが貰いすぎだった、ということです。