「源氏物語の作者は紫式部」。本当にそうか? 実は「ほかにも作者がいる」という説は根強い。 | えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

「源氏物語」には、「雲隠」という、何も書いていない巻があって、そのあとに「宇治十帖」と呼ばれる、次の世代の物語が続きます。この世界では、すでに本編の主人公、通称・光源氏はこの世にいません。
つまり「雲隠」の巻で主人公は死ぬわけです。その場面が、何も書いてない。
紫式部は、どうしてこんなトリッキーな構成にしたのか。どうして光源氏の死を描かなかったのか、それとも、どうしても書けなかったのか?

宇治十帖は紫式部の作ではなく、別人が付け足したものである、という説は昔からあります。文章を科学的に分析すると宇治十帖の文体、構成には、そこまでの章と有意な差があるんだそうです。「紫式部の娘、大弐三位が書き足した」としている文献もあるんだそうで。
 私にはこの説の当否はわかりませんけど、「宇治十帖って、なんかテイスト違うよね、なんか暗いよね」っていう違和感を感じている日本人って、実は多いようで。これを素直に解決するためには、「紫式部が人気に押されて、気が乗らないけどしょうがなく書いた」とかいうより「別人が書き足した」というほうが、納得できるような気がします。

そもそも当時の物語には、著作権も版権もありませんし、作者の名前が表紙に書いてあるわけでもありません。ですから、誰が続編を勝手に書いても誰にも怒られないわけで。そもそも「源氏物語」というタイトルも後世の人間がそう呼んでるだけだし、「紫式部」というのも本名ではなくペンネーム、というかアダ名みたいなもんですから、藤原為時の娘、という女性があの物語をぜんぶ一人で考えて書いた、って当時の誰も断言してはいないわけです。

井沢元彦に「GEN―『源氏物語』秘録」という小説がありまして。若き日の角川源義が源氏物語のなぞをとく、というすごい小説ですけど。ここで源義は、じゃなくて井沢氏は、「源氏が地方に左遷されている巻は、別人があとから挿入したもので、紫式部の書いたオリジナルは、主人公が一直線に出世して太政天皇に上り詰める物語なのだ」という説を唱えています。そのほうが、登場人物が途中で消えたりする矛盾が消え、辻褄が合うんだそうです。興味ある人は読んでください。角川文庫から出てます(笑)。

 平家物語が、琵琶法師が語り伝えるうちにエピソードがどんどん足されていったように、源氏物語にも、別の作者の「二次創作」が付け足されたり挿入されたりしていれも、さほど不思議ではありません。

この説は、「逆説の日本史」にも出てきます。 井沢氏は「これは藤原氏によって表舞台から葬り去られた源氏(賜姓皇族全体)への鎮魂の書として、道長が作らせたものだ」と、例によって断言します。紫式部のオリジナル主人公は「あくまで光かがくスーパーヒーロー」だたんだ、ということです。
なので、源氏が左遷された部分や、絶頂を極めたあとに出家する部分は、「この主人公のキャラにはもっと陰影があったほうがいいんじゃないか」と考えた別の仏教的教養人、たぶん僧侶が書き加えた部分である、というわけです。


まあ、アタリとも違うとも証明できないでしょう。源氏物語は写本、写本で伝わったものなので、「原典にあたる」というのが不可能だからです。
ただ、宇治十帖に感じた違和感のようなものはけっこう一般的だとすると、「源氏物語作者複数説」は意外とアリかなという感じが、私にはします。

とすれば「雲隠」がタイトルだけで何も書いてないのは、「最初から、そんな巻はなかったから」というのが、いちばん理屈に合う推論です。


主人公(通称光源氏)の「死」を書ける人間がいるとすれば、それは彼を生んだ紫式部本人だけです。さすがに二次創作者たちには、光源氏が隠れる物語なんて、恐れ多すぎて、絶対に書けません。

 「光源氏の次の世代」の物語を書こうと志した誰か(紫式部の娘?)は、まず設定として、光源氏が死んだ、ということを書こうとしますが、すぐ「ムリ!」と筆を投げます。「ここに、お父様は死にました、っていう巻があったとことにするから、あと、誰かヨロシク!私は若いイケメンたちの物語を書きま~す」みたいなことではないかな、と想像します。
いや、全くの想像ですよ。

源氏物語を崇拝している人からは、ボロクソ言われそうですけどね。「私の神聖なモノを汚すな」って。
でも、こういうことって、何か「偉大な文学者の複雑な頭の中を推察する」みたいなことでなく、単純に思考したほうがアタると思うんです。

あなたもスタンプをGETしよう