平安時代以降の賜姓皇族は、源か平しかいないのか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

平安時代の初期までは、皇族が臣籍降下するたびにそれぞれ名前を考えていました。おもに枝分かれするした元々の天皇にちなむ姓です。
近江京に拠って戦って敗れた大友皇子(弘文天皇)の子孫が、淡海氏。
天武天皇(飛鳥浄御原のみかど)の子孫が、清原氏。
高市皇子の子孫が、高階氏。
平城天皇(昔の都である奈良で反乱を起こした)の子孫が、在原氏。
みたいな感じです。

天武天皇の息子で、兄の平城上皇との戦争に勝った「嵯峨天皇」は、たくさん作りすぎた皇子たちを整理するため、全員一律に「源」の姓を与えて臣籍降下させました。ついで、自分の甥たちを、平城京を作った桓武天皇の子孫であるからと「平」の姓を与えてまとめて臣籍降下させました。「本場中国ふうの一文字姓」がカッコイイという嵯峨天皇のセンスです。


このとき「源」姓になった嵯峨の皇子たちがけっこう政界で活躍したこともあり、これ以降の天皇の子孫も、新しい姓をもらうより、あやかって「源」になりたがるようになります。そこで、最初は嵯峨天皇の例にならって、天皇の子が臣籍降下するときは「源」、孫以下のときは「平」を与えられる、ということになったのですが、だんだん「源のほうが平よりカッコイイ」ということで、誰も彼も源になりたがるようになります。
「源」か「平」は、好きなほうを選んでいいというものではなく、天皇の子か孫かで決まるもの、だったはずなんですが、そのうちグダグダになり、皇族の子孫はみんな源になります。平は、最初に嵯峨天皇から与えられた桓武平氏のほかは、ほとんど子孫が残っていません。

代々木駅前のドコモタワー、クリスマスまでは「ツリー色」。クリスマスが終わると正月色に変わってました。ラグビーワールドカップの間は赤白のジャパン色、サッカーの大会があると青くなる。頑張ってるなあ、て感じ。

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