藤原摂関家が「五摂家」に分かれたのは「生き残り戦略」なんですよ。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

く近衛前久、先週久々に出てきて、丹波に隠棲してる、と思ったら。

今週はまた消えちゃいましたね。てゆうか光秀もいきなり本願寺攻めに参加してるし。丹波攻略命令はどうなったんだ?

ところで。

藤原摂関家は、いつかから近衛、鷹司、一条、三条、九条の5つに分裂したようだけど。これは何故なのか?

いいえ、分裂した、という言い方は正しくありません。

まず、摂政関白は直系では世襲できない、ということを理解してください。

平安時代以降の天皇は、子供でも病人でも愚鈍でも務まります。血統のみが重要で、政治をする必要はないからです。

しかし、摂政関白は違います。天皇の親代わりに政治を仕切らねばならないので、それなりに健康で有能な、そこそこの貫禄ある年齢の大人でないと務まりません。

だから、父親から息子に地位を譲ろうとしても、息子がまだ幼かったり愚鈍だったりすれば、皆が許さない。そうなると兄弟、叔父甥、従兄弟で摂関の地位を争うことになる。

藤原摂関家の系図を辿れば、そんなことばっかりやってた、ってのが分かるはずです。常に一族の中で、よく言えば競争、悪く言えば泥試合が繰り返されてきました。

藤原摂関家に強大な権力があるうちは、それでも良かった、むしろダイナミックな活力があった、くらいに言ってもいい。

しかし、保元の乱(これはまさに、摂関家の親子兄弟の対立が主原因)をきっかけに、この強大だった力が急速に衰えてきた。気がついた時には平家だ源氏だ鎌倉だ、という連中に押されて、権力の中枢から滑り落ちてしまっていた。

これはいかん、内輪で無に争ってる余裕はない、というわけで、やがて道長・頼通の子孫が5つの分家に分かれ、その中でも年齢が適当な人間が談合で摂関を持ち回りしていく、というシステムが自然と構築されていったのです。

これなら、跡継ぎが幼くて頼りないからと家来の家に権力を簒奪される心配はない、っていう、言わば生活の知恵なんです。


ずっとのちに「豊臣」という変な奴が現れて、関白の地位を奪って独占しようとします。とんでもない奴です。しかしこいつは、跡継ぎが幼いうちに死んだので、関白の地位を維持することが出来ず、滅亡してしまいました。

関白職をひとつの家で独占し続けることは不可能なんです。そこが分かっていないくせに、関白の地位に飛びついた秀吉は、最初から負けていたんです。

五摂家、持ち回り、というのは、実にウマいシステムです。

日本一の権力者に返り咲くことは無理でも、それなりの地位と財産を分散して維持していった。おかげで明治維新まで生き延びることができたんです。

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