「建武の親政」は朝廷政治の復活ならば、なぜ公家からの反発も強かったとされるのか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

建武の親政、というのが、もともとの書き方です。

親政、とは、天皇が自分で政治をすること、という意味です。特に日本史においては、これは「摂政、関白がいない」という、つまり摂関政治の否定ということです。

幕府(武家政権)が日本の政治を実際には仕切っていた鎌倉時代にも、京都にずっと朝廷というのは存在し、その運営は摂政・関白を頂点とする公家たちがやっていました。

天皇本人はマツリゴトの実務には手を出さない、という仕組みで、平安時代の途中あたりから、ずーっとやってきたんです、朝廷は。

何百年も同じ儀式をずーっとやり続けるだけ、というのが、公家のマツリゴトです。

後醍醐天皇は、こんな古くさい朝廷はチャラにして、政治を全て天皇が行う、という「革命」を断行しようとしたわけです。

いわば、自分が初代皇帝となって中央集権国家を創設するぞ、っていうのが「建武の親政」宣言です。キングダムです、つまり。

貴族(公家)が支配していた平安時代に戻るのではなく、それよりさらに前の時代、天皇が実際にリーダーシップを発揮していた、天武天皇や桓武天皇の頃と同じ日本を建設しよう、ってのが「建武の親政」なんです。

これは、いままで摂政関白や大臣の肩書きを事実上世襲してきた公家たちの立場を全否定するもの、と言っていいわけです。

建武の親政で重用されるのは、後醍醐天皇が「実力」で抜擢したお気に入りの「成り上がり」であり、ずっと摂政関白として朝廷を支えてきた(と自負してきた)従来の公家たちは、排除され、日陰に置かれたわけです。

後醍醐天皇は、理想の国家を建設しようという情熱に燃えた人であったのは確かです。しかし、その理想ってのがあまりに極端で性急で独善的だったので、あらゆる既得権益者から反発を食ったんです。

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