鎌倉幕府の四代目からあとの将軍が「源氏」ではなく、藤原氏や親王になっているのは何故なのか? | えいいちのはなしANNEX

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四代、五代の摂家将軍、六代以降の皇族将軍は、ほぼすべて、母方を辿っていくと源頼朝の同母妹(坊門姫)の血を引いているんです。
頼朝は平治の乱で負けて流罪になる前は京都で貴族をやっていた人です。頼朝の妹は関東に来たことはなく、京都で藤原氏に嫁いでいます。その子孫の貴種(女系の子孫なので、姓は源ではない)を京都から迎えて将軍に据えたんです。
つまり、鎌倉の将軍になる資格は「源氏であること」ではなく「頼朝と血縁があること」のほうが納得感がある、ってことです。

そもそも鎌倉幕府(と後に呼ばれる地方政権)は「源氏政権」ではありません。関東武士団の自治組合のトップに、源頼朝という「雇われ社長」を据えたものです。源氏は、鎌倉政権のオーナーではないんです。
幕府ってのは、形式的には「奥州遠征軍の前線基地」です。京都から、奥州(東北)征伐のために派遣された征夷大将軍が、途中の関東に幕を張って、軍政を敷いている、というテイで成立しているものです。
関東武士たちは、あくまで京都から派遣された将軍の、現地雇用の家来でございます、鎌倉の組織は朝廷の出先機関であり、決して京都から独立しようとかいうものではございません、てことです。
だから鎌倉殿(将軍)は関東地生えの武士ではなく、「京都生まれの貴種」でなければいけないんです。


鎌倉殿というのは、御神輿です。初代の頼朝からして、そういう存在だったんです。
頼朝の血筋が途絶えた以上、次の将軍は関東で探すのではなく、新たに京都から来てもらったほうが「それっぽい」ってことです、頼朝がそうであったように。
つまり、一応ちょっと頼朝と血縁関係があるけど、基本は京都生まれの貴族の子供、というのが、鎌倉で御神輿に載せるのに一番座りがいい、ってことになります。

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