もし豊臣秀吉が、雲の上から関ヶ原の戦いを見ていたら何と言うか?やっぱ家康を殺しとくんだった?否! | えいいちのはなしANNEX

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織田信長の死後、その後継者の地位をめぐって家臣が二派閥に分裂、ついに賤ケ岳で決戦となりました。羽柴秀吉は巧みな多数派工作と異例の高速移動で、すでに開戦前に有利な位置を占めていましたが、勝利が決定的になったのは、柴田勝家がもっとも頼りにいていた直属部下の前田利家が、全く戦闘に参加せずに引き上げてしまったことです。つまり「寝返り」ですが、もちろん秀吉による事前工作が効いていたことは言うまでもありません。
戦略的、戦術的、あらゆる面で秀吉の完勝でした。
はい、秀吉チルドレンの諸君、ここから何を学びますか?

秀吉がもし関ヶ原を雲の上から観戦していたら、「おうおう、さすが家康殿、ワシとそっくり同じ手を真似しおって」と笑ったことでしょう。いやしくも秀吉の後継者を目指そうっていうなら、秀吉が天下を取った賤ケ岳くらい、ちゃんと研究しとけ、ってなもんです。自分の成功体験をいちばん忠実に学習して反復してくれる者こそ、自分の後継者に相応しい。「佐吉はやっぱり、ダメだがや。ワシの後継者はやっぱり家康殿だぎゃあ」って言って笑ってるでしょう。

間違えちゃいけないのは、関ヶ原の時点では東軍も西軍も全員が「豊臣方」だってことです。みんな豊臣家の家臣であり、(少なくとも表看板だけは)豊臣秀頼のお為に戦っているんだ、と言ってます。誰が秀頼の保護者に相応しいか、ってのが関ヶ原の戦いです。
晩年の秀吉にとって、家康は「親友」に近い存在だった、豊臣政権を受け継げるのは家康しかいないと考えていた、これは事実です。
関ヶ原の時点では、誰も「家康が、この十数年後に、秀頼を殺す」とは思ってないんですよ、誰も。
間違えちゃあいけません。

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