真田幸村の兄・信之の子孫「松代真田家」が、のちに老中まで輩出することができたのは何故か? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

老中をはじめとして、幕府の職につけるのは、譜代大名に限られます。
譜代と外様の分類については、いろんなところで嫌というほど書いてるので簡単に言いますが、要するに「徳川が天下を取る以前から、代々徳川家の家来だった家が譜代」であり、それが江戸時代になって一万石以上になると「譜代大名」ということになります。

幕府というのは三河松平家がそのまんま大きくなったうようなもので、その運営は三河以来の家来どもだけで運営します。つまり「旗本」と「譜代大名」です。将軍のご親戚(御三家、親藩)や、幕府にとってお客様(外様)は、徳川家の帳場や台所には入れません。

真田幸村の兄、信之を祖とする松代真田家からは、のちに老中が出ています。てことは、譜代だ、ってことになります。真田家は江戸城内の控室の割当が譜代と同じ扱いをされています。

真田は、もともと信濃の国人領主であり、豊臣政権では徳川とは(規模はずっと違ったとしても、立場としても)横並びの独立大名でした。ですから、定義としては外様大名になるはずです。

信之は関ヶ原の前に、本多忠勝の娘(家康の養女の扱いで)妻にしたので、この時点で譜代になった」という方がときどきいますが、これは間違いです。

 関ヶ原の前後に、家康の養女を嫁に貰った外様大名は沢山いますが、いくら娘婿になっても、その子供(つまり家康の外孫)が当主になっても、外様は外様です。
ただし、関が原で家康が天下を取る前に「徳川家の家来」になった者や、旗本が江戸時代のうちに大名に昇格したものは「譜代大名」の分類になって、幕府の職につけるのです。そのほか、 いろんな経緯で「外様だけど譜代待遇」される大名、というのも、けっこういます。
つまり、「徳川家のおかげで大名にしてもらえた家が、譜代大名」というふうに定義したほうが実情に相応しい、ともいえます。

信州上田の真田家は、関ヶ原の戦いのとき、父の昌幸(信州上田城主)と、長男の信幸(上野沼田城主)のあいだで意見が対立して、東軍と西軍に分裂します(これを、どっちが勝っても真田が生き残るための深慮遠謀、という人もいますが、これは買いかぶりじゃあないかとも思えます、こういうとき親子で対立して敵味方になる、なんてことは戦国時代にはどこにでも普通にある話です)。信幸は、父と決別して信之と改名します、
つまり、家康に反抗した真田昌幸・幸村親子と、徳川方として戦い手柄を立てた信之は、関ヶ原の時点でまったく別の家になった、ということです。
このとき信之は、父の上田真田家から独立して、沼田真田家として分家し、この時点で徳川の家臣となった、関ヶ原のときはすでに家康の家来であった、というふうに解釈されたわけです。この家は松代に転封され「松代真田家」となります。

関ヶ原で「味方」だった東軍の大名は、みな外様ですから老中にはなれません。
関ヶ原の時点ですでに「家来」だった真田信之の家系は、譜代扱いになり、老中にもなれます。

 


 


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