秀吉は出身身分が低かったから将軍になれなかった、のか? | えいいちのはなしANNEX

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「秀吉は農民出身だから将軍になれなかった、だから関白になった」って言うのは、あからさまに理屈としておかしい。
それは「将軍は源氏しかなれない」という俗説をいまだに信じている人が言ってる虚説である、そもそも、将軍になれないものが関白にならばなれる、なんてはずがない。
というのが、普通の回答ですけど、細かく検討しようとすると、いろんなところで「諸説ありすぎ」なのが、この話です。
・まず、秀吉はそんなに貧農の出身ではない、という説もあります。意外と「豪農」「地侍」といっていいくらいの家だったのではないか、とも言われています。「貧乏人出身」は、逆に秀吉の自己宣伝だ、ということです。
・信長が「将軍でも関白でも太政大臣でも、好きなものになってください」と言われたか、それとも自分から「将軍、関白、太政大臣のどれかにしろ」と要求していたのか、これは史料の読み方でどっちにでも解釈できるため、定説はありません。
・源氏でなければ絶対に将軍にはなれない、というのは大嘘。だって藤原氏の将軍も皇族の将軍も現にいるもの。でも、足利将軍が「源氏の長者」をあわせて名乗っていた時期があったので、「将軍は、源氏の長者がなるもんだ」というなんとなくの常識が当時あったのも事実。
・より権威の高い関白にはなれたのだから、将軍にだってなろうと思えばなれたに違いない、とううのは、果たしてどうだろうか。

 追放されて落ちぶれた足利義昭に「養子にしてくれ」ともちかけ、それを断られてので、征夷大将軍になるのを諦めた、という話は、眉唾という人は多いですが、ありえない話ではありません。
 当時、義昭はれっきとした現役の征夷大将軍です、辞任なんかしてませんから、「元将軍」ではありません。室町幕府の将軍が京都から追い出されて流浪する、なんてことは実はしょっちゅうあったことで、珍しくもなかったんです。
 義昭は毛利領の鞆の浦から、しばらくは全国の大名に「オレを奉じて信長を討て」という手紙を書きまくっていた、つまり盛んに政治活動をしていた時期もあったので、「落ちぶれ」ていたというイメージは如何なものか、というのもあります。
 秀吉が、将軍になろうと思えば、朝廷にこの義昭の位を剥奪させねばなりませんが、朝廷ってのは自分で手を汚すのを嫌うので、秀吉が自分で義昭を滅ぼすか説得するかしないといけません。これは秀吉にとっては、意外と面倒くさい話で、そこまでして何がなんでも「将軍」になりたいかって言われると、そうでもないな、と考えた、というのが妥当かも知れません。

 鎌倉幕府 にも摂家将軍や皇族将軍がいたように、源氏でなければ将軍になれないというのは俗説に過ぎないのと同様、「征夷大将軍になれば幕府を開けて、日本の支配者になれる」とい うルールがあったかのようにいうのも、誤解です。
 鎌倉幕府と後世呼ばれる組織(当時は幕府なんて言葉はなかった)は源頼朝が征夷大将軍になるずっと前から自然発生的に出来上がったもの で、室町幕府 はその後継組織として、なんとなくその仕組みを模倣したに過ぎません。つまり、結果としてそうだった、前例がそうである、というだけで、「征夷大将軍」が日本最高の権力を保証する肩書きである、なんて考え方は、実は、ないんです。
ですから、秀吉は、自分で「将軍」ではなく「関白」を選んだのだ、と考えたほうが妥当です。
 室町幕府の「ていたらく」の記憶が生々しい時代、今更、あの義昭と同じ「征夷大将軍」を名乗っても、あまり立派そうに思えない。いままでの「情けない室町 将軍」の跡継ぎになっても、あんまりたいしたことと思われない。むしろ、「その上をいく地位」になって、皆をびっくりさせ、「新しい世の中が始まるんだ」 と思わせたかったんだというのが、妥当な解釈だと思われます。
 日本史上はじめての武家関白、カッコイイじやないですか。秀吉、いかにも「史上初」とかが好きそうですから。
 「王」を殺して成立したフランス革命政府のなかから、新しく現われて政権を握ったナポレオンは、いまさら「王」になるのではなく、「皇帝」という、フランス人が誰も見たことのない光り輝く称号を名のった、それと同じです。
 秀吉は、将軍よりずっと格上の肩書として「関白」というのを見つけて、「こりゃあ丁度いい」って取ったんです。その気になれば、強引に摂関家の養子になったり、天皇から新しい姓を貰ったり、いくらでも横車は押せるってことです。
だから「将軍になれなかった」というよりは、新しいモン好きの秀吉は「あえて、新味 のある関白という肩書を取った」と考えたほうがいいんじゃないでしょうか。

じゃあ家康が、秀吉が捨てた「征夷大将軍」を敢えて取ったのは何故か、これはまた別問題ではありますが。言ってしまえば「新しいモノで驚かすのが好きな秀吉」と「古いモノで安心させるのが好みの家康」の、キャラの違い、と思っておけばいいんじゃないですか。
ちなみにどっちも、ホントは源氏でも平氏でもない です(たぶん)、でも、日本人は「そんなのは実のところどうでもいい」と思ってる、けっこう融通無碍な民族なんです、実は。
関白は平安時代から江戸時代のあいだまで、それこそ何十人といますが、すべて藤原氏の本家から出ています(鎌倉以降は「五摂家」と呼ばれる五家の 持ち回りです)。そこに強引に割り込んで、武家で関白になったのは、豊臣秀吉と、その養子である二代目の秀次のみです。
秀次が「謀反」の疑いで切腹させられたあとは関白は置かれず、江戸時代になって五摂家に戻されました。徳川は「関白は要らない」と判断した。つまり「武家関白による政権は、うまくいかない」ということが分かったからです。
どうしてか、といえば、基本的には「御恩と奉公」で出来上がっている武家社会のトップはやっぱり将軍でないと皆が安心できない、関白などという公家のトップには武士たちの心はつかめない、ということです。
そんな肩書き、どうでもいいだろう、というわけにはいきません、これは「正しい封建社会」をきちんと運営していく意志と能力があるかどうかの問題なんです。本気で論じたら長くなりますので、また改めて。