一橋慶喜の家来たちを「一橋藩士」とは言わない。そもそも一橋藩なんてのはない、水戸とも薩摩とも違う | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

御三卿というのは藩でも大名でもありません。

将軍家の御親戚という特殊な身分で、田安、一橋、清水というのは江戸城内の屋敷の名前です。ここに住まわされている「養子待機要員」が、御三卿です。
家臣は幕府からの出向、飛び飛びにある領地も実質幕府が管理している。だから御三家を含む普通の大名なら当然する領地経営の努力ってものがありません。つまり「藩」ではないんです。

御三卿の家の当主であっても、いい養子の口があれば行く。屋敷が空き家になったら、どっかからまた徳川一族の若者を連れてきて屋敷に入れればいい。御三卿は「家」として存続することを目的としていない。つまり大名家でもない。

そもそも、家康が御三家という制度を作ったわけではないし、吉宗が御三卿という制度を作ったわけでもありません。
ここは誤解されがちなところですが、家康が徳川家が断絶しないように深慮遠謀の結果御三家という制度を考えて「これでいくぞ」と宣言したわけではない。
成り行きでそういうふうになった、というだけのことです。
最初から尾張、紀伊、水戸の三つで御三家が結成されたわけでもない。「将軍のスペアの資格のある家が、結果的に三つ残った」というまでのことです。

御三家は、万が一のときに将軍になる可能性がある、という以外は、普通の大名と同じです。家老がいて藩士がいて領民がいる。参勤交代もするし、領地を治める仕事もある。
家康以降の将軍の子供も、将軍になる長男以外は、分家して新しい藩を作るか、またはどこかの大名の養子にいくか、ということになります。
事実、秀忠の息子が駿河藩を作ったり、家光の息子が甲府藩、館林藩を作ったりしてます。
「将軍候補の家は、三つ」というのはべつに鉄の掟というわけではなかったんです。ただ、これらの家は取り潰されたり将軍家を継いで自然消滅したり、ということで、結局、いわゆる「御三家」が残りました。

ところが、吉宗の時代になると、将軍になれずにあぶれた弟に、もう分家させるにふさわしい城と領地がなくなっていた。かといって、将軍の息子に相応しい養子先がおいそれとはあるわけではない。
そこで吉宗は、二人の息子に、江戸城のなかに屋敷を与えて、十万石の収入と家臣団を与えました。
といっても、家臣団はぜんぶ幕府からの出向、領地もあちこち飛び地をかき集めて十万石ぶんにして、税の収納も幕府の役人が代行する。
これが屋敷のそばの門の名前にちなんで「一橋家」「田安家」と呼ばれるものですが、御三家とは違って、大名でも藩でもない、部屋住みの上等なヤツ、いわば高級ニートです。

こいつらのお屋敷は、将軍に万が一のことがあるか、または将軍の弟に相応しいめぼしい養子先が見つかるまでの「腰掛」に過ぎず、いずれ御三家のどこかにアキができれば養子に押し込もう、その際にはまた自然消滅すればいい、という性質のものでした。

しかし、組織というのは得てして、いったんできると、その目的が消滅しても、依然として頑張って存続しようという本能を持っています。政府所管の仕事のない特殊法人がいまだに潰せずゴマンと存在するようなものです。

「一橋家」「田安家」にいったん出向した幕府の役人たちは、たとえ当主が養子に出ていなくなり用済みになっても、自分たちの居心地いい職場を死守しようとします。
領地も領民も、当主すらいなくても、屋敷と組織だけは存在する。こういうバカバカしい状態が維持されることになります。

こうなると、二つというのは弱い。「御三家」に対抗して、同じような家をもうひとつ作ろう、ということで、家重の息子による「清水家」が作られて、「御三卿」という新しいトリオが結成されます。
こうなると、昔からある御三家より、新しくできた御三卿のほうが高級に見えるから不思議なもので。

御三卿の当主は、将軍か御三家の当主にアキができたときに備えて江戸城に住んでるだけの「待機児童」です。
めでたく養子先が見つかれば、家は解散すりゃいいものを、職場を守るためだけに、どっかからまた養子を連れてきて当主にします。
将軍の弟か、それがいないなら御三家の弟でもいいや、とりあえずそんとき年恰好が合えばいい。

もともと親藩は幕府の職には一切就けない仕組みでした。そのうえ御三家と違って領地も領民もない、本来は、御三卿には何もやることがないんです。だから有能な家来がいる必要もなかった。
ところが、幕末になって、黒船はくるわ開国せにゃならんわ、とても従来のような「幕府は徳川の譜代家臣だけで運営する」ってのじゃあ済まなくなってきて、「外様も親藩も、みんなでやってこう」ということになった。
一橋慶喜にも、政治の矢面に立って活動してくれ、って風向きが変わった。
こうなると、一橋にはもともと人がいない。そこで慌てて、ちょっとでも有能そうな人物を、出身地や身分など構わず、どんどん採用していく必要に迫られた、ってことです。
一橋家には、先祖代々の忠義の家来、なんてのはいない。悪くいえば一代限りの寄せ集め、良くいえば、みんな慶喜に見出だされ、意気に感じて集まってる、ってことです。
だから一橋の彼らは「藩士」ではありません。

藩士っていうのは、たとえば薩摩の西郷や大久保のように、先祖代々その藩で生きてきた、だから何があってもお国(藩)のために働く、たとえ殿様が無能でも、というような連中のことです。

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