親藩大名というのは二重表現。「藩」と「大名」は意味がダブるので、単に「親藩」というのが妥当です。
将軍の娘が嫁に行っても、将軍の息子が養子に行っても、それだけでは親藩にはならない、行った先の分類になる(外様大名の養子になれば、将軍の息子でも外様、ってこと)。
親藩も跡継ぎがなければ養子をとるが、親藩は親藩からしか養子を取れない。だから親藩の当主は必ず家康の男系子孫になる。御三卿というのは、江戸城内の屋敷に住んでいるだけで、領地経営をしない、家来は幕府からの出向、つまり「藩」でも「大名」でもない(将軍の御親戚という扱い、田安、一橋、清水というのは江戸城内の屋敷の名前)。だから普通は「親藩」には含めない。とはいえ家康の男系子孫だから、扱いは親藩に準じます。
親戚と家来は、まるで違います。
三河松平家の時代から、代々、ずーっと徳川に仕えてきました、というのが「譜代」という意味。
江戸幕府というのは三河の田舎大名がそのまんま大きくなったもんで、その運営は家来どもだけで行う。「老中」だの「若年寄」だのというのは、要は徳川家の御家老、じいや、という意味。花輪くんの家でいえばヒデじい。
政治というのは面倒な金勘定でありヨゴレ仕事だから、殿様の御親戚の手を煩わせることはない。徳川家の台所や帳場には、家来(譜代大名と旗本)しか入れない。親藩(将軍のご家族)や、外様(幕府にとってはお客様)は、一切、入れない。この仕組みが、江戸幕府が長続きした秘です。
将軍になる可能性がわずかでもある者は幕政に参加しない、というのが徳川幕府。
保科正之はどうなんだ、と言われそうだが、彼は保科家に養子に行った時点で徳川の人間ではない、ってことで執政となった、いわば特例。のちに松平を与えられて御家門に列したが、正之は終生、保科を名乗り続けた。
松平定信は、吉宗の孫だけれど、田安家から白河松平家(親藩ではなく譜代)に養子に行ったので、この時点で将軍継承権を喪失している。だから老中になれた。
幕末の、一橋慶喜(将軍後見職)、越前松平春嶽(政治総裁職)、会津松平容保(京都守護職)は、幕府が末期状態で親藩も動員しなければならなくなった、ということで、これも例です。