楠木正成はなぜ最後まで後醍醐天皇の味方だったのか? 田舎武士ほど尊王家に見える理由は? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

楠木正成は「悪党」と呼ばれた者たちの代表です。
「悪党」とは、幕府の御家人ではない、つまり「武士とは認められていない」非正規戦闘集団のことです。


幕府というのは、将軍が御家人に対して「土地の所有権」を保証し(御恩)、その見返りに御家人は軍役を果たす(奉公)という仕組みでできています。つまり、一にも二にも「土地」を通じて成り立っている「農業第一主義政権」です。
しかし、世の中の商品経済が盛んになるにつれ、「商業」を計算に入れていない幕府システムはだんだん上手くいかなくなり、御家人たちは困窮しはじめます。
そこで相対的に浮かび上がってきたのが、西日本で力をつけてきた、商品流通で収益を挙げる者たちです。


彼らは武装はしていますが、「土地所有」がメインではない、つまり一所懸命でない者たちですから、幕府システムには入れない、「御家人」にはなれないのです。幕府の命令を聞く必要がない彼らは「タチの悪いヤツラ」、悪党と呼ばれました。その代表が河内の楠木正成です。
彼らは「正規の武士ではない」として卑しめられた、御家人からは一段も二段も低く見られた存在です。
幕府を打倒して新しい政府を作ろうとした後醍醐天皇は、幕府から差別された「悪党」勢力と、困窮して幕府に反感をもつ「御家人」勢力をともに味方につけて、幕府を滅ぼします。
後醍醐の考えた新しい国家とは、天皇を絶対君主とした中央集権システムです。「御恩と奉公」の封建制は否定され、御家人の特権はなくなります。つまり雑草の「もと悪党」がエリートの元御家人たちと肩を並べられる世の中になるわけで、楠木正成たちの望んだのは、こういう世の中です。


しかし、元御家人の武士たちは、こんな世の中なんざ望んでいませんでした。彼らにとって後醍醐は「とんだ当てハズレ」です。そこで、鎌倉幕府でナンバー2だった足利尊氏を皆で御神輿にのせて、「武士ファースト」の「幕府」を復活させたのです。
「土地持ちだけが一人前の武士」という時代に戻ってしまったら、楠木正成らは、また「武士ではない」と差別される「悪党」に舞い戻ってしまいます。だから、何がなんでも「天皇ファースト」の後醍醐についていくしかなかったんです。
「後醍醐が正統な天皇」というのは、客観的には何の根拠もありません。極端にいえば本人がそう言ってるだけです。むしろ、まったく新しい「初代皇帝」になろうと夢見た人です。その後醍醐が作ってくれるであろう「全てをガラガラポンした、新しい世の中」でしか、楠木正成たちには「日が当たらない」のです。
以上、なぜ「悪党」たちは「後醍醐天皇」に最後までついていったのか、という話でした。
「正成が忠義に厚い立派な人物だから」というのは、物語の中ではそうなってますが、それは「歴史」ではありません。

悪党がおもに西日本に発生したのは、流通経済の発達がはやく、農業中心のシステムからはみ出す者が多かったからです。
悪党は幕府体制に入らない者を差していますから、悪の意味は「bad」ではなく「irregular」でしょう。
今でも、京都・大阪の文化人の方々は「農業絶対主義」の「幕府」という存在に対して反感を隠しません。梅棹忠夫、梅原猛、司馬遼太郎、最近では出口治明先生(ライフネット生命創設者、立命館アジア太平洋大学学長)などは「幕府は日本人から活力を奪った最低の政権だ、江戸時代の日本人のん平均身長がやたら低くなったのがなによりの証拠だ」と言ってます。


江戸幕府を倒した明治維新政府の主力はすべて京都より西の出身者です。薩長はいずれも農業よりも商業利潤(密貿易を含む)で力を蓄えた勢力です。
「幕府システム=農業絶対主義」に反抗し続けた悪党・楠木におおいに共感して持ち上げたのは、当然のところのように思えます。

 

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