平安貴族は失脚しても死刑にはならないが、流罪先にどんな目に逢うかは、ケースバイケース。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

平安時代の貴族や皇族の流罪というのは、実質バカンスに近い地方異動から、実質死罪に近いものまで、ケースごとに全く実質が違うんです。

たとえば菅原道真は「太宰府の副長官に左遷」というのが表向きですが、これは実質的には流罪であることは皆さん御承知と思いますが。道真公は、左遷されて書類にハンコ押すだけの窓際族になったのなか、みたいに思ったら、それは全く違います。

貴族の流罪というのも様々ですが、多くのケースでは、配流先の一室に軟禁(または監禁)されて、粗末な食事しか与えられずに(または全く与えられず)衰弱死させられたんです。げんに菅原道真も、大宰府に流されて二年後に死んでいます。緩やかな死罪、というべきです。

薬子の乱から保元の乱までのあいだ、平安時代には死刑がなかった、とか言われますが、貴族は死刑にならない代わりに、実際はこういう目に逢うわけです。

保元の乱の崇徳上皇、承久の乱の後鳥羽上皇、など、いろいろ見てみると、流罪先に早死にした人もいれば長生きした人もいる、流罪先の待遇も様々のようで、「流罪」という文字を見ただけでは、実質にどの程度だったかは分からないんです。

平治の乱のあと源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流罪になりますが、小島といっても川の中州みたいなもので。陸続きです。牢屋に監禁されたわけでもなく、行動は比較的自由で、現地の豪族の娘と恋愛して子供まで作っています。

この扱いの差は何なのか、っていう話をすると、長くなるんですけど、私は「頼朝は、後白河上皇のお声がかりの流人だから、虐待なんかとんでもない、みんな手出しできなかったのだ」と考えています。

その件については以前に書きましたので、こちらを。