豊臣秀吉に沢山の男子があれば、豊臣政権は安泰だったか? 否。という、今までの話のまとめ | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

豊臣政権が滅びたのは、秀吉の晩年の政策が破綻していて、天下の人心が秀吉から離れていたからです。
だから、秀吉に何人子供がいたとしても、同じことです。

その子供のうち誰かが秀吉を上回る器量の持ち主で、秀吉の晩年の暴走を食い止められれば、または秀吉の死後に政策の大転換を実現できたら、あるいは、とは言えますけれど(ちなみに「金鯱の夢」はそういう小説ですけど、、それはとても確率の低い、奇跡的な出来事です。

秀吉が不世出の英湯であることは否定しません、その二代目が秀吉を上回る天才である可能性は、まず、ありえません。

乱世から天下を統一した一代の英傑が、「日本のすべてを自分の思想で作り変えよう」という情熱で邁進するのはごく当然で、だから秀吉の仕事は文句なく偉業です。これは否定できません。そのために大名たちの既得権が破壊されていくのも歴史の流れとしては当然なのですが、満天下に不満が鬱積していくのも事実です。
太閤検地というのは、つまりは「一所懸命」で先祖代々守ってきた唯一無二の領地が「数値化」されることです。度量衡の統一というのは、日本中の土地は代替可能であり、「だれそれ固有の領土」という概念はなくなる、ということです。
おまえの領国は五十万石である。よろしい、ならはこっちの別のところに百万石の領地をやるから、前の領地は明け渡せ。二倍の出世だ、どうだ嬉しいだろう? 何も不満を言う必要はないだろう? これが秀吉の「外様大名政策」です。こうして黒田は播磨から九州に、伊達は米沢から仙台へ、上杉は越後から会津に、家康は東海から関東に移されました。みんな喜んで従ったはずはないんです。「おのれ、秀吉め」と、みんな不満を抱えたまま引越しさせられたはずです。
先祖が手塩にかけて守り育ててきた、この唯一無二の領地を、命懸けが守るのが「一所懸命」であり、それを保障してくれるのが「武家の棟梁」というものです。石高が同じなら値打ちも同じ、という秀吉のやりかたは、武士ではなく商人の考え方です。所詮は関白だの太閤だのがトップにいる政権では、武士の心が分からないのです。

そんな「大きいことはいいことだ」主義者・秀吉が、晩年に企画したのが朝鮮出兵だった、というのも、むべなるかな、です。
朝鮮出兵は確かに豊臣政権を潰した「失敗政策」でしたが、では、そうだと分かっていればやらずに済ませることができたかというと、これは難しいんです。
つまり、天下統一事業のために軍事力を増強し、兵士の数を増やし、さあ、もう征服する相手がない、という段になって「はい、みんなご苦労さん、もう戦争はないんで、兵隊は要らなくなりました、みんな農民に戻ってください」と言えるのかどうか。
いままで秀吉に従って戦争をして勝って出世してきた武将たちに「もう戦争はないから、これ以上領地が増えることはありません。みんな、今の領地を充実させることだけ考えて、隣の領地を戦争で分捕ろうとか絶対に考えないように。抱えてる兵隊が余るようなら、それぞれ勝手にリストラしてください」と言えるのかどうか。
勢いがついてしまった政権は、こんな「手のひらを返すようなこと」は決して言えないものです。言ったら求心力を一挙に失うことは明らかだからです。これは、一代で急速に成り上がった政権の「呪縛」です。
だから、「おまえらもっと出世したいか? ならば分捕る領地はまだまだあるぞ、日本の外に!」と言って朝鮮出兵を始める以外に、秀吉の採りうる政策はなかった。
少なくとも「いままでの成功体験」に縛られた秀吉には、この方向にしか発想の仕様がなかった、といえます。
こうして出世して頂点を極めたのだから、最後までこの方法を推し進めるしかないんです。
しかし、朝鮮で戦っている大名たちが、本当に朝鮮だの唐だのに広大な領地が欲しいと思っていたか。今の愛着ある領地の代わりに、訳のわからん異国に広さだけ何十倍の領地を得たとして、それで本当に嬉しいか。ゼロから天下人になった秀吉には、そういう機微が全く分からなかった。
朝鮮出兵が上手く行かなかった根本的な原因は、結局そこだろう、と思われます。

 

 


日本を統一した時点で、豊臣秀吉の人格がガラリを変わって「陽気なイノベーター」から「陰気なコストカッター」に変身すれば、豊臣政権は継続できたかも知れない。でも、そんなのは現実的に不可能です。
唯一の可能性は、秀次なら誰なりの跡継ぎがクーデターで秀吉を排除して実権を握り、「秀吉公が今までしてきた政治は全部チャラです」と宣言するか。もし、これが出来たらその跡継ぎは天才ですけど、これは奇跡に近い確率でしか実現しえません。

結局、いちど朝鮮で大失敗したあと、「秀吉政治を否定できるひと」が皆に担ぎ出されて、大名と兵隊の半分をリストラしたうえで「豊臣政治は全否定、これからは国内の農業だけで生きる、戦争でなんとかしようと考えるヤツは厳罰! 」という新しい政治を始めるしか、なかったんです。
それが「関ヶ原」であり、徳川家康だった、ということです。
家康の作った「江戸幕府」は、封建制の基本に忠実なシステムで、外様大名に領国経営の全権を与え、各藩の内政には一切干渉しない、そのかわり国政には一切口を出させない、という体制を築きました。
よほどの不祥事を起こした場合を除き、煩雑に領地変えを命ぜられたのは本来「徳川の家来」であり幕府の役人をやる譜代大名だけです。
外様大名たちは安心して領国経営に集中でき、各地方の文化がそれぞれ花開いた、ともいえるし、日本全体の経済発展を阻害した、とも言えますが。

一代で天下を築いた英雄は、必ず強力な(強引な)中央集権政策に邁進し、大方の反発を買って一代で潰れます、秦の始皇帝、隋の煬帝、天智天皇、平清盛や後醍醐天皇もそうかも知れない。
そのあとには多少いい加減な地方分権的な政権ができ、少々の矛盾をかかえたまま、ゆるゆると続きます。
中央集権と地方分権は、振り子のように往復しながら、螺旋状に歴史は進歩していくものです。その時、その時でどちらの人材が求められるかで、誰が天下を取るのかが決まります。
戦国乱世を平定するために必要とされたのが信長、秀吉であったことは事実ですが、平定された後の日本をどう運営していくのかという、いわばフェイズが変われば、おのずと別のタイプの「天下人」が歴史に必要とされるでしょう。
それが家康であり、残念ながら「秀吉の正統な構成者」ではなかった。それは仕方ないです。これは小説でも講談でもなく「日本の歴史」の話ですから。
天智天皇も、平清盛も、後醍醐天皇も、織田信長も、沢山の男子がいましたが、結局その政権は消滅しました。
秀吉に何人息子がいても、同じことです。

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