宇喜多秀家は、どんだけの人物だったのか? | えいいちのはなしANNEX

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宇喜多秀家は、あまり有能とはいえない「坊ちゃん大名」です。

戦国の梟雄・宇喜多直家の遺児ですが、秀吉の

養子になり、豊臣の一族のようにチヤホヤと育てられ、関ヶ原では「豊臣家のために」勇猛に戦ったそうですが。

関が原について熱く語る西軍ファンの皆さんが、なぜ「宇喜多騒動」についてほとんど触れることがないのか不思議でならないのですが。

秀吉の死後、宇喜多の家中が真っ二つに分裂して、その一派が大坂の宇喜多家の屋敷に立てこもった、という事件です。このとき秀家自身は何ら有効な手を打てず、結局は徳川家康の裁断で争いの片方が追放処分となります。この結果、宇喜多家の勢力は大幅減になります。しかも、その追放された一派はのちに徳川の家臣になっています。

これを「腹黒い家康が、宇喜多家をまんまと分裂させて弱体化した」というストーリーで語るひともいますけど、そもそも自分の家中が分裂していることにも無頓着で、騒動が起こると慌てて他人の世話になるあたり、そもそも戦国の世に大名ができる器量の人物ではありません。これがなぜ、秀吉に寵愛されて「五大老」の一人に名を連めているのか、不思議でなりません。

ウィキペディアの「宇喜多騒動」の解説には、その原因のひとつとして秀家の素行の悪さを挙げ、

「秀吉譲りの豪奢を好み、そのツケを領民への苛斂誅求で補おうとした。鷹狩を好み鷹を100羽飼っており、その世話のための家臣を300名抱えたとされる。また、鷹の餌のために領民に飼い犬を差し出させた。 」

としています。まあ、負けて滅んだ人物について後世あることないこと悪く言われるのはセオリーですけど、少なくとも優秀な領主ではまったくなかったことが知れます。

戦国大名というのは軍人である以前に政治家であり、「現場で兵隊をうまく指揮すること」よりも「その現場に、ひとりでも多くの兵隊を連れてくるために、しっかりと領国の統治をすること」のほうが何倍、何十倍も優先されます。家臣にも領民にも慕われていない大名が、戦場で働きができるはずがありません。

宇喜多隊が名目上、数がいたとしても、「この殿様を勝たせたい、天下を取らせたい」と皆が思っていない以上、烏合の衆です。宇喜多秀家個人が戦場でいかに勇猛だったとしても、それで人はついてきません。

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