豊臣秀吉は、関白という看板を詐取したんで、バチが当たったんである? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

摂政と関白は、どう違うのか、というと。

摂政は「天皇代行」であり、関白は「天皇補佐」です。

天皇が子供、女性、病気など、一人では天皇の仕事ができない場合に、天皇の行事と政治を代行する職が、摂政。

天皇が成人男子のときは、行事は天皇自身がやるけど、実際の政治は関白がおこなう。

従って、摂政のほうが格上とされます。まあ政治的な権限はほとんど同じなのですが。

つまり「天皇に代わって、実際の政治を取り仕切る」という職です。

じゃあ摂政関白と征夷大将軍はどっちが偉いか、といえば、そりゃ摂関のほうが格上に間違いないでしょ、とみんな言うわけですが。一般論としてはまあそうでも、ケースバイケースでいろいろあるんだ、って話は以前にも書きましたが。

戦国時代の武士たちが、「日本で一番偉いのは、京都の将軍だ」と思っていたのは間違いないでしょう。天皇だの関白だのといった人たちはカテゴリーが別というか、あれは人種が違う別世界の人たちで我々とは関係ない、と思っていたはずです。

だから戦国武将は「ゆくゆくは関白になりたい」なんて発想はしません。

しかし、じゃあ「いつかは将軍に」という目標で生きているかといえば、それもないんです。

「征夷大将軍になれば、天下が取れる」というのは間違いです。逆です。天下を取った人間が、そのとき空いている都合のよい肩書を取るんです。秀吉が天下を取ったときは将軍が空いておらず、どうしようと思ってたら関白っていうのが空いた、じゃあそっちがいいや、っていう以上の意味はありません。
将軍にしろ関白にしろ、家柄が低ければなれない、というのは、取り敢えず本当です。「その職につける家系」ってのがほぼほぼ決まっている、というのは、この国の基本ルールです。

しかし、抜け道は実は、いくらでもあります。「その家の養子になればいい」のです。

この国では、養子が取れない(血統が絶対)のは天皇家だけです(宗教的な崇拝対象だから)。

他の家は、実子がいなければ養子を取って跡を継がせる、というのは普通にあることです。

このへん、日本はわりと融通のきく国なんですよ。

勘違いしてはいけないのは、「将軍を殺すか追い出すかすれば、自分が将軍になれる」ていうわけには全然いかない、ってことです。それをやったら「簒奪」といって、人の道を踏み外した極悪人のイメージがついてしまい、誰もついてこなくなるんです。

だから斎藤道三は守護を追放しても自分は守護にはならなかったし、三好三人衆は将軍義輝を殺しても自分は将軍にはならなかった。信長も義昭を追放しても自分は将軍にはならなかった。強引になれないことはないにしろ、やっぱり、世間体を考えれば、なっちゃいけないんです。

秀吉だって時代を超越した天才って訳ではないから、最初は素朴に「天下を取ったんだから、将軍になりてゃ~でよ~」と思ったに違いないでしょう。

しかし、そのためには、まだ生きてて鞆の浦で頑張っている義昭を、なんとかしなきゃあなりません。

勿論、なんとかってのは、攻め滅ぼすってコトじゃあ、ありません。それやったら、明智光秀と同じになっちゃう。

秀吉が「義昭に、養子にしてくれと頼んだけど、突っぱねられた」てのは、俗説っていわれてるけど、私はあながち嘘でもないんじゃ、と思ってます。将軍になれる家系の一員に合法的になれば、大手を振って将軍になれる、てことです。

しかし、それは不調に終わった。家柄云々より以前に、「だってお前ら、わしを追い出した奴らじゃないか、今更何をいう」っていうことで、義昭にもプライドってやつがありますから。

秀吉としては、朝廷に義昭を解任させて、強引に自分が将軍になったとしても、世間はそれを簒奪ととらえるかも知れません。いかにも「偽物」感が漂ってしまい、はなはだ面白くない。

じゃあどうしよう、と思ってたときに、たまたま五摂家の間で争いがあって、次の関白が決められない、っていうことが起こっていた。

そこに秀吉が乗り出してきて、

「じゃあ、争いを一時収めるために、ワシがおたくの養子になって、関白を預ってやるでよお」って言ってみたら、通っちゃった。

関白になれるんなら、そりゃ、そっちのほうがいいでよ、ということになるでしょう。

五摂家側としても、これは緊急避難で、秀吉の一代限りと考えていたはずです。
ところが秀吉は、まず「藤原秀吉」として関白になり、そのあとで「豊臣」の姓を新たに天皇から貰いました。つまり、これからは藤原ではなく豊臣が代々関白になる、これを天皇が認めた、っていうわけです。
五摂家からすれば、秀吉にまんまと関白の看板を騙し取られたようなもので、憤懣やるかたないところですが、泣く子と地頭には勝てません。

とまあ、要するに「家柄が低いのに関白になれた」のではなく、高い家柄に潜り込んだから関白になれた。

日本ってのは、このテもアリ、の国なんです。

もし信長が長生きしていれば、将軍も関白も、古くさい既成の肩書きなんか要らない、と言って、新しい支配者の肩書き(なんか、総統とか公王とか、的な?)を考えたかも知れません。

しかし秀吉ってのは、そこまで革命的な人間ではない、ハッキリといえば俗物の頂点、ですから、「今ある肩書きのなかで、なるべくいいやつを」くらいにしか発想しなかった、のでしょう。

結果的に、旧体制の象徴みたいな征夷大将軍より、全く新しい、史上初の「武家関白」のほうが、新政権の看板としてはずっと相応しかった、と言えます。

しかし、それは「超天才秀吉が最初から構想していた」なんてもんではなく、多分に成り行き、巡り合わせでこうなった、ということでしょう。

ただし、秀吉はひとつ、大きな間違いを犯していました。

「将軍は子供でもなれるが、関白は大人でないとなれない」

ってことです。

将軍というのはもともと「鎌倉のミニ天皇」であり、象徴に過ぎない、だから子供でも構わない、という先例が、ここまでの歴史で出来てました。

しかし、関白は天皇の親代わりですから、貫禄のある立派な大人でなければなれないのは当たり前。だから関白ってのは親から子に世襲できないんです。藤原氏が「五摂家」というシステムを作って関白を持ち回りにしていたのもそのためです。

こども店長は、おとな副店長が補佐すればいい。こども将軍はおとな執権が、こども天皇はおとな関白が補佐する。しかし、こども関白は笑い話にもなりません。

秀頼が生まれたからと言って、子供のうちは関白にはできない。だから秀吉は、秀頼が成長するまでは関白秀次を何が何でも殺しちゃいけなかった。

秀次を「粛清」した時点で、豊臣家は「関白家のくせに、関白の成り手がいない」という中途半端な非合法政権になってしまった、といえます。

秀吉は、息子の秀頼が成長するまで関白を空位にする、と理不尽な決定をしたまま死にました。これ、元の五摂家にしてみれば、酷い話です。なり手がないなら関白を返せ、というところです。

関ヶ原のとき、豊臣秀頼には何の肩書もありませんでした。豊臣家天下人である根拠はなかった。

家康が勝って、征夷大将軍になると、関白の看板を五摂家に返しました。秩序が戻ってホッとしたことでしょう。これで朝廷は完全に徳川支持になりました。これで天下の行方は決定しました。

大坂の陣で豊臣秀頼が滅んだときも、朝廷が豊臣に全く同情しなかったのは、ごく当然なんです。

「だから、秀吉はやっぱり、関白でなく将軍になっときゃあよかったんだよ」というのは、後から見れてはじめて言える話ですが。

秀吉が将軍でなく関白を取った時点で、豊臣政権は詰んでいたんです。

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