本能寺の変は、もしかして今川氏真の仕業なのか! | えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

麒麟がくる」は、間違いなく、本能寺の変の真相に向かって、物語が収斂していくことになるはずです。
光秀と秀吉の対決が軸になるから、京都から西の動向が主になりそうで、徳川家康の割合はさほど大きくないかも知れませんが。
実は、本能寺のキーパーソン?として、気になる人物がひとり、います。
桶狭間で討たれた今川義元の息子・氏真です。
今川氏真の評価を大きく変えたのは、なんていっても大河ドラマ「おんな城主 直虎」の尾上松也でしょう。覚えてますか?
若い頃は蹴鞠ばっかりやってたお坊ちゃまで、父の死後は、今川を建て直そうと青筋たてて頑張ったものの、結局今川家は武田と徳川に分割されて滅亡することになります。武将としては、間違いなくヘタレです。
で、今川氏真が徳川家康と落城寸前の掛川城で対面して、尾上松也が「争い事があるなら、戦などせず、蹴鞠で決めればいいのに、そうすれば誰も死ぬことはない、そんな世の中が来ないものかな」という、究極の名言を吐いてました。言いそうだ、あの氏真なら。
実は同じ日、FIFAワールドカップ予選があったんですよ、ちょうどこのあとテレビ朝日で!
狙ったな、NHK。
氏真と家康が、落城寸前に、人払いまでして一対一で対面して語り合う、ってのは、もちろんフィクションでしょう。てゆうか、このドラマの視聴者に向けてのサービスです。
史実は、っていうなら、そんなこと言うわきゃあないですけれど。ドラマとしては、この氏真の心情吐露は正しいです。戦争には向いてない男です。
ああ氏真、最後にいいシーン貰ったな、と思ったんだけど。
ところが、氏真の真骨頂はここからだったんです。
氏真はこのあと、妻の実家・北条に亡命しますが、同盟関係の変化から北条が氏真夫婦が邪魔になり放り出すと、氏真はなんと家康に泣きつき、そのツテで京都に上ります。
すると、蹴鞠と和歌の才能に秀でていたおかげで、京都の公家の間で人気者になるんです。
氏真がそういう教養を身に付けられたのも、戦乱の京都を避けて駿府に下向していた公家が多くいて、京風文化を学ぶことができる環境にあったから、ですが。

今川義元や氏真が「武士のくせに、貴族のような格好をしている」と非難?する人がいますけど、間違いです。彼らは「貴族のような」でなく、「貴族」なんです。
言葉の定義では「貴族=公家+武家」です。武士のなかで貴族の位を持っている者を武家と呼びます。
今川義元も、氏真も、「ああいうカッコをしてもよい(しなければいけない)格式の身分」だからかあいうカッコをしているのです。能力とか武勇とかとは関係ありません。今川義元が桶狭間のときに馬ではなく輿に乗っていたのは「そういう身分だから」であり、太っていて馬に乗れなかったからというのはデマです。
純然たる「武家」とは、貴族である武士の家、ということです。

とまあ、脇道の話が長くなりましたが、今川というのはそういう家です。

貴族は「負けたら潔く死ぬのみ」なんていう倫理観は持っていません。何としてでも生き残るのが、貴族です。
氏真は「戦国大名としての」今川家を滅ぼしたのは事実なので、優秀な武将とは言えないのは確かでしようが、のちに京都で「一流文化人」
としてチヤホヤされたのですから、実はかなり優秀で魅力的な人物だったのでしょう。

「おんな城主直虎」の氏真は、このあと嬉々として?徳川家康の京都エージェントみたいな顔して活躍します。
京都で、織田信長から「蹴鞠を見せろ」と言われて、家来たちは「親の仇にひれ伏すなど!」と反発するんですが、尾上松也は「戦ばかりが仇のとり方ではあるまい」と笑ってみせるんですよ。
あれ~? それどういう意味?
もしかして氏真を「本能寺の黒幕」にでもするつもりかな、このドラマ・・・? と、ちょっと期待させるものすらありましたね。
このドラマでは、家康は信長の横暴のおかげで、妻と息子を殺されてます。信長への恨みを密かに抱えていたという筋は、充分に有り得ます。
だとすれば、信長に恨みをもつ家康と氏真のコンビが、光秀を唆して動かす、ってのはありじゃないか?
と、期待したんですがね。
「おんな城主 直虎」では結局、本能寺は舞台裏でいつの間にか起こって、動機などは全く語られなかったのは、残念でしたが。
氏真がこの時期、京都での文化活動を通じて徳川に情報をもたらしていたのは、どうやら事実です。
家康が今川氏真を養っていたのは、恩義とか同情とかではなく、「役に立つ存在だったから」なんです。
氏真は、家康の家臣というより客分、いわば顧問のような形で、京都の公家との仲介などで貢献します。その功績で、のちに小さいながら城を任されたりしますが、相変わらず戦場では役に立たなかったようで、すぐ解任。最後は近江で5百石の知行を貰って、京都で文化人として生き、最後は江戸で天寿を全うしています。
その子孫は高家として、江戸幕府で実際に京都との連絡交渉で活躍しています。
戦国大名としては戦力外通告を受けながら、蹴鞠の才能だけで所領を得た、氏真こそ日本初のプロ蹴球選手である、ってのは冗談ですけど。
氏真が少年期から身につけていた「公家風の教養」のおかげで、文化人として復活し、とっても幸せな老後を送ることができたのは、紛れもない事実です。
その子孫は江戸幕府に「高家」として仕え、吉良上野介の吉良氏などと並んで、儀式典礼を司る、かなり身分の高い家として幕末まで存続するわけです(ちなみに、織田信長の子孫も、高家になってる家があります、先祖を辿れば敵同士みたいな家ばかりが、同じ高家にあつまってるのも面白い)。

氏真の蹴鞠の訓練は、実は戦の訓練なんかより、よっぽど人生の役に立った、といえます。
そんなふうに思ってみてると、子供の教育なんて、どう転ぶかわかんないけど、「一芸に秀でとく」と土壇場で強いのは間違いないです。