「哀れなるものたち」は、とんでもない傑作だとは思う、エマ・ストーン、そこまでやるか! | えいいちのはなしANNEX

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とんでもないものを、観た。まずは絶賛したいです。

映像の凄まじさは言うまでもない、よく「絵に描いたように美しい」というけど、この映画ほホントに絵に描いたような、つまり「ツクリモノとリアルのギリギリのせめぎ合い」で出来ていて、物語の象徴性、普遍性を主張しています。

 


エマ・ストーンの演技の凄まじさは、もう感動だけど、前半「上手い!」と思っていたら、だんだん描写が過激になり、しまいには「何のそこまでせんでも」っていうシーンの連続になってくる。本人がプロヂューサーも兼ねてるのだから、文句を言う筋合いも心配する必要もないのだけど、なにも好き好んでR15必至の芝居をせんでも充分に素晴らしい映画なのにな、と思って見ていたのだけど。

しかし、終盤に彼女が「元の夫のところに戻る」選択をしたのは驚いたけど、それによって、そもそも妊娠していた彼女が橋から身を投げた理由、もとの彼女が「復讐」するべき対象、妻を虐待して恥じぬ権力者の夫、身勝手な男権を肯定する社会を描き出すことによって、ああ。全部繋がった!  みたいな爽快感すら生まれました。

 

「フランケンシュタインの怪物」の物語は、たとえばカンバーバッジが怪物を演じている舞台(を映画館でやってる、シアターライブ)を何度も見たけど、人造人間を作ったはいいけど、それが醜いと言って捨てる科学者の身勝手さ、それに対する復讐、というのは、たとえば科学の(人間の)傲慢によって生み出されたモノが、復讐してくる、核兵器や原発事故のメタファーみたいにも見えます。

この「哀れなるものたち」は、その女性版ということもあるのだろうけど、本家の男怪物は「醜い」という理由で捨てられ、こちらの女怪物は「美しい」という理由で大切なされる、なんつうか、女って得だよな、と思ってたんだけど。

とんでもなかった。最後まで観れば、これが我々の中の何を告発し、断罪しているのかが、死ぬほど、よくわかる仕組みになっている。

 

これは、エマ・ストーン、人類に偉大な貢献をしたなあ。

だからこそ、R15にならない作り方にしても良かったんじゃないか、ってのも、依然として少しは、あります。

 

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