応仁の乱のとき、将軍義政は何をしていたのか? | えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

応仁の乱についての最大の誤解は、乱の原因が将軍の跡継ぎ問題だ、と思い込んでいることです。むかしは歴史の教科書にもそう書いてあったので仕方ないんですが。
これは大きな誤解です。
乱のそもそもの原因は、幕府の有力メンバー・畠山氏の相続争いです。それぞれが、幕府の有力者である細川勝元と山名宗全を頼ったため、この両者が派閥を作って対立するようになります。両派閥とも、自分の正統性を主張するための「旗」が必要になります。そこで、もともとなかった将軍家の後継者争いをわざわざ起こさせて、御神輿に仕立てた、というのが現実です。
将軍義政と、その後継者に決まっていた弟の義視は、最初はともに細川方(東軍)にいたのですが、兄弟で意見が対立した結果、義視が山名方(西軍)に走り、「義政ー東の将軍、義視ー西の将軍」という構図に変わります。
もちろん、どちらの陣営も「将軍のため」に戦っているわけでは毛頭ありません。自分の利益のためだけに戦っているんで、敵味方の構成も猫の目のように変わります。そのうち、義政も浮き上がってしまい、中立というより蚊帳の外のようになったのは確かです。が、「何もしてなかった、超然としていた」というのは違います。
乱の結果、義政の息子の義尚が将軍の跡を継ぎますが、義政は「大御所」として若い義尚をコントロールしようとし、反発した義尚とけっこう対立しています。義尚はうるさい父から逃れるために南近江の六角氏討伐に出かけ、遠征先で病没してます。