幕末の「公武合体」と「尊皇攘夷」というのは、思想的にどう違うのか? | えいいちのはなしANNEX

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みんな誤解してる、っていうかいまだに長州に騙されてるんだけど、「尊王攘夷」と「尊皇攘夷」は、ぜんぜん別物なんです。 

尊王攘夷は、「正統な君主を中心に担いで、異民族の侵略に対抗しよう」っていう朱子学の根本思想です。

王ってのは皇帝個人のことじゃなく、正統な君主という抽象概念。

 攘夷というのは侵略を許すな、侵略してくる異民族を打ち払えって意味で、外国人と付き合うなとか、商売するなとか、そういう意味じゃあないんです。

 朱子学は幕府の官学なんだから、「尊王攘夷」は日本人の基礎教養です。日本が侵略されてもいい、なんていう日本人は、一人もいない。 

ところが、頭のいい(ズル賢い?)長州人が、これを「尊皇攘夷」と書き換えた。

尊皇というのを、孝明天皇という個人のことだと(わざと?)誤読し、「天皇は外国人が嫌いだって言ってるんだから、開国して外国人と付き合おうとする幕府はけしからん、倒してもいいんだ」という討幕思想にすり替えた。

頭の悪い下っ端の「志士」たちは、抽象概念なんか理解できないから、こっちのほうが受ける。そうか、外国人を殺して幕府をやっつけりゃいいんだな、と考えちゃうわけです。

公武合体の「武」ってのは幕府のこと。具体的にいえば天皇の娘を将軍と結婚させるというセレモニーをやって、天皇は幕府を熱烈支持してるよ、幕府の支配権を天皇が改めて公認したよ、って見せつけること、つまりは幕府権力強化作戦のことです。

 ということで「公武合体」と「尊皇攘夷」は、幕府を守る、と潰す、の正反対の政治運動です。

天皇を尊敬しようなんてのは日本人なら当たり前の話で、それをわざわざ言うのは「こっちのほうが、もっと尊敬してるもん!」って、突っ張りあってるだけです。

 長州の「尊攘」というのは、尊王攘夷ではなく尊皇攘夷という過激思想だから、最初は誰にも相手にされなかった。日本を良くしようと思ったら、まず幕府を改革しようって発想するのが現実的でしょ。

その方策が公武合体。会津も薩摩も、そう考えてた。

 しかも、肝心の孝明天皇が、実は熱烈な幕府支持だった。外国人が生理的に嫌いなのは本当だけど、外国人をなるべく穏便に遠ざける仕事は幕府がやってくれるものだと考えてた。

孝明天皇は実は長州が大嫌いだったんですよ。

 だから、天皇のまわりの上級公家も、みんな幕府シンパだったんです。

「朝廷=反幕府」という図式的な理解は大間違いです。

そこで長州は、朝廷の中でうだつの上がらない中級以下の公家にシンパを増やそうとした。それで乗ってきたのが三条実美たち「七卿」。

こいつらは、長州流の「尊皇攘夷クーデター」に協力して、成功したら、関白だなんだを追い出して朝廷のトップになれる、と思ったんだわな。 

ところが、クーデターは失敗、孝明天皇は激怒、三条らは長州に逃亡。 

しかし、長州はめげない。「天皇は、薩賊会奸に囚われていて、本当の気持ちが言えないのだ!」と言い出して、軍隊を率いて京都に乱入、御所に向かって鉄砲を打ち掛けるという暴挙にでる。これが「禁門の変」または「蛤御門の変」です。

幕末の難しい(面白い?)ところは、薩摩も朝廷も内部に激烈な対立があって、その抗争の行方次第で藩全体、朝廷全体の方針がコロッと変わってしまう、ということなんです。

それは、言ったら長州だって実はそうなんで、跳っ返りの一部過激藩士が無茶を繰り返しているうち、いつのまにかそれが藩論になってしまったり。

しかし結局、「尊皇攘夷」なんてスローガンは幕府を倒すための口実、方便に過ぎなかった、ってことは、維新後に維新の元勲たち(もと跳っ返り)の誰も、攘夷なんて言わなくなることからも明らかです。

結局、尊皇攘夷と公武合体は思想的にどう違うのか、なんて真面目に論じても、あんまし意味はないんです。

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