乙巳の変の首謀者は中大兄皇子ではなく軽王(孝徳天皇)である、というのは、いまや「異説」や「奇説」ではなく、主流になりつつあるんです。
軽王の姉である皇極天皇は、舒明天皇の皇后であったから皇位についているのであって、自身は舒明天皇の長子・押坂彦人大兄皇子の孫にすぎません。つまり皇位から三代も離れています。その弟の軽王も同様であり、黙っていれば皇位なんか望むべくもありません。
それに比べて、中大兄は、舒明天皇と皇后(現役の女帝)の長子なのですから、待っていれば皇位にもっとも近い、とまでは言い切れませんが、さりとて暴力的な手段に訴えなければ浮かばれない、というような立場だったか、どうか。
手段を選ばず強引に政権を取りにいかなければならないのは、軽王のほうです。
実際、聖徳太子の子・山背大兄王とその兄弟姉妹を皆殺しにした事件の実行犯は、軽王です(これはしっかり記録に残っています)。蘇我入鹿にそそのかされたとか、あるいは気が弱いから脅されていいように使われた、というのは「後からの説明」に過ぎませんし、裏で入鹿が糸を引いていたという証拠もないんです。案外、軽王の単独犯行かも知れないくらいです。
軽王が、ライバルの有力皇族をひとつづつ潰していく「リチャード三世」タイプの野心家であった、というのは充分に必然性のある推論です。
女帝が信頼して政治を任せていた蘇我入鹿が、本当に何としても討伐しなければならないような暴君だったか?これがいちばん怪しいところです。
想像するに、ベテラン陰謀家の軽王が、まだ若造である中大兄を「このままではオマエの目はないよ、だって入鹿はオマエの兄の古人大兄を考えているんだから」とでも囁いて丸め込んで、一味に引き込み、クーデター事件を起こした、という見方が、いちばんありそうです。女帝の息子を引き入れておいたほうが成功率が高い、という計算づくだったろうと思われます。
クーデターの成功により、軽王が予定通り皇位につき(孝徳天皇)、その妻・小足媛の父である阿部内麻呂が左大臣(政府のトップ)に。中大兄の妻・遠智姫の父、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣(ナンバー2)になりました。
この陣容を見れば、明らかに「孝徳ー阿部ライン」が主、「中大兄ー蘇我倉山田ライン」が従です。孝徳が単なる傀儡であれば、こうはならないはずです。
孝徳は実権を握った天皇であり、中大兄のほうがこの時点ではまだペーペーの若造だった、というのが実際のところ、と思われます。このとき皇太子になった、というのもいかにも怪しい、だって孝徳にはちゃんと(阿部氏出身の妻が生んだ)有間皇子という跡継ぎがいたんですから。
歴史は、あとから勝者によっていいように書き換えられます。その「いいように書いた」のが鎌足の息子・不比等である(それこそが日本書紀)ということを考えれば、このへんの経緯にはつねに眉にツバをつけておくのが妥当です。
ここから、数々の暗闘があり、多くの人間が粛清された挙句、孝徳は実権を失い、難波宮に置き去りにされ、憤死するに至ります(このとき、孝徳を見捨てて去った皇后が、間人皇女、中大兄の同母妹です、近親相姦疑惑はここから来ています)。
孝徳が絶頂からどん底に転落した、この間、どのような暗闘があったのか、日本書紀だけでは正確なところはわかりません。
中大兄の兄であり正妻(倭媛)の父でもある古人大兄を暗殺したのは誰か。
中大兄の岳父である蘇我倉山田石川麻呂に謀反の罪を着せ殺したのは誰か。
孝徳と阿部小足媛の子である有間皇子に謀反の罪を着せて殺したのは誰か。
とにかく、おびただしい血が流れたあとで、どうにかこうにか実権を握ったのが中大兄です。
こういうとき、ホイホイと自分がすぐに天皇になってしまうようなヤツは、世論の支持が得られず、たいていロクな終わり方をしない、というのは日本史の鉄則です。
中大兄は、「自分が天皇になりたくて、いっぱい政敵を殺した男」というふうに見られたら致命的であり、叔父である軽王=孝徳天皇の二の舞になる、ということが分かっていたはずです。ホントは、聖徳太子と同じように、最後まで天皇にはならずに政治がしたかったのかも知れません。怨霊が怖い、というのも当然あったでしょう(そういう古代の感覚を甘く見ては間違います)。
中大兄皇子は、最後まで「天智天皇」にはなりたくなかった、というのも、充分にアリな推測です。