足利幕府の体たらく、でも德川家康が「征夷大将軍」になった目的は「鎌倉殿」源頼朝の治世の再現です | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

足利尊氏は1336年11月に「建武式目」を制定し、「鎌倉殿」を称しました、

現在の歴史教科書では、この時点で室町幕府の成立としています。昔は尊氏が北朝の天皇から「征夷大将軍」に任じられた1138年に幕府を開いた、ということになっていましたが、鎌倉幕府がいい国(1192)作ろう、から、いい箱(1185)に変わったように、室町幕府のほうも変わっているわけです。


つまり征夷大将軍という称号は「鎌倉殿」に付いてくるオマケというか権威付けというか、征夷大将軍にさえなれば武家の棟梁になれるというものではなかった、というのが正確なところでしょう。
尊氏は、京都で政権を作ったけど「鎌倉殿」を自称した、つまり鎌倉幕府(とのちに呼ばれる政府)を再興したつもりだったわけで、いずれ鎌倉に帰るつもりだったわけですが、結局、足利将軍は京都に落ち着いてしまって、将軍が「鎌倉殿」であることも忘れられてしまいます。

德川家康が、吾妻鏡を愛読していたというのは歴史的事実ですので、家康にとっての「征夷大将軍」というのは源頼朝=鎌倉殿(つまり、武士の領地を保証する棟梁)のイメージであったことは明らかです。鎌倉殿であることを忘れた武家だか公家だか分からない鵺(ヌエ)のような足利将軍ではないし、ましてや足利義昭の跡を継ぐ気など毛頭ないわけです。徳川家康の目指したのは「頼朝公のような武家の棟梁」であり、その資格としての称号が「征夷大将軍」なんです。

豊臣秀吉は、天下を取って関白になると、大名を次々に国替えします。上杉を越後から会津に、黒田を播磨から豊前に、小早川を毛利から独立させて筑前に、徳川を三河から関東へ、織田信雄を尾張から駿河へ、これは信雄が怒って拒否して、改易されます。
なんで信雄は怒ったか?「尾張は織田家先祖代々の領地だ」だからです。
罪もないのに他所に移される道理は、武士の世界にはないのです。


秀吉にとって領地というのは「石高」という財産に過ぎず、石高を増やしてやるから先祖伝来の領地を捨てて他に移れ、というのは、当たり前の褒美だと思っていた。それで武士がどんだけ不満を持つかが理解できなかった。
上杉だって黒田だって小早川だって、大喜びで転封したわけじゃあないんです。秀吉の力が強大だから、渋々従っただけで。
それもこれも、秀吉が「関白」とかいう公家の親玉だからです。あいつは武家の棟梁という意識(マインド)がないんだ、と日本中の大名が心の底では思っていたんです。やっぱり、将軍がいてくれないと、安心して武士をやってられないんですよ。


だから秀吉の死後、天下の人心は、一気に豊臣から離れたんです。家康が関ヶ原で勝って「征夷大将軍」になったとき、みんなが喜んだ、やっと本当の武家の棟梁が現れた、と。
「征夷大将軍」とは、そういう存在です。
関白でも太政大臣でも何でもおんなじ、ではないんです。