源頼朝はなぜ御三家を作って源氏繁栄を図らなかった? | えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

源頼朝は、徳川のように御三家みたいな制度を作って、源氏政権の安定を図れば良かったのに、なんでやらなかったの?

鎌倉幕府のオーナーではなく、雇われ社長だったからです。鎌倉政権の実質は関東武士たちの協同組合であり、トップに源氏将軍がお飾り、お神輿として乗っかっていた、だけです。
いわば株主である御家人たちこそ、鎌倉政権の真のオーナーなんです。
それでも、頼朝は有能な御神輿でした。関東武士たちの利益になる政治をやったので、御家人たちは従ったんです。
頼朝が、御家人たちの利益より、自分の栄達を優先するような振る舞いをすれば、御神輿から振り落とされるだけです。
鎌倉幕府は源氏幕府ではないんですよ。
それにね、御三家を作れば血筋は安泰、かも知れませんが。分家が力をつければ必ず本家を凌ごうとして、内乱の種にもなる。これも事実で。
徳川御三家だって、紀州と尾張は官軍につき、江戸を攻める先頭に立っています。
なんでって、あたりまえでしょう。
徳川家が全滅しないように、御三家というものができたんだ、という言い方が、実はあたりです。
天下が二つに分かれたときは、分家は本家と反対側につくものです。
武家なら、普通のことです。
真田昌幸だけが頭が良かったわけじゃあ、ないんですよ。