院政は何故、可能になったのか? 天皇家が財力を集める方法 | えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

院政の開始、というのは「上皇が天皇から権力を奪った」のではありません、「王家(天皇家)が、摂関家(藤原氏)から、政治権力を奪った」ということです。


天皇は、形式的には最終決定権を持っていても、実際には大抵は若いか幼いかで、補佐する大人たちが決めてきたことを承認するしかない、というものです。
平安時代というのは、その「補佐する大人」が、摂政や関白、つまり母方の祖父や親戚の藤原氏だった時代です。
しかし平安末期になって、天皇の父や祖父、つまり上皇が政治権力を奪取する、という、大袈裟に言えば無血クーデターみたいな事が起きた。これが、院政の開始、です。

とはいっても。
「今から院政をはじめるぞ~」と上皇が言い出したところで、みんなに「は? 何ですかそれ?」と言われたら、何にもなりませんよね。つまり「今までの藤原氏(関白)の命令ではなく、上皇の命令を聞いたほうがいい」と皆が思わなければ、「院政の開始」とはならないわけです。
じゃあ、どうやって白河上皇は「関白ではなくオレの命令を聞け」と言えたか。それは、そのころの天皇家が、いままでに比べて、お金持ちになっていたからです。

 藤原氏が摂政・関白として権力を振るえたのは、つねに天皇の外戚になったことももちろんですが、全国から藤原氏の権力を頼って農地を寄進してくる者が後を絶たず、その結果膨大な「荘園」を保有し、とても金持ちだったからです。

荘園とは、ひらたく言うと「家庭菜園」という意味です。
日本中のどこの土地でも、国有地だろうと私有地だろうと、農作物があれば、国が税金を取ります。そうやって国は成り立っているのだから、アタリマエです。
ただし、一定以上の位を持った大貴族は、広いお屋敷の中にちょっとした農地を作っても、そこで取れる農作物には、いちいち税金がかからない、ということになっています。
そこで、大貴族たちは、これを拡大解釈して、地方でがんがん開墾をさせて、「墾田永年私財法」で私有地とすると、事実上誰が見ても農園でも「ここは自分の屋敷の敷地である」と言えば、その敷地内には国司(国の役人)も立ち入れないし、国から税金も取られない(不輸不入の権)、ということになるのです(これを「自墾地系荘園」と呼びます)。

この「屋敷内の家庭菜園には税金がかからない」という特権は、皇族と大貴族と大寺社だけに認められています。地方の武士たちが開墾した農地は、同じく「墾田永年私財法」により私有地として認められますけど、そこでの農作物にはやっぱり税金はかかるんです。
そこで、その私有地を、権力者である京都の大貴族に名目的に「寄進」してしまう。そして改めて自分をそこの管理人に任命してもらう。それで自分の農地はタテマエ上は「貴族の御屋敷のうち」となり、京都の貴族に名目料を納めれば、国からの税金は取られない、ということになるんです(これを「寄進地系荘園」といいます)。

というわけで、平安時代のうちに、日本全国の農地の大半が、京都の貴族か大寺社の「荘園(家庭菜園)」ということになり、国が税金を取れる土地はほんの少ししかなくなります。

当然、国家財政は破綻し、大臣だ何だの大貴族は荘園からの収入で裕福なのに、中級以下の貴族は国から給料が出ない、という事態になります。それでは暮らせないので、下級貴族は上級貴族の「家人」つまり私的使用人になって、護衛をしたり、大貴族の荘園の税を取り立てる仕事なんかで生活するようになります。
「王朝文化」とは、一部の大貴族が国家財政を食い物にして成立していたわけです。

平安後期に、後三条天皇が現れます。母親が藤原摂関家の娘ではない、ひさびさの「藤原氏を外戚としない天皇」でした。 
摂関家と疎遠だった後三条天皇は、荘園整理令を出して、ちゃんとした手続きを経ずに寄進された荘園を、国家に没収するぞ、という政策を始めました。
藤原摂関家との血縁が薄かった(ないわけではないが)おかげで、摂関家に「ヤミ寄進」された荘園も遠慮なくガンガン没収しようとしたわけです。
当然、藤原氏は激しく抵抗しますから、この「摂関家弱体化計画」がどのくらい成功したのかには議論があります。しかし、いずれにせよ摂関家の財産が減って、国家財産が増える、という流れが出来たのは確かです。

ところが、この「荘園」をかき集めて裕福になっていたのは、藤原摂関家などの大貴族だけではなく、天皇家、正確には天皇を引退した上皇もいたんです。
上皇をなぜ「院」というかといえば、引退した天皇は寺院を建てて、そこに住んだからです。
天皇は個人財産を持てませんが、上皇になれば、自分の「院」に寄進を受け付けることができます。政治献金の受け皿組織です。

教科書を読んでると、平安時代の後期に、いままで大人しくしていた天皇家がいきなり「オレが政治するよ」って言い出したら通っちゃったみたいで。なんで?って思っちゃうわけですけど。
実はずっと、天皇家は天皇家なりに自前の荘園をせっせと集めていて、ある時点で手持ちのカードを「はい、フルハウス!」といってオープンした。
これが「院政の開始」ってことです。
寄進された荘園からの経済力で武士たちを雇い都、に集め、その武力をバックに「これから、上皇が政治をすることにするよ」と言い出したわけです。これが「院政」ってヤツです。

 三条天皇は退位後に院政を始めようとした、と言われましたが、ほどなく病気で死んだため、果たせなかったといいます。
その息子の白河上皇には、父・後三条のおかげで、院庁の体裁を整えるための人材を集め、さらに、院庁の警護という名目で「北面の武士」たちを雇って常駐させるだけの資金力があったわけです。
摂関家がちょうど内紛でゴタゴタしていたことも幸いしました。みんな「上皇のほうが力を持っている、上皇の言うことを聞こう」となります。

 一旦こうなると、地方の開発領主たちも、「摂関家に寄進するより、王家(上皇)に寄進したほうが安全だ」となって、上皇のもとに荘園が集まってくることになります。

いつの時代でも、資金力を握ったほうが力を持ち、力を持つ者のもとに人は集まるもんです。