鎌倉幕府の財政の仕組みとは? 将軍が地頭から上納金を集めて運営していた? 違うんだ。 | えいいちのはなしANNEX

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鎌倉幕府によって「地頭」に任命された御家人は、農民からから年貢を徴収して。それを幕府に納める、という仕組みなのか? と思いがちですが、それは違います。
地頭というのは、京都貴族の私有地である荘園の管理官なんですね。年貢は、基本的に荘園領主に納めるものです。
この管理官の地位は、とってもオイシイわけです。これはかつては京都から派遣されていたわけですが、幕府ができて「いやいや、関東のことは、地元のワレワレにお任せください」って、幕府が任命権を奪ってしまった、というのが「地頭」というものです。

源頼朝は京都生まれで、子供のころ、上皇の姉のもとに出仕していたこともある、正真正銘の貴族です。平将門とは違って、京都の上皇や貴族にとっては「仲間」なんです。関東に独立自治政府を作るときも「あの頼朝がトップなら、まあ、仕方ないか、そうヒドイことはせんだろう」ということで、鎌倉幕府(とのちに呼ばれるもの)が認められたんです。
もし関東地生えの北条あたりが「私がトップです」といったら、朝廷は認めなかったでしょう。
というわけで、将軍頼朝は、地頭たちに「京都への年貢はちゃんと送るように」と厳命します。つまり、まずは妥協しとこうぜ、朝廷とケンカしないように上手くやろうぜ、ってことです。
もちろん、時代が進むにつれて、そんな約束はだんだん反故にされ、荘園は「地頭の独占領地」みたいになっていくわけですけど。
御家人たちは、幕府に年貢を納めるのではなく、「いざ鎌倉」という動員がかかったときに自前の軍隊で馳せ参じる、というのが義務です。これが「封建制度」の基本です。

「年貢徴収の手数料」は、地頭になった御家人の収入であり、幕府には上納されません、すべて御家人の収入。そのかわり、幕府から戦争するぞを号令がかかったら、自前で兵隊を揃えて駆けつけなければなりません(これが、いざ鎌倉、です)。
土地の支配権を将軍に認めてもらう(御恩)かわりに、戦争のときは自前で駆けつける、戦争のないときも御用(土木工事なんかも含む)を自前て務める(奉公)、この関係で成り立つ世の中を「封建制」といいます。
将軍が御家人から年貢を取ったら、それは大げさにいえば「郡県制」になってしまいます。これは封建制度の理念とは真っ向反するものになります。
封建制における御家人は、自分の土地からのアガリを独占できる「半独立国の王様」みたいな存在なんです。

では、幕府はどうやって運営されていたかといえば、頼朝は「関東御分国」といって、関東一円の知行国主の地位を手に入れていました。
鎌倉に政権(後世、歴史の教科書で「幕府」と呼ばれるようになるもの)を樹立した将軍家(鎌倉殿)が、朝廷から「知行国」として認められた「支配地域」を、「関東御分国」と呼びます。
この、知行国って何だ。国司とか受領とは違うのか。知行というくらいだから、領地として貰っちゃうのか。公地公民がタテマエだったはずの朝廷が、何故そんなことをしちゃうのか。
ここんとこがわかんないと、話が先に進みませんので、知行国制ってやつの説明を、ざっくりとします。

平安時代の終盤に「知行国」という制度が生まれた背景には、「荘園」の増加と「国衙領」つまり公領の減少、があるようです。
国の税収は、「公田」つまり国が所有する農地からの税金です。
ところが、平安時代も進むと、高級貴族や大寺社の、「荘園」がどんどん増えていき、公田はどんどん少なくなっていきます。高級貴族の荘園は「不輸不入の権」をもってますので、ここからの税収は直接、貴族個人のもとに入ります。政府高官(関白や大臣たち)の個人収入は増えるのに、国の収入は激減、という、困ったことになっていきます。
本来、貴族は朝廷で官位官職をもらって仕事をすれば、それに見合った給料が出るはずでしたが、国が財政危機で、払えなくなってしまったのです。
荘園からの収入がある高級貴族は別にかまわないのですが、中級以下の貴族はたまりません。そこで、摂関家などの家来になって、そちらから収入を得るようになります。「公務員」のはずが、実質上は「関白家の私的な家来」のようになってしまうわけです。

「受領は倒れるところに土掴め」というように、平安時代、中堅貴族にとって、国司(=受領)になるのは、おいしい仕事でした。その国の徴税権を持ち、取った税金のうち国庫に納める一定額を除いたぶんを自分で貰うことができます。
やがて、受領が自分で土地を開発したり公領を取り込んだりして荘園領主になってしまい、最後は「京都に帰ってもいいことがない、土地は持って帰れない」とばかりに土着してしまいます(これが「武士」です)。
平安時代も進むと、地方に新たに国司として赴任してくる受領にとって、「公田」は激減してはいますが、大貴族の「荘園」から税を取る仕事も代行するようになるし、権限を利用して自分で土地をさらに開墾して領主になることもできます。依然として国司(受領)は「オイシイ仕事」です。
しかし、その仕事にありつくためには、人事権を持つ高級貴族に取り入り、実質上の家来になることが必要です。高級貴族たちは、朝廷でも発言力の割合に応じて、自分の家来から国司を任命させるわけです。


平安末期には、「どの国とどの国の国司任命権は誰、と公に認めてしまおう」となったのです。受領のポストを与えた子分を通じて、その国からの収入はまるごと親分のもとに集まる。実質的に国を「領地」として与えてしまうのと同じです。これを「知行国」、この制度を「知行国制」というわけです。
自身が国司になるのとは違って、知行国には赴任する必要は全くないので、複数国を同時に知行国としてもらうことも可能です。三カ国を知行国として貰えば、三人の家来を国司に任じて地方に行かせて、自分は京都にいながらにガッポリ収入を取れるわけです。
たとえば院(上皇)が、おきにいりの貴族や武士、味方につけておきたい大寺院に、褒美を与えようとします。そのとき、自分の手持ちの荘園を与えてしますと自分の腹が痛みます。でも「知行国」を与えれば、これは国の徴税権をやっちまうということですから、自分の懐は痛まないわけです。
いかにも「歴史のアダ花」って感じの制度ですね。だって、根本的な改革は、何にもないんだもの。

「平清盛の最盛期には、平家一門は、あわせると日本の半分を知行国にしていた」と言われます。清盛の家族が、日本の半分の国司任命権=税収を得る権利を持っていた、ということです。
平家は、もはや武士ではなく、国民の労働を搾取する「腐った貴族」そのものになってしまったわけです。
この状況に我慢ならず蜂起したのが、関東武士たちです。「自分たちの働きで得たものは、自分たちのものにしたい」。そこで頼朝を担いで独立戦争を起こし、勝利します。この場合の勝利とは、平家に代わって京都を支配して「腐った貴族の仲間いり」をすることではなく、関東に独立政権を築くことです。つまり、鎌倉幕府(とのとに呼ばれる組織)は、全国支配など最初から目指していないわけです。
関東武士たちが、もう二度と、自分の農場から得る収穫を京都に持っていかれないためには、どうすればよいか。頼朝を「鎌倉殿」という貴族にし、その鎌倉殿に関東全域を「知行国」として与えてもらえばよいのです。これでもう、関東武士は、政治的にも経済的にも、京都に支配される法的根拠はなくなるわけです。
これが「関東御分国」です。腐った貴族の支配から独立するため、腐った貴族が作った制度を借用した、ってことですか。

というわけで、「鎌倉幕府の財政基盤のしくみ」の話に戻りますと。
鎌倉殿(頼朝)は、関東一円の国司任命権を持ち、自分の親族やごく近い御家人を任じます。その国司たちは、任地に赴任するわけではなく、主に鎌倉にいて目代を派遣するわけですが、その国の公領(大貴族の荘園を除いた国有地)から得た収入を得ることができます。
また、幕府の中核を担う北条だ三浦だという有力御家人たちは、自分の領地からの収入を「持ち出し」で参加していました。
これらが何となく合わさって「鎌倉幕府(とのちに教科書に書かれるようになる組織)」の財政基盤になるわけです。

 

 

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