老中をはじめとして、幕府の職につけるのは、譜代大名に限られます。
譜代と外様の分類については、いろんなところで嫌というほど書いてるので簡単に言いますが、要するに「徳川が天下を取る以前から、代々徳川家の家来だった家が譜代」であり、それが江戸時代になって一万石以上になると「譜代大名」ということになります。
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真田は、もともと信濃の国人領主であり、豊臣政権では徳川とは(規模はずっと違ったとしても、立場としても)横並びの独立大名でした。ですから、定義としては外様大名になるはずです。
関ヶ原の前後に、家康の養女を嫁に貰った外様大名は沢山いますが、いくら娘婿になっても、その子供(つまり家康の外孫)が当主になっても、外様は外様です。
ただし、関が原で家康が天下を取る前に「徳川家の家来」になった者や、旗本が江戸時代のうちに大名に昇格したものは「譜代大名」の分類になって、幕府の職につけるのです。そのほか、 いろんな経緯で「外様だけど譜代待遇」される大名、というのも、けっこういます。
つまり、「徳川家のおかげで大名にしてもらえた家が、譜代大名」というふうに定義したほうが実情に相応しい、ともいえます。
信州上田の真田家は、関ヶ原の戦いのとき、父の昌幸(信州上田城主)と、長男の信幸(上野沼田城主)のあいだで意見が対立して、東軍と西軍に分裂します(これを、どっちが勝っても真田が生き残るための深慮遠謀、という人もいますが、これは買いかぶりじゃあないかとも思えます、こういうとき親子で対立して敵味方になる、なんてことは戦国時代にはどこにでも普通にある話です)。信幸は、父と決別して信之と改名します、
つまり、家康に反抗した真田昌幸・幸村親子と、徳川方として戦い手柄を立てた信之は、関ヶ原の時点でまったく別の家になった、ということです。
このとき信之は、父の上田真田家から独立して、沼田真田家として分家し、この時点で徳川の家臣となった、関ヶ原のときはすでに家康の家来であった、というふうに解釈されたわけです。この家は松代に転封され「松代真田家」となります。
関ヶ原で「味方」だった東軍の大名は、みな外様ですから老中にはなれません。
関ヶ原の時点ですでに「家来」だった真田信之の家系は、譜代扱いになり、老中にもなれます。