保元の乱で源為義と義朝の父子が敵味方で戦ったってなんで? 源氏はなぜ一族団結できない? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

源氏は、武士だからです。
武士というのは本質的に農場経営者のことです。土地と農民を守るために戦うのが武士です。戦争が好きなのが武士ではありません。
武士にとって土地が命であり、従って、人生最大の課題は「相続問題」です。つまり、兄弟の誰に命より大切な土地を引き継がせるか、です。

ここで、兄弟公平に三等分、なんてヌルイことをやっていたら、武士はどんどん小さくなって弱体化します。だから、土地はまるごと長男が引き継ぐ、弟たちはおとなしく家来になる、という相続法にならざるを得ません。
しかし、大抵の場合、それでは収まらないのが人間ってもので。
親は大抵、黙ってても跡継ぎになれると思ってる生意気な兄より、すり寄ってくる親孝行そうに見える弟のほうが、可愛いものです。
なので、土地を半分弟にやれと言い出す、兄は当然反発して親に逆らう、怒った親は兄を廃嫡して弟に跡を継がせると言う、父・弟VS兄の戦争になる。これはもっともよくあるパターンで、乱のテンプレートと言ってもいいくらいです。


保元の乱の以前、為義が長男の義朝を嫌って、弟の義賢に家督を継がせようとして、怒った義朝の息子(悪源太)義平が義賢を攻め滅ぼしてしまった、という事件がすでに起こっています。為義と義朝の関係はもはや修復不能な状態になっていて、天下大乱となれば敵味方に分かれるのは当たり前だったんです。
武士の世界では、兄弟は産まれたときからライバルであり、身内で争うのは宿命なんです。
そんなのは保元の乱のときの源氏が特別なわけでは全くありません。
平将門の乱はそもそも身内の相続トラブルから起こったものだし、将門を討伐したのは従兄弟の貞盛です。
「平氏は一族仲良いのに、源氏は身内の争いばかり」と言う人がいるけど、大嘘です。武士はいつだって身内で争うもんです。源頼朝と義経、北条時宗と時輔、足利尊氏と直義、いつの時代だって同じです。

 

武士は、と言ったものの、この相続トラブルのパターンは、貴族でも、天皇家でも、地位と財産のある家は、実は同じなんです。

そもそも「保元の乱」ってのは、鳥羽上皇が長男の崇徳天皇を嫌って、騙し討ちで弟の後白河天皇に位を譲らせ、相続権を剥奪したのが根本原因です。
これに、太閤(前関白)藤原忠実が、長男の関白忠通を嫌って、弟の(悪左府)頼長に強引に家督を譲ろうとして対立したのが結びつきました。
さらに平氏も、清盛と叔父の忠正が敵味方に分かれています。


つまり、保元の乱の際には天皇家、藤原摂関家、源氏、平氏、どこもかしこも、親子兄弟が相続権を争って分裂していたんです。
そもそも天皇家と藤原摂関家が親子喧嘩で分裂して争いを始めるから、武士たちの家も「これは、父を(兄を)押し退けて相続権を奪うチャンスだ」ってなるです。一族一丸で、なんて有り得ません。
もう、そういうもんなんだよ人間社会ってヤツは、としか言いようがないんですけど。

こういう「天下大乱のちきは家が分裂しがち」というお約束は、時代が変わっても同じです。

たとえば関ヶ原のときに、真田昌幸(父)&幸村(次男)VS信幸(長男)が敵味方に分かれたのを「どちらが勝っても真田家が生き残るための、とっても頭のいい戦略だ、さすが真田だ」というのが一般的、というより歴史マニアの間では支配的ですけど。
これ、どんなもんかと思うんですよ。


関ヶ原のとき、一族が東西に分かれた家は実は他にも結構あって、たとえば加賀前田家では兄(利長・東軍)に不満な弟(利政)が西軍についています。美濃の関ヶ原まで来ていないから目立たないだけです。
島津も、実は薩摩本国の兄(義久)は中立あるいは東軍寄りだったのに、少数で上方に派遣されていた弟(義弘)が勝手に西軍方で戦ってしまったんです。当時の島津家は義久派と義弘派に分裂していた、ともいわれます。
こんなふうに天下大乱のときには、父に不満な子、兄に不満な弟が、一発逆転を狙って敵方につく、というのは、もうお約束のようなものなんです。


真田だって実は、父と長男の間で関係がこじれたというだけに過ぎない(つまり為義と義朝と同じ)、という可能性は大いにアリだと私は考えています。それが後世の講談(フィクション)の世界では、真田贔屓のバイアスで美化されてるんです。
確かに真田も前田も島津も、大名家として生き残りました。しかし、それは結果論に過ぎない、という気もします。
「どちらが勝っても家が残るように、意図的に東西に分かれた」なんていうのは、買いかぶりです。少なくとも意図してわかれるわけではありません。
大乱のとき親子兄弟が敵味方に分かれてしまうのは、「武士の本能」みたいなものなんです。
敢えていえば、結果として一族が全滅しないように本能がプログラミングされている、というふうには、もしかすると言えるかも知れませんが。

関ヶ原の西軍総大将のはずの毛利家が負けても生き残ったのは、一族の吉川広家が東軍に内通していたから、です。吉川は裏切り者と後ろ指を指されて江戸時代ずっと肩身が狭かったらしいですけど、これは気の毒ってもんでしょう。吉川は敢えていえば「武士の生存本能」として本家に逆らった、と言えるかも知れません。
もし西軍が大逆転勝利してたら、「島津は、跳ね返りの義弘のお陰で生き残った」と言われたに違いありません。
「一族で一致団結したら、負けたとき全滅する」というのは、結果論としては、間違ってません。但し、あくまで結果論として、です。
保元の乱からだいぶ話が離れちゃって恐縮ですが。武士の行動様式は時代が進んでも本質的には同じです。

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